第1話 VS堕天使 その3


  ※※※※


 長いあいだ空を睨んでいたラッカは、「あっちか」と言いながら、ふっと首の方向を北北西に変えた。

「――それに、トーリってお兄さんもいる!」

 彼女はそう言うと、ジャンプ。田島アヤノがハンドルを握る黒いスカイラインのボンネットに着地し、再び立ち上がった。

「ちょ、ちょちょちょ!」

 アヤノは車内の揺れに耐えきれず、シートベルトを外して運転席のドアを開けた。

「なにやってるの!? ラッカちゃん!」

「ごめん、アヤノ。ちょっと行ってくる」

 そう答えるとラッカは手足を使って車の屋根によじのぼり、もういちど直立不動になると、ゆっくりと足腰を屈めていった。

 ぎし、ぎし――と、車体のフレームとバネ構造が歪んでいく。

 アヤノが「行ってくるって、どこに――!?」と叫びながら車を降りた、その瞬間、


 ガンッ!


 という鈍い響きとともに、ラッカは車の上から消失していた。たぶん、それは跳躍するための足音だったのだろう。

 アヤノが車の屋根を確かめると、そこには、大きな鉄の凹みができていた。

 それは、人が残した足跡にしてはあまりにも大きく、深かった。

 まるで、巨大なオオカミの爪が食いこんで丸ごと金属の板を引き千切ったかのように、八本の切り傷が車体の屋根に刻まれていた。

「え――?」

 アヤノは、ただ、その場に呆然としたまま取り残されていた。


  ※※


 日岡トーリは拳銃――グロック17――を構えながら校舎の陰に辿り着いた。そこで、普段から背負っている筒状のナップサックから狙撃銃も取り出す。豊和M1500だ。

「警備部、聞こえますか? 獣人が既に殺戮を開始している模様。至急、応援を求めます」

「了解。例の獣人の件は聞いてる。こちらは到着まで10分ほどかかる。それまでは獣人捜査局に足止めを求む」

「了解。あまり期待しないで下さい」

 トーリは狙撃銃にスコープを装着しながら、

 ――それじゃ遅いだろ!

 と、心のなかだけで不満を漏らした。すぐに構え、壁からほんの少しだけ身を乗り出すようにして周囲の索敵を開始する。

 そのとき。

 校舎の、廊下側の窓がバリバリと紙屑のように割れると同時に、グラウンドの上空、完全体のカラスが舞い踊っていく。

 トーリはイヤホンに問いかける。

「獣人体を目視。本部、聞こえるか? 未成年の死者を多数確認。シルバーバレットの使用許可を再度要請する」

「――許可しました」

 その言葉を待っていたとばかりに、トーリは、鈍い銀色に輝く30-06スプリングフィールド弾をボルトアクション式のスナイパーライフルに装填する。当然ながら、ただの銃弾ではない。

 ――シルバーバレット。獣人の肉体に着弾すると同時に不可逆の猛毒を大量に流し込み、連中の再生能力をほとんど無効化する。22年前に開発され実装された、人類唯一の武器。

 トーリは狙撃銃のスコープ越しにカラス型の獣人を捕捉した。

 敵の鳴き声が耳を突く。

「ガ――ガァ――ガアアッ――!! ギャ、ギャハ、ギャハハ!!」

 笑い声なのだろうか。そう聞こえる。

 ずいぶんと楽しそうだな、とトーリは思った。

 引き金に指をかける。

 不意に、警察署のベテラン刑事からの着電。

「なんです?」とトーリがイヤホンに訊くと、

「私立L学園女子陸上部が調査終了しました」と相手は言った。「いましたよ。名前は津島マナオ。半年前に器材トラブルで両脚損傷、それ以来、車椅子で登校しています。界隈じゃあ将来を嘱望された天才ランナーだったそうですわ」

「へえ。なるほど」

「彼女の凋落と入れ違いに脚光を浴びたのが、最初の被害者、野田ヒカリです。で、そんな野田ヒカリの子分が第二の被害者、鈴木タカコ」

 そこまで言ってから、ベテランの刑事はため息をついた。「ここまで分かったら、誰でも察しはつきます。抒情酌量に値する怨恨ですな」

「彼女が人のままだったら、裁判もできましたね」

 トーリはそこまで言ってから、再びカラスに照準を合わせて――そのとき、もうカラスはどこか遠くに飛ぼうと翼を羽ばたかせていたのだが――トリガーを引いた。

 火薬音。

 シルバーバレットが発射される。

 薬莢が吐き出される。

 弾丸は獣人の、つまり、津島マナオの右翼に命中していた。

「悪いが」とトーリは言った。「津島マナオさん、君はもう人類の敵だ。大人しく狩られてくれ」

 彼の視線にあるのは獣人だが、心に置かれていたのは校庭に投げ出された大量の死体だった――そして、かつて失った自分の両親であった。


「ギャ!」

 間抜けな声が喉からひねり出される。人の銃に撃たれた獣は、銃などというものが自然に属していないからだろう、大地から生まれた獣そのものの、誇り高い声を出すことなどできないのだ。

 カラスは――津島マナオは、弾丸の痛みにうめきながらそれでも飛ぼうとして、叶わず、数百メートルの空中を泳いだあとで眼下の空倉庫へと墜落して、そのままトタンの屋根を破った。

「くそ!」とマナオは思った。「せっかく楽しかったのに! せっかくイライラが晴れたのに、なんでこんな目に遭わなきゃいけないの!?」

 空倉庫は私立L学園の移転前旧校舎グラウンド跡地に建てられていて、数週間後には、輸送会社の商品保管に使われる予定だという。現在は、ステンレス製のゲージとパレットの他はなにもない。空っぽだ。

 次の瞬間、何者かのボタン操作でシャッターが落ちた。窓も、扉も、全てがシャッターの向こう側にある光を失い、暗闇になった。

 ――なんなの!? と、マナオが焦りながら周りを忙しなく見渡していると、若く、低い男の声がした。

「片翼が落ちた君はもうシャッターも壊せない」

「誰!?」

「警視庁獣人捜査局第7班、班長、日岡トーリ」

 俺は獣を殺す狩人だ――と、その若い男は、つまり日岡トーリは言った。

「じきに警備部の応援部隊が到着する。大人しく投降しろ。せめて研究所送りにはしてやれる――」

「ふざけんな!」

 マナオは左翼の羽根を何本かむしると、声のするほうに飛ばした。だが、トーリには命中しなかった。かわされたのか?

 こいつ――!

「カラスは」とトーリは言った。「本来は昼行性だ。夜目はさほど効かない。要するに、暗視ゴーグルを持っているニンゲンには敵わない」

 この学園を調べたとき、最初に目についたのが今の空倉庫だった。ここに誘き寄せて暗黒を用意すれば――局員一人だけでも、後天性の獣人程度なら対処できる。

 そうトーリは言った。

「津島マナオさん、君の事情は知ってる」

「ああ?」

「女子陸上部の出来事のことも調べたよ。できれば穏便に済ませたい。獣の殺しは人の法では裁けないが、君には君の償いがあるだろ?」

「――く、くく――」

 マナオは笑みがこぼれてきた。なに言ってんだろ、この勘違い男は――。

「地べたを」と彼女は吐き捨てた。「地べたを這いつくばるような競技なんか、もう今のあたしにはなんの関係もないんだ」

「本当か?」

「日岡さんがマジであたしより強いなら、さっさと撃ち殺せばいい。それができないのは、実は、あたしの力を警戒してるからなんじゃないの?

 ――こんな風にさあ!」

 そう叫ぶと、マナオは左翼だけで突風を巻き起こす。空倉庫に置かれていたパレットや金属棚が宙に舞って、トーリの声がするほうを目がけて飛んでいった。

「な――!?」

 トーリは咄嗟に避けようとする、だが、ぶつかってくるモノの量と大きさを相手にどうすることもできない。そのまま全身を打たれて、3メートルもあるステンレスの下敷きになった。口のなかでも切ったのだろう、唇から血が漏れている。

 実際に見たわけではないが、獣の嗅覚で分かる。

「アハハハハ!」とマナオは笑った。「応援部隊が来るまでの時間稼ぎがずいぶん無駄になっちゃったね!」

 勝ち誇りながら、マナオはトーリに近づく。

 だんだん目も慣れてきた。正確には分からないが、誰がどこにいるのかくらいは把握できる。

「あたしのこと分かったようなこと言ってさ――」と彼女は言った。

「じゃ、じゃあ――なんであたしが辛いとき助けてくれなかったんだよ! 誰も! 誰も! 誰もさあ!! 今さら媚び売って優しくすんなよ!!」

 憧れの選手だっていたんだ! 母親の反対を押し切って頑張ってたんだ! そういうのをぜんぶ台無しにされたんだ! お前らにあたしの気持ちが分かるか!? 分かんないなら――みんな死んじまえ!!

 独り残らずニンゲンはみんな狩ってやるんだ!!

 彼女はそう怒鳴り散らしたあとで、トーリに近寄ると、ゆっくりと、剣のように片翼を持ち上げた。

 その姿をトーリが下敷きになりながら睨んでくるのを、彼女は、サディズムに満ちた気持ちで見下ろしていた。


 が。次の瞬間。

 鉄のシャッターが完全に破壊された。東京の日差しが空倉庫のなかに差し込んでくる。

「え――!?」

 マナオがそちらを向いた瞬間、

 彼女は――カラスは、何者かに吹き飛ばされていた。

 そう。

 右腕にドッグタグを巻いた、白銀の巨大なオオカミがカラスの体を蹴飛ばしていた。


  ※※※※


 オオカミの姿を見た日岡トーリは、最初に、

 ――敵が増えたのか!?

 と思った。

 だが、白銀のオオカミはそのままカラスに近寄ると、相手が完全な獣人体に戻る前に首を掴んで、ほとんど力任せに向こうの壁まで投げ捨てた。

 ブン、と空を切る音がしたかと思うと、直後、耳障りな衝撃音がする。

 空倉庫の金属棚に立て続けにカラスの体がぶつかり、最後にコンクリート壁に打ちつけられた彼女のもとへ、鉄塊がいくつも倒れていくのが見えた。


 ――このオオカミ、俺を助けたのか?


 トーリが訝しんでいると、オオカミは次に、獣人らしい二足歩行で彼に近づいた。そうして、彼の体を下敷きにしているモノを簡単にどけていく。

 壊れたシャッターから日差しが降り注いだ。オオカミの右腕に巻きついているドッグタグに、このときトーリはようやく気づいた。

 昨夜、上野警察署の留置所で出会った、箸の使いかたも知らない不良少女が同じものを身に着けていたことを思い出す。

「まさか、ラッカなのか?」

「ウ――ウウウ―――ウウ」

 オオカミは首を上下させると――頷いているように見えた――少しずつ人間の体に戻っていった。

 長い白髪を後ろでひとつにまとめている。意志の強さを伺わせる太い眉の下に、蒼灰色の鋭い瞳。少女にしてはやや筋肉質な、身長のある肉体。年齢は、十代後半から二十代前半といったところ。

 ――彼女はラッカだった。

「間に合ってよかった」とラッカは言った。「トーリ、ピンチだったろ? スーパージャンプしてダッシュしてきたんだ」

 そんなラッカの質問に、トーリは答えない。

「なんでここに来た?」

「? なんでって――」

「俺が獣狩りの、獣人捜査局の人間って分かってるのか!? 自分が獣人って世間にバレたらどうなるのか、ちゃんと知った上でここに来たのか!!」

 思わず、彼は声を荒げてしまった。

 ――理解できない。こんなことをしても、ラッカのほうにメリットがない。

 獣人として全国区域でマークされ、災害動物として駆除対象になるか、研究材料として実験対象になるか――いずれにしてもロクなことにならないのだ。

 ラッカは、しかし、そんな彼に動じなかった。

「分かっててここに来たよ」と彼女は答えた。「カップラーメン、おいしかったから」

「え?」

「東京に来てから、初めてまともに私の話を聞いてくれたのもトーリだよ。一宿一飯の恩義は大事にしろって、母ちゃんが言ってたからな」

 それから、にっかり笑う。

 ――そんなことで?

 トーリは立ち上がるが、すぐに体に痛みを覚えてその場にうずくまる。骨は折れていない、が、ダメージは予想よりも大きい。

「大丈夫?」とラッカは言って、右腕のドッグタグを首にかけ直してから彼に手を差しのべてきた。トーリは彼女の手のひらを握らず、自分だけの力でゆっくりと体を起こし、

「ここから今すぐ逃げろ」

 と言った。

「えっ?」

「じきに応援部隊が来る。そのとき、ラッカがここにいて同じ獣人だと判断されたら終わりだ。俺も庇いきれるか分からん。今のうちに遠くに行って、せめて、俺の目に入らないようにしてくれよ」

 トーリはそこまで言ってから咳き込み、

「――それと、助けてくれたことは礼を言う」

 と頭を下げた。

 ラッカのほうはきょとんとした顔のまま、彼の話を聞いていた。

 トーリはスーツの上着を脱いでラッカにかけた。いちど獣人体になったことで体格も変わり、彼女の衣服の類は全て破けてしまっていたらしい。

「これも着とけ。目が寒い」

「トーリ――」

 彼女がなにか言おうとしたそのとき、壁の向こうで音がした。

 カラスが――津島マナオがまだ生きている音だった。


「ガァ――ガ、ガアア――!」

 と。

 カラスのうめき声がしたかと思うと、バン! と鉄塊の隙間から獣人体の彼女が飛び出した。既に片翼で空気を捉えるコツは掴んでしまったようだ。

 彼女を押し倒していたガラクタが風で舞い上がり、再びトーリを狙う。

 ラッカはすぐにその場から駆け出し、人間体のまま高く跳び上がると、目視確認、そのまま彼にぶつかりそうなものだけを選んで的確に蹴りを入れていった。

 軌道がずれる。トーリに当たらない。

《なんだよ、もおお――!!》とカラスが叫んだ。《せっかく殺せそうだったのに、なんで邪魔すんだよ!!》

「なあトーリ!」とラッカは怒鳴った。「これって、狩りだよな――!」

「ああ!?」とトーリはうめく。「そうだよ!」

「遊びじゃないよな!?」

「当たり前だ! 何人死んだと思ってんだ!?」

「オッケー!!」

 ラッカは笑った。

 本気の狩りなら、ここからは野生の獣同士、本気で殺し合っていいんだ。

《死んじまえ、オオカミ女――! あたしの気持ちを分かんない奴は、みんな死んじまえ――!!》

 カラスは獣の声で叫びながら、天井近くの上空からラッカに襲いかかると、そのまま彼女の体を掴み、シャッターの穴を抜けて上空に舞い上がった。

 高度が少しずつ増していく。10m、20m、30m、40m――。

「うわ、高っ」とラッカは言った。

《アハハハハハ!》とカラスは笑った。《陸の上でどんなに強くたってさ、オオカミなんかさ、空じゃなんにもできないじゃん!》

「ふーん」とラッカは答えた。「だから空を飛んでみんなのこと見返したかったのか」

《ああ!?》

 激昂するカラスに、ラッカは答えない。

「関係ないね」とだけ、彼女は言った。

「私はケモノのなかじゃ、いちばん強いんだから」


 鮮血。


《アアアアアアアア――!!!!》

 カラスの、マナオの絶叫が響いた。オオカミの牙が彼女の肩口に食らいつき、ぶしぶし、と、鮮やかな動脈血が心臓の鼓動に合わせてポンプのように傷口から押し出される。

《い、痛いっ――!? 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――!!》

 カラスの悲鳴など気にせず、白銀のオオカミはただ、

「ウオ――オオオ――オオオオ――!!」

 と。

 ときおりオオカミ特有の遠吠えを響かせながら、何度もカラスの体に噛みついて、口もとをべったりと血で染めていった。


 オオカミ。

 それは博物学者シートンを驚嘆させた誇り高き獣の王。あるいは「大神」の異名を持って祀られる信仰の対象。

 キリスト教の世界では、か弱き羊飼いの仇敵として憎まれる邪悪な悪魔の化身。

 そうして、子どもたちが紐解く童話の世界では、常に例外なく悪役のバケモノ。

 要は、人間が獣に抱く、あらゆる敬意と憎悪を一身に引き受けた、最も純粋で野蛮なケダモノの名前が、オオカミなのだ。


 最後にカラスは――マナオは、オオカミの両手の爪に胴体を八つ裂きにされると、スプリンクラーのように心臓の血を空中へとまき散らしながら、元々いたグラウンドのほうに墜落していった。

 カラスは地面に叩きつけられたあと、命からがらに逃げ出そうとする。それを、難なく校庭に着地したラッカはじりじりと追いつめていった。

《や――やめろ! 来るな!》

 カラスは叫びながら、最後にもういちど羽根を振りかざそうとする、のだが、ラッカはそれを右脚で力強く踏みつける。骨が、バキバキと割れる。

「ウウウ――ウウ――!!」

 もう、両方とも翼はなんの意味もなくなった。

「オオオオ――!!」

 オオカミは叫んだあとで、両腕でカラスのクチバシを掴んだ。


 上の嘴と、下の嘴を、それぞれ逆方向に、力任せに曲げていった――鳥の口もとが不可逆に、ぱっくりと開いていく――もはや、採食器官でさえ彼女が抵抗できないようにしていった。

 そんな現場に、

「よせ、ラッカ! もういい!」と、トーリの怒声が聞こえた。

「? ウ――ウウウ、ウ――?」

 オオカミは振り返る。そこには、グロック17を構えるトーリが立っていた。

「もう狩りは充分だ、ラッカ。あとはこの獣を楽にさせてやる。――それでいいだろ」

 トーリはそう言うと、ゆっくり、ラッカのほうに歩み寄った。そして、鈍い銀色の9ミリパラ弾が入ったマガジンを拳銃に装填すると、カラスの頭部を狙い、

「動くなよ」と言った。「せめて苦しまずに済むところを撃つから」

 発砲。

 銃身がスライドして、薬莢が飛び散り、銃身が戻る。シルバーバレットは、正確にカラスの脳髄を破壊していた。

 トーリはゆっくりとため息をついた。

 ――後天性の獣人を狩るときは、いつも、胃に鉛が沈んだような疲労感を覚えた。少し前まで人間だった、事情もあった、が、もう獣だという事実。理性はともかく感情のほうは常にあとからついてくるしかないのだ。

「ラッカ、人間体に戻ってくれ」と彼は言った。「そのうち、本当に警備部隊が来る。もうあと戻りはできない。俺がなんとかしてやるから、今は言うことを聞いてほしい」

 トーリはそう言うと、オオカミの双眸を見つめた。


 不思議だ、と彼は思う。

 これまで獣人捜査局員として、ラッカのような獣人には出会ったことがない。大抵の場合は、今回のカラスのように力を持て余して暴れ回る後天性の連中か、あるいは、人の命をなんとも思わない環境で生きてきた先天性のケモノばかりだった。

 だが、目の前にいる彼女は上京してから、二度も人を助けている。

 一度目は、少年グループにリンチされていたホームレスの老婆を。二度目は、俺を――そして、このカラスに脅かされていたこの学校、この街の人を。

 ――そういう獣人とは、この種の状況では、初めて出会ってしまった。

 トーリの目の前で、ラッカはもういちど人間体に戻っていった。

 やがて大型車両の音が聞こえ、トーリのイヤホンに連絡が届く。警備部の連中だろう。

「到着した。獣人捜査局員の報告を願う」

「ああ――もう解決しました。人を脅かす獣人は、ここにはいません」

「え――なんだって?」

「カラス型獣人の死亡は既に確認。生き残った生徒と学校職員の避難をお願いします」

 それから――と、トーリは付け加えた。

「洋服を。いや、羽織れるものならなんでもいいです。持ってきてください」

「どういう理由で?」

「裸の女の子が、校庭に立っています」

 トーリは答えながら、自分の言葉のバカバカしさに呆れ返っていた。

「はぁっ!?」

「裸の女の子が、ここにいるんですよ」

 通話を打ち切る。――俺は、こんなところでなにをやっているんだ。

 だが、もうカラスの死体には、オオカミの噛み跡も爪跡もしっかりと残っていた。彼女の存在を隠し通すことはできないだろう。

「悪い」とトーリは呟く。「ラッカ――こうなったら、人間側の都合にもちょっとだけ付き合ってもらうぞ」


 だが、ラッカのほうは別のことを考えていた。太陽の光が降り注ぐなかで、日岡トーリという男の顔を至近距離で見つめた彼女は、彼の顔が――平均的な27歳の男性と比べて遥かに整っているということは置いておくとして――なにか自分の脳を刺激するものがある、と、そう感じていた。

 もしかしてだけど、このトーリってお兄さん、まさか――あのときのヒトなんじゃないのか。

 目鼻立ちの整った、精悍な顔つき。捜査で街に溶け込むことを目的とした、黒いセンターパートの流行り髪。細い眉。そして、口もとの艶ぼくろ。

 Yシャツの下で引き締まった筋肉と太い骨に支えられている、183センチの長身。

 留置所も空倉庫も薄暗かったから、彼がそういう容姿をしていることを、ラッカは初めてちゃんと見たのだった。

 そして、

 ――北の、雪山の景色を思い出した。


 森の奥。生みの両親を喪って、獣として人の世を追われた自分。ろくに食いものにもありつけないまま、狩人のトラバサミに足を挟まれると、身動きも取れなかったあの日のこと。

《いたい、いたい――!》

 ラッカは泣きわめきながら、左足を何度もトラバサミから引っ張り、そのたびに刃が肉に食い込み、血が溢れ、悲鳴を漏らした。

 まだ自分が人か獣かも分からないで、顔と体の右半分にだけ毛が生えて、牙と爪が伸びた状態のまま、ただ叫んでいた。

 そのとき、まだ7歳だった。

 お母さん、お母さん、痛いよ。これ、どうやったら外せるの。どうやったら、普通の生き物として生きていけるの?

 誰か、誰か助けて――と、そう声を上げても、人の言葉と獣の唸りが交じり合い、どちらの世界にとっても無意味で無価値な雑音になる。

「オ、オオ――《たす》――ウオオ――《けて――》――!!」

 そのとき。

「大丈夫か!?」

 そんな声がして、そちらを見ると、唇の右下にホクロのある、綺麗な顔立ちの男の子が猟銃を持って立っていた。

「ケモノ用の罠にかかったんだ。早く外さないと」

 彼はそう言って、バネを外すと、トラバサミから彼女を解放した。「ひどい怪我だ。手当てするから、早くおぶされ」

「グ、アア――《駄目だよ――》ア――《私――》アアアア《人間じゃないから――》――!」

「バカ! 血だって出てんじゃんかよ!」

 そうして、男の子は7歳のラッカを背負い、彼の祖父の家に運び込むと、傷が癒えるまで寝ずの看病を続けた。


 ――そうだ、あのときのニンゲンの男の子だ、とラッカは思った。


 ラッカはトーリを見つめ続けていた。

 7歳の獣の女の子と、17歳の人の男の子が、今、十年越しに立場を変えて東京で出会っていた。

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