第1話 VS堕天使 その2
※※※※
日岡トーリは自分のカップヌードルにお湯を注ぐと、割り箸の袋を開け、爪楊枝だけ取り除いでからラッカに渡した。
取り調べの間にも食事は与えられていただろうに、よほど腹が減る体質なのか、ラッカは頬を染めて口をあんぐり開けながらそれを受け取った。
そして箸を二つに割らないまま、そこに麺をぐるぐると巻き付けて、無理やり口のなかにかき込んでいく。汁が飛び散って、しょうゆ味スープの匂いが広がった。
「なあ」
「ん?」
ラッカがもぐもぐしながら顔を上げる。トーリは彼女の箸を指差すと「木と木の間に溝がある」と言った。
「割って二本にして使うんだ」
「え――へえ?」
バキッ、と音を立ててラッカは箸を割った。そうして再びトーリを見上げる。
トーリは右手の人差し指と中指をチョキチョキと動かした。
「二本で挟んで食うんだ。できるか?」
「――なんか、急に分かんなくなった」
「なんでだよ」
トーリは少し苦笑いを浮かべてから、その場にあぐらをかいて目線を合わせ、
カップヌードルを受け取る。「一回やって見せるぞ」
そして麺を少しだけすする。ラッカが途中で「あっ、私のぶんが――」と言うから、すぐに中止した。
――いや、ていうか、もともと俺のなんだが。
トーリは容器を返す。ラッカのほうは、今度はちゃんと見様見真似に箸を使ってラーメンをすすり始めた。
「美味い」とラッカは笑った。「警察は意地悪が多いみたいだけど、お兄さんは違う」
「意地悪?」
「喋っても信じてくれないんだよ。警察には正直にしろって母ちゃんが言ってたのに」
そうしてラッカは話し始めた。自分はホームレス狩りのグループなどではなく、それを止めて老婆を助けた側であること。途中でぶっ飛ばした二人の男についても、仲間割れの類ではなく、向こうから仕掛けてきたのだということ。
「なのに、デタラメ言うなって言われてさ――どうせお前も不良なんだろって」
「ははは」とトーリは笑った。「ぶっ飛ばされた奴らが目を覚ましたら、証言してくれるんじゃないか?」
「そうかなあ」
ラッカはふてくされた様子だったが、トーリは、彼女の言うことは事実だろうと思っていた。
論理的な根拠はない。刑事の直感だ。だが、経験に裏打ちされた直感は往々にして浅薄な理屈よりも正しい。
――むしろ、彼は、もっと別の可能性を疑っていた。
「本当だよ」とトーリは言った。「だから、まあ、さっさと身元引受人の名前を書いて、釈放される準備をしたほうがいいな。――身元引受人って分かるか?」
「分かんない」
「迎えに来る保護者とか。たとえば父親とか母親とか、そういう名前を書けばさ」
「生みの親はどっちも死んでるんだ。育ての親のほうには名前がない。ここにも来れないよ」
「えっ」
トーリが呆気に取られる間、ラッカは容器に残ったしょうゆ味のスープをごくごくと飲んでいた。少し唇からこぼれて、あごを伝って彼女のシャツに染みていく。
「ごちそうさま。これ、美味いけどノドかわくや」
「水、持ってくるよ」
トーリは立ち上がって部屋に戻りながら、頭を少しだけ整理していた。
――彼女の正体の可能性は三つ。
ひとつ目。海外からの不法移民。日本文化を知らないのも親元に連絡できないのもこれで説明がつく。だがこの確率は低い。それにしては言葉が流暢すぎる。
ふたつ目。言語・知性・精神いずれかにハンディを抱えた脱走患者の類。だがこの確率はひとつ目よりもっと低い。
この少女は割り箸の使いかたも知らないが、事件当時の説明そのものは明瞭だった。まるで、鹿を撃ち殺したあとの狩人がそう語るように。
みっつ目。これが最も確率が低いわけだが――ラッカと名乗るこの少女が先天性の獣人である可能性だ。両親の不在にも、世間の知らなさにも全て説明がついてしまう。
先天性の獣人は獣人から生まれる。だが、それはこの日本では決して幸福なことではない。
親も自分も警察に命を狙われる身。彼女は自分の両親は死んだと言っていた。
もしその後、獣たちに交じって暮らし、のちに住み処を追われたとしたら――ラッカの言葉と、そのプロフィールは完全に合致する。
もちろん、この想定には強い否定材料がある。
「もしあの子が獣人だとしたら、人間に対して害意がなさすぎる」
トーリはそう思いながら冷蔵庫のミネラルウォーターを手に取り、留置所に戻った。
あらゆる陸の、海の、空の動物たちが力さえあれば人を襲うのと同じように、獣人たちは強い攻撃性を持つ。
ラッカという少女にそれがあるかといえば、皆無だ、としか言えない。
「どうしたものか」
これ以上は所轄の連中と軋轢を生みたくない、そう思いつつ、トーリはラッカにペットボトルを渡す。
「ありがと」とラッカが言うのを聞きながら、トーリは言った。
「実はさ、ラッカをここから出す方法があるんだ」
※※※※
同日の夜。転落事件被害者である野田ヒカリの通夜は、ひっそりと行なわれた。検死解剖の余地もないほどに明らかな転落死の亡骸だったため、ヒカリはすぐに家族のもとに帰されたという。
通夜の間にも、棺は開けられなかった。どんなエンバーミング技術を用いても遺体損傷の回復は不可能だったからだ。
鈴木タカコは他の陸上部員と列に並びながら、周りがすすり泣くなかブレザー姿でゆっくりと歩いていた。生きた心地がしない。
「ヒカリちゃんが殺された? なんで、誰に? まさかあのことがバレたの――?」
そう思って、吐き気をこらえながら焼香を終える。
そのとき、ギイ、と、車輪のきしむ音が聞こえた。
振り返ると、元陸上部の女子生徒である津島マナオが、車椅子を転がしながら会場に入ってきた。癖ッ毛の黒のボブカット。整った顔立ち。
被害者である野田ヒカリの遺族が「マナオちゃん!」と駆け寄った。「ありがとう、来てくれて。きっとヒカリも喜んでる」
「当然です」とマナオは暗い微笑みを浮かべた。「ヒカリとはライバルで、親友でした」
タカコはゾっとする。マナオの顔色には、どんな感情も乗っていない。そのことに、動揺している遺族は気づいていなかった。――マナオに怯え続けているタカコだけが、それを見ていた。
もうこの場所にいたくない。タカコが慌てて会場から去ろうとすると、
「ね、タカコちゃん」とマナオは言った。
「あとで連絡するね――お話があるから」
家に帰ると、タカコのスマートフォンに差出人不明のメールが届いていた。こんな内容だ。
『返信はしないで。このメッセージは読み終わったらすぐ削除して。いま言う場所に来て。――ヒカリと貴女が半年前にしたことを誰にもバラされたくなかったら、だけど』
「あ、あう、あ――」
上あごと下あごが上手く嚙み合わず、かちかちと自分の歯が鳴るのを、タカコはどこか他人事のように感じた。
やっぱりバレたんだ。ヒカリちゃんは、だから死んじゃったんだ。今度は、私が――私も死ぬの?
タカコは自分の脳が正常な判断を下せなくなっていることに気づかない。
深夜の御徒町にジャージ姿のまま出ると、タカコは言われたとおりの場所に来た。寂れた公園だ。
「――よく来てくれたね、タカコちゃん」
そう、声が聞こえた。それは津島マナオの声だった。
タカコは耐えきれずにうずくまる。
「あんなことになるなんて、お、思わなかったの!」
と彼女は絶叫した。
――津島マナオは半年前に、ジムのトレーニング中にトラブルで両脚を駄目にした。器材の事故だと言われている。
そして、天才的と称された彼女が退場すると同時に、野田ヒカリは脚光を浴びるようになった。大学への推薦もそれで勝ち取っているのだ。
片方は、未だに車椅子を引きずる生活だというのに。
そしてその器材トラブルは――ヒカリの下僕であるタカコが前もって仕組んだものだったのだ。
「ごめんなさい、ご、ごめん、ごめんなさい!」
タカコは泣きじゃくっていた。「ちょっと脅かすだけのつもりだったの。ヒカリちゃんが、マナオは最近偉そうにしててウザいから、びっくり、させちゃおうって!」
「そうなんだ」とマナオの声がした。
タカコは体の震えが止まらなかった。「あ、ああ、あたし逆らえなかった! 私、ヒカリちゃんに逆らえる身分じゃないんだよお! ゆ、許してっ、許してマナオちゃん!」
「もちろん許すよ」とマナオの笑い声。
「お遊びの狩りでしかなかった、ってことだもんね?」
「えっ」
タカコが顔を上げると、不意に雲間から月が覗く。
――そこに、目の前に、津島マナオが立っていた。ように見えた。
「なんで!?」とタカコは言った。「だ、だって、後遺症があるから、もう立てないって、歩けないって、だから陸上やめたって言ってたのに!」
「そんなこともうどうでもいいの、タカコちゃん」
月の光が、さらに明るくなる。マナオの全身が照らされてタカコの視界に入っていく。
マナオは、実際には立っているわけではなかった。地面から数センチほど、学校指定の革靴が浮かんでいた。その代わり、背中に真っ黒な鳥の羽根を生やしている。
その力で――まるで堕天使のように、公園に降り立っていたのだ。
「見てよ、これ」とマナオは笑った。「動かない脚なんてもう要らない。これからは、この羽根で自由に飛べるんだよ?」
「――――え?」
「そして、自由にニンゲンを狩るの」
マナオがそう言った次の瞬間、タカコは、自分の体がフワッと空中に舞うのを感じた。――マナオの両手にブレザーの襟を掴まれて、東京の空中に連れ出されていたのだ。
「――!」
地面が次第に遠くなっていく。1m、10m、そしてすぐに100mの高さに。
「い、いや――!」とタカコは叫んだ。「降ろして、降ろして、ねえ降ろしてヤダヤダヤダ!」
「アハハハハハ!」とマナオは笑った。
「脚なんか、空じゃなんの役にも立たない!
自分の脚が役立たずになった環境で、他人に縋るしかない惨めな気持ちはどう? あたしは半年も同じ気持だったんだよ、ねえっ、タカコちゃん!!」
マナオは高笑いしながらさらに高度を上げた。
「こんな力をくれた『クロネコ』様に感謝しなくちゃ。これからもずっと、あたしはさ、あたしが苦しいとき、全然助けてくれなかったニンゲンども全員に、あたしと同じ思いをさせてやるんだよ!!」
「殺さないで! ねえ殺さないで!」
タカコが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を晒すと、ふっと、マナオのほうは真顔になった。
「ばいばーい」と言うと、ぱっ、と両手を離した。「あの世でも、せいぜいヘコヘコ卑屈にやっててね?」
タカコはそのまま、すっと地面に落ちていった。
最高の気分だ、とマナオは思った。
「さて、次はどんなニンゲンを狩ろうかな」と彼女は独り言を吐いた。
「あ、そうだ! クソ女のヒカリを持て囃したスポーツ記者のニンゲンとかよくない!? わ、今からワクワクしてきた!」
マナオは大声で笑うと――その声は、もはや人間の声ではなく、
「ガ――ガァ――ガアア――!」
という、醜いカラスの濁声になっていたのだが――そのまま全身を鴉の姿に変えて帰路を飛んでいった。
彼女は他の獣人がそうであるように、力を得た。そして力を得た人間はロクなことをしない。これは一般論だ。
※※※※
10月7日。午前。ラッカは釈放された。
「微罪処分って言ってね」と生活課の女警官は言った。「あなたがリンチ犯じゃないってことは、目を覚ました子たちが言ってくれたわ。ただの喧嘩は、相手が訴えなけりゃなんでもないもの。今回は向こうが処罰の対象ってことで、それもなさそうだから」
「へ~」とラッカは思った。
「獣人捜査局の血気盛んな連中に任せるのは業腹なんだけどね、まあ、仕方ないか。もう、あんまり正義の味方とか気取って家に迷惑かけちゃダメだからね」
「正義ってなに?」
「――公務員に任せればいいことにしゃしゃり出てくるガキンチョのこと」と女警官はため息をつく。
彼女が署へ戻ると同時に、今度は、駐車場に停まった日産車のスカイラインから、ひとりの小柄な女性が降りてきた。
彼女が獣人捜査局のラッカ担当ということになる、が、ラッカ自身は全くそのことを自覚していなかった。
「トーリってお兄さんの言うことをきいたら解放されたじゃん。やっぱ良い人だ!」
としか、彼女は思っていなかった。ついでに言えば、彼女はトーリが自分自身の初恋の相手であることさえ、まるきり思い出していなかったのだ。
「初めまして、田島アヤノです!」と小柄な私服女性は答えた。
「あ、はい」とラッカが答えると、
「これから東京で行き場のないラッカちゃんのために、良い感じの宿泊施設も用意していますので、そちらでゆっくり休んでくださいね。その間に、面倒くさい書類関係のことはこちらで済ませますから。トーリさんの指示ですので!」
「へえ~そうなんだ!」
ラッカは目を輝かせた。昔どこかで見た豪華っぽい暮らし。ホテル! たぶんあのホテルってやつだ!
ラッカは田島アヤノに促されるまま日産のスカイラインに乗り、直近のホテル――それは表向きで、実際には獣人容疑者の検査隔離施設である――に向かって意気揚々と出発した。
「ラッカちゃん」とアヤノはハンドルを握りながら話しかけてきた。「あんまり落ち込まないでくださいね。疑いさえ晴れれば、また元のニンゲンの暮らしに戻れますよ!」
「? 疑いは晴れたんじゃないの?」
ラッカは微笑みながら、ドアの窓を手探りで開け、風を浴びた。
「落ち込んでないよ、いい暮らしができるんでしょ? 大浴場とかあるかな、映画とかで見たんだ」
アヤノはそんな彼女を眺めて、少しだけ切ない顔を浮かべた。
「あの――ラッカちゃん」
「んー? なに?」
「ラッカちゃんは、どうして東京に来たんですか? 田舎にいるままでも、別によかったと思いますけど」
アヤノの質問にラッカは笑った。そのとき、首にかけている銀のドッグタグが少しだけ揺れ動いた。
きらきらと日の光に反射して、月がそうであるように、オリジナルな輝きになる。
「――会いたいヒトがいるんだ」とラッカは答えた。
「え――へえ、そうなんですね」
「まあ、名前も知らないけどね。でも、そのヒトが東京で生まれたってことは知ってた。だからなんとなく、もう行き場もないなってとき、来てみたくなったんだ――もしかして、これ変かな?」
「いえ、そんなことは!」
アヤノが愛想笑いを浮かべながら、交差点でハンドルを曲げたときのことだった。
ラッカは、妙に自分の鼻が疼くのを感じた。
「――なんだ、この臭いは――!?」
「あ、ご、ごめんなさい、空調切りますね」
「違うよ、そうじゃない」
ラッカの目が、少しずつ、獣になっていく。
「ねえ、お願い、車を停めて」
「えっ――?」
「さっさと停めろ!!」
「えっ、あっ、はいぃっ!!」
勢いに流されるまま、アヤノが路肩にスカイラインを停めると、ラッカは後部座席のドアを蹴破るように開け、まだ人通りの少ない歩道に踊り出た。
「間違いない、これって、血のニオイだ」
「血?」
アヤノが恐るおそる訊く頃には、ラッカの両眼は、とっくに鋭く、蒼くギラついていた。
「――それと、これ、カラスの臭いだ!」
※※
10月7日。午前。
部下である田島アヤノにラッカを引き渡したあと、日岡トーリは持ち場に戻った。3時間だけ仮眠を取ったあとのことだが、既に状況は変わりつつあった。
ベテランの刑事が、
「同じような死体が、次は御徒町の公園で。交番の巡査連中が人払いをしてます」
とトーリに言った。
「被害者の情報はありますか?」とトーリが訊くと、
「それがね」とベテランの刑事は言った。「前の被害者と同じ学校、同じ部活です。それも、同じような転落死ですわ」
「なるほど」
トーリは一瞬だけ目を瞑る。後天性の獣人。急に人間を襲い始めた。被害者にある共通点。そして、妙に謎めいた犯行手口。
蓋然性の高い回答は、ひとつだけ。
「その陸上部で、直近でいいです。身体を損傷して選手生命を断たれた生徒はいますか?」
「確認しますが、理由は?」
「今回の獣人が行なっているのは、要は、自らの能力の誇示です。そんなことをかつての仲間たちにするのは、単純な嫉妬か、複雑な怨恨か、両方です」
ベテラン刑事が頷くなかで、日岡トーリは警察署を飛び出してトヨタのスープラに乗り込んだ。車載タブレットから無線アプリを呼び出す。
「これから私立L学園敷地に乗り込む。後天性獣人が存在する可能性きわめて濃厚。既に女子生徒2名を殺害の容疑あり。シルバーバレットの発砲許可を要請する」
そうトーリが呼びかけると、数秒後、
「却下します」と、獣人捜査局本部の女性オペレータは無機質に回答した。「シルバーバレットは獣人体を目視してからのみ使用を要請してください。万が一、人間に発砲することのないよう注意お願いいたします」
「――了解!」
トーリはアクセルを全開でふかした。
片手でハンドルを切りながら鍵付きのダッシュボードを開け、自動式拳銃を確認した。マガジンを降ろし、なかの弾丸を確認する。人間相手の殺傷力ならば申し分のない9ミリパラ弾だ。
――これじゃあ獣人は仕留められないんだよ!
すぐに武器を装填できないもどかしさに、トーリはさらに車のスピードを上げた。
そして、トーリが御茶ノ水の私立L学園に辿り着く頃、ラッカのほうは田島アヤノに車を停めさせていた。
※※※※
津島マナオは普段どおりに登校した。ホームルームに備えて教科書と文具一式を鞄から出し、机に入れる。車椅子で広いスペースを移動できるよう、彼女の席は窓際のいちばんうしろだ。
「今日タカコ遅くねえ?」という女子生徒の声が聞こえた。「休みかよぉ。昼飯買いに行かせたかったのに」
くす、と、マナオの口元から笑みが漏れた。
――あなたたちのパシリのタカコちゃんは、今ごろ公園でぺしゃんこだよ。また気の弱い女の子を見つけなくちゃね。
そして、少し彼女のことが可哀想になった。ヒカリの下僕は、ヒカリ以外の女たちにも舐められて、彼女の死後もこうやって誰かに浪費される人生だったわけだ。
じゃあ、あたしはそういう惨めな人生から解放してあげた、ってことかな?
そう考えていると、先ほどの女子が「ヒカリみたいに殺されてたりして!」と笑い、相手が「ちょっ、それ不謹慎すぎだってぇ!」と腹を抱えて数歩あとずさった。そして、マナオの机にぶつかった。
先ほど入れたばかりの教科書が、文具が、床に散らばる。
「あっ、バカ――!」とその女子は言った。「ご、ごめん津島さん大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「わざとじゃないよ。あ、拾ってあげるね。ほんとごめんね――?」
彼女はそう言いながら床にしゃがみこんで、マナオの荷物ひとつひとつを丁寧に、偽善的なまでに律儀に手に取っていく。
へーえ、とマナオは思った。
さっきまでいじめられっ子をパシる話をしてた奴らが、車椅子生活の障碍者には優しくするんだ? それって、あたしがタカコ以下の弱者だから?
だから哀れんでやってるってこと?
――なんだろう。
普段は気にしないのに、無性に自分がイライラしているのを彼女は感じていた。
だいたい「わざとじゃないよ」ってなに? わざとじゃなかったらなにをしてもいいの?
タカコも「あんなことになるなんて思わなかった」って言い訳してたけど、じゃあさ、未来の予測が下手くそなバカは核爆弾のスイッチを押しても許されるわけ?
マナオは今までにない苛立ちを抑えられなくなる。
彼女の脳裏にあったのは、
「あたしはその気になれば数秒でこの教室にいるニンゲン全員殺せるんですけど。なに舐めてんの?」
という意識だった。
女子生徒が教科書とノートと筆箱を拾って「はい津島さん。ごめんね、気を付けるね!」と言いながらマナオに渡した。
だが、勢い余って手にぶつかる。
教科書の、ぺらぺらの、紙の鋭さがマナオの小指に傷をつけた。じわり、と血がにじんで、ぽたぽたと垂れていく。
「ご、ごめん、津島さん!」
「もういいよ」
脳が破裂したように、マナオのなかで怒りが爆ぜていった。しゅう、という音がする。彼女の傷が、刹那のうちに再生して元どおりになった。
獣人の特性。
核を潰されない限り続く無限の再生力。
「あれっ?」とマナオは声に出して呟く。「なんで、なんで、あたし、こんなことも我慢できなくなってるんだろ?」
次の瞬間。教室にいる生徒たちが彼女の黒い翼に八つ裂きにされていた。ある者は顔面を、ある者は四肢を、ある者は内臓を切り裂かれ、教室の天井と、壁と、床に鮮血が飛び散った。
――狩りの愉悦を知ってしまった獣は、もう人の世界に属せない。
獣は人を切り裂いて、喰い千切る。それは薬物のように脳を快楽で汚染して、獣たちを手遅れにしていく。人の味を知ってしまえば、彼らはそれに抗えないのだ。
なぜ、人を殺してはいけないのか。
理由は簡単だ。人を殺すことが楽しくて、気持ちのいいことだからだ。
誰もが眉をひそめるような、退屈で不快な行為などわざわざ法で禁じる必要はない。それは至上の娯楽だから、掟によって封じられている。
そして、ここからが肝心なのだが――獣には人の掟など関係ないのだ。
2年B組の教室の窓が、全て割れた。
※※
日岡トーリは校門前に車を停め、少し考えてから校庭に乗り込んでいった。――次の犠牲者を生まないためには早期の駆除がいい。だが、生徒や学校関係者を巻き込まない方法はあるか?
そう悩みながら歩を進めていると、不意に、校舎2階の窓が割れ、そこから数体の人間が落ちてきた。
落ちてきた?
窓から吹き飛ばされた人間は、全て致命傷を与えられた状態で頭から地面に落ち、首の骨か、頭蓋骨を破損して即死体になっていく。
――トーリは拳銃を構えた。
ケモノ狩りの始まりだった。
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