第1~4話 Hybrid Theory
第1話 VS堕天使 その1
「不快で、下品で、野蛮。ぞっとするような鳴き声、耐え難いニオイ。邪悪な本性、獰猛な習性。生きている間は有害で憎らしく、死んだあとは役立たず」
――オオカミについて、18世紀フランスの博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンの『博物誌』より抜粋。
※※※※
夜は獣の世界だ。人は闇を恐れ、偽りの光を己の街に灯すことで安寧を得たが、紛いものはいつまでも紛いものにすぎない。
人が飼い慣らしたと思い込んでいる家畜さえ、ただの生ける屍だ。本物の獣は、そこには存在しない。
だが、獣は人に住み処を追われたあとも、人の街に這いずり、忍び込んで、そこで肉を漁るだろう。その肉が、お前らが肥え太るために余らせた残飯だろうとも、あるいは、お前ら自身の死骸だろうとも。
お前らニンゲンどもが、獣に対する恐れを、偽りの光で忘れてしまったというのならば。
俺たちがそれを思い出させる価値はあるのだ。
――ここは獣が人を喰い散らかす世界なのだと。
※※※※
2022年10月5日、夜、東京都上野駅。ホームレスの老婆が泣き叫びながら逃げまどっていた。
複数人の、男女混合の高校生グループに追われながら老婆は右足を引きずりつつ走り、改札に止められると、奇声を発しながらその門をよじのぼった。
彼女が持っていたビニール袋から荷物が零れ落ちる。
彼女を哀れんだ善意の第三者による食べものか、あるいはコンビニのゴミ捨て場から拾った賞味期限切れの食料か。
そんな、バラバラの弁当や菓子や果物が上野駅の冷たい床に広がると、いくつかは事情を呑み込めない人々の足の裏に踏まれて消える。
「ちょっとちょっとお婆ちゃん、なにやってんの!」
駅員は窓口から体を乗り出して叫ぶ、が、それは改札のルールを守らない老婆を注意しただけで、彼女を追い回す不良グループのことなど見てはいない。
いや、見ていないのではなく、見ようとすらしていないのだ。面倒だから、無駄だから、そして、どうでもいいから。
「――――」
先ほどまで、改札窓口の駅員の男と話していた一人の少女が、その老婆をじっと見つめていた。それから、改札にスイカをタッチしてその老婆を追いかけ回す高校生グループのほうも見つめる。
「ねえ、駅員さん」
「え? なんなの」
少女は彼に、静かに向き直った。
「あの人たちは、なんであのおばあさんを追いかけてるの」
「さあねえ。狩りだよ狩り」
駅員の男は面倒くさそうに答えた。
「狩り?」
「ああやって、ええっと、たしか『社会のゴミ』をボコるとポイント稼げるって、そういう遊びがガキンチョどもの間で流行ってんのよ。バカだよねえ。俺の頃はなかったよ」
「悪いことなの?」
「ああ? 当たり前だろ!?」
駅員の男は少しカチンときた。
「だいたいねえ、お嬢ちゃん、お嬢ちゃんだってよくないんだよ。田舎からはるばる東京まで来ておいて、運賃ないけどとりあえず降ろしてくれとかさ。ちゃんと親御さんの許可はあるの? 心配してんじゃないの!?」
そう説教すると、
「いま、私の話をしてる場合なの?」
と少女は言った。
「ああん!?」
「あのお婆ちゃん、狩られるなら死んじゃうかもしれないよ。ニンゲンは、そういうの平気なの? おなじ群れじゃないの?」
「なんだよニンゲンって! お嬢ちゃんだってニンゲンでしょうよ! ――もう誤魔化さなくていいから、さっさとご両親の連絡先を教えてよ!」
そう怒鳴って駅員が窓口に背を向け、ステンレスの棚から書類を出そうとしている間に、
「ダメだ、ラチがあかねえ」
という声が聞こえた。――少女の声だった。
「はあ?」
と駅員が書類を持って体を起こすと、とっくに、少女の姿は東京都上野駅から消失していた。足音も、匂いもなかった。
駅を出て走り続けた老婆は、最終的に全く人気のない高架下まで辿り着くと、そこでコンクリートの壁に手をついて力尽きた。
不良たちのことは、少しも撒くことができていない。彼女の体力がなくなるまで、彼らはふざけながらギリギリの距離を追いかけ続けていただけだからだ。
「お、ババア~スタミナ切れか~?」
高校生の一人がそう言うと、そのまま助走をつけて背中にドロップキックをキメる。
老婆は前のめりに転倒した。壁についていた手のひらがそのまま擦れて皮がめくれ、頬が地面にぶつかり、血がにじむ。
「こんな根性ねえんじゃ5ポイントだよ、5ポイント」
とグループのなかの女の子が笑いながら、スマートフォンのカメラアプリを起動して彼女を写真に収めた。
要は、クソどもの戦利品だ。
「おばあちゃんさあ、ネットの書き込み見てる? 最近寒いもんねえ。駅ナカで暖取ってたんだあ? ――すっげえクセえんだって、よ、お前さあっ!」
そうして、男の一人が背中を踏み蹴った。少年少女の笑い声が夜に木霊していく。
「うう、う――」という老婆の呻き声。
誰にも届かない。
「ねえ~」と女の子が言った。「もう写真撮ったし帰んねえ? なんか関わりたくもないんだけど、これ以上。ニオイうつるし」
「ああ?」と男が振り返る。「試してえ格闘技もっとあんだけど。お前だけ帰れば?」
「ええ~? ヤだよ、夜怖いじゃん」
女の子はケラケラと頬を緩ませながらスマートフォンをポケットにしまう。
――そう、人にとって夜は恐ろしい。
が、それはお前らのようなガキが暴れまわっているからではない。
本物の獣も、そこには現れるからだ。
不意に。
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ――と。
スニーカーを乱暴に擦りながら歩く足音が、男女グループの耳に届いた。
男のほうが、ひゅう、と口笛を吹いた。「深夜残業ごくろう様ちゃんの社会人かあ? ナメてる感じだったらそいつもヤっちまおう」
「え~」と女の子が顔をしかめる。「いいけど、警察に出られたら知らないフリすっかんね~、あたし」
そんな風に軽口が叩かれる間にも、足音はさらに近づいてくる。
そして、高架下の闇が途切れて来訪者の顔が見えた。
十代後半から二十代前半の、ただ一人の少女だった。ぼさぼさの白く長い髪を後ろでひとつにまとめている。服は上下ともにメンズの上着、シャツ、チノパン。タッパは170いくかいかないか。
特徴的なのは、表情だった。
太い眉の下で、鋭い蒼灰色の瞳が揺れていた。それは人というよりも、まるで、血に飢えた狼のような――。
鞄やアクセサリーの類はなにもない。ただ、首から下げたドッグタグだけが、月の明かりに照らされていた。
そういえば、今夜は満月だった。
「なんだ? てめえ」
と、不良グループの男のほうが言った。
「仲間に入れてほしいなら、もう終わりだぜ? このクソババアはとっくにぶっ飛ばしちまった」
「あのさあ」
と少女は言った。「さっき、駅の改札で、ピッて鳴らして通っていったでしょ? あのカードみたいなやつの名前は、なんて言うの?」
「――は?」
男には、少女の質問の意味が分からない。
「私、駅から出られなくてさ――あれ、お金がなくても通れたりするやつなの?」
「ふざけてんのか? それともクソ田舎モンか」
男は老婆から離れて少女に近寄り、睨みつけた。
そして、
「うお、よく見たら可愛いじゃん」
と、下卑た笑顔を浮かべる。
「もうババア狩りやめようぜ。つまんねえ! どっかの店でこいつと飲もうや!」
「? 飲む?」と少女は首を傾げる。
それに対して、不良グループの女の子は「えっ? ええっ?」と眉をひそめた。「いや、絶対やばいでしょ、そいつ。なに言ってんの」
「なんだよヤキモチかあ~?」と男は笑い、「キミ、名前はなんて言うの? 教えてよ」と少女の両肩を揉むように撫でまわした。
「ラッカ」と少女は――ラッカは答えた。そして「もういっこ訊きたいんだけどさ」と言う。
「ん? なんだよラッカちゃん、なんでも答えるよ」
「狩りをやってたんでしょ? なら、どうしてそのおばあちゃんを殺して食いものにしないの?」
「――は?」
男は、いよいよラッカの言いたいことが分からなくなった。もしかして、ヤクでもキメているのだろうか。
まさか、俺らはヤバい女と関わってしまったのではないか――そう不良グループの連中が考えてしまったのも無理はなかった。
彼らにとっては、こんなことは遊びで、他愛のない酒のつまみにすぎないのだ。
だいたい、こんなババアの命ごときで殺人罪の懲役刑なんかまっぴらごめんだ――と、彼らは考えていた。
「いや、いやいや、ラッカちゃん」
と男は作り笑いを浮かべた。「こんなことにマジになんなよ? な?」
「本気じゃないのに狩ったんだ? ニンゲンって、そういうもんなの?」
「ああ、もう、難しい話はやめやめ! ほら、ここの向こうに未成年でも酒出してくれる店あっから、そこでお喋りしようぜ!」
そう笑いながら、男が本格的にラッカの肩に手を回した瞬間、
「それとさ」とラッカが言った。
「交尾のツガイにもなってないのに、気安くさわんなよ」
ぐい、っと、男の腕が引かれて、バランスを崩して無防備になった顎に拳が打ち込まれていた。一発、二発、三発。
男がよろめくと同時にラッカは手を放し、今度は突き蹴り。
彼女のスニーカーが男の腹にめり込む。彼は高架下の壁に背中を打ちつけられ、ズルズルと倒れていった。
どうやら、顎を数発打たれた時点で脳を揺さぶられていたらしい。
ラッカは、残り数人の不良グループを睨んだ。それに応じたのは、もう一人の男。
瓶で飲んでいた酒をガードレールで勢いよく砕くと、底がバキバキに割れた取っ手付きのガラス、それを即席の刃物にする。
「オレらのヘッドによく手ぇ出しよったのお。おい、お前いま死んだわ、女がよお」
「? ――それも遊びか?」
ラッカが首を傾げると、男は瓶のナイフを振り上げながら近づいてきた。それを彼女は自分から近づいて間合いの内側に入ると、肘あたりの腕に拳を当てて動きを止め――瓶のナイフがアスファルトに落ちる――もう片方の手で男の首を掴んだ。壁に押し当てて、磔にしながらずりずりと持ち上げていく。
――異常だ。
人間の、痩せっぽっちの女に、こんな力があるわけがない。だいたい、手の大きさからして男の骨太な首をきちんと掴める保証なんかどこにもない。
なのに、今、ラッカと名乗った少女はそうしているのだ。
倒れ伏せている老婆は、意識を取り戻してなんとか体を起こすと、いま自分の眼前で起きていることを目の当たりにした。
それは、彼女にしか正確には見えなかった。
ラッカの体から伸びている夜闇の影は、人型のそれではなく――巨大なオオカミのそれだった。
「ウ――ウウウ――ウウ――!」
唸り声。どこから聞こえてくるのかさえ分からない、そんな、本物の獣の声が、夜に響き渡った。
不良グループの女の子は甲高い悲鳴を上げながら、残りのメンバーとともに逃げていく。
ラッカが右腕を放すと、もう一人の男も地面に崩れ落ちた。
満月が、雲に隠れていく。
平静を取り戻したラッカは、足下に転がる二人の男には一瞥も寄越さないままに、その場にいる老婆を見つめた。
「ひ、い――」
老婆は固まる。
ラッカは黙って、上着のポケットからコンビニのおにぎりを取り出した。
「ごめんね、おばあちゃん。これしか拾えなかった。
ほら、駅で落としちゃったでしょ?」
それは、賞味期限切れの、老婆がコンビニのゴミ捨て場から漁り出したシーチキンマヨネーズだった。
ラッカが微笑みながら近寄ると、老婆は、
「――ばっ、ばっ、バケモノォ!!!! ――バケモノ女ァ!!!!」
と絶叫して、ひどい怪我の痛みだろうに、耐えながらその場を去っていった。
「え、あれえ――?」
ラッカは、その場にひとりきりになった。
「うーん、お年寄りのニンゲンには親切にしろって、たしかに母ちゃんから教わったんだけどな」
彼女はそう思ったが、「ま、いいか」と気分を切り替えることにした。「ここには倒れてるニンゲンが二人もいるし。さっきの駅を抜けるカードも手に入りそうだな」
どれどれ、とラッカが男たちの荷物を探ろうとすると、
ぱっ。
と、彼女の姿が明かりに照らされた。
「見つけました!」と明かりの主は叫んだ。「通報のとおりです! ホームレスの老婆をリンチした若者グループ! 逃げ遅れた女が一人、現場にいます! 仲間に置き去りにされたようです!」
「――え?」
ラッカは呆けたまま、その明かりの主を――つまりは自分に手錠をかけようとしてくる若い警察官の男性を、ぼけーっと眺めていた。
※※※※
10月6日。朝。
日岡トーリはトヨタのハリアー車内でタバコを吸い終えると、灰皿の煙を消して上野公園に降り立った。秋の朝は、スーツを肌寒くも暑苦しくもさせるが、今年はどうやら前者らしい。
既に青のビニールシートで事件現場は囲まれている。鑑識課のプロフェッショナルが死体を調べている最中だ。
周囲の所轄刑事に頭を下げつつ、ビニールシートの「暖簾」をくぐると、トーリは死体と直面した。
「状況は?」
そう彼が訊くと、ベテランらしきノーネクタイの中年の男が頭を下げた。「こりゃあまた、警視庁のエリートさんにはるばるお越し頂いて、恐縮ですなあ。やっぱり人間の仕業じゃないわけですか?」
「それも含めて調査に来たもので」
と答え、トーリは布にくるまれた死体を、手袋越しにゆっくりと開ける。
少女の死体だ、が、もう原型は留めていない。
――複数の骨折で、両手足があべこべの方向に捻じ曲がっていた。内臓は破裂して、腹からモツが飛び出ているし、口元からも胃と食道が逆流して、まるでゲロのようにべろべろと吐き出されている。
「鑑識課の見方は、どうですか?」
トーリがそう訊くと、先ほどのベテランが笑った。
「あいつらおかしなことを言うんですわ。こういう死体はよく見たことがあるそうで」
「へえ」
「高層ビルからの転落死だとこうなる、ってね。人間っていう血の袋が、全部潰れて、べちゃーって」
「なるほど」
トーリは立ち上がると、空を仰いだ。死体を囲むビニールシートは、天井には流石に張られていない。
「この近くにはビルなんてなさそうですね。なのに高いところから落ちたようだ、と」
「そういうことです」
ベテランは歯を見せた。「つまり、こんな死体のつくりかたは人間様にはできないってことですな?」
「どこか別のところで転落死体をつくって、そのあと運んだって線はないですか? その場合は血の痕跡が地面に残りそうですが」
「そこは調査中ですわ。だからまあ、刑事部が扱う案件なのか警備部が扱う案件なのか、そこはこれからの捜査次第ってことになりますが」
「了解」とトーリは答えた。
「いったんは殺人事件として捜査本部を上野警察署に設置。そのあとどうするかは俺たち獣人捜査局が仕切ります」
そう言うと、トーリはビニールシートの囲いを抜けてトヨタのハリアーに戻って行った。
――後ろから「薄気味悪いケモノ狩りが。いっちょ前に偉そうにしやがって」と毒づく声を無視して。
捜査本部の置かれた上野警察署にいち早く辿り着くと、日岡トーリは、特定された被害者のファイルを眺めていた。
彼女の名前は野田ヒカリ。女子高生。陸上部ではマラソンを専門にしていて、夏の全国大会に出場して優秀な成績を収めている。有名な大学への推薦もそれで決まっていたらしい。
――こんな事件に巻き込まれて犠牲になっていい人間じゃない。世間はそうやって騒ぐんだろうな。
そうトーリは無感動に考えていた。事件に巻き込まれていい人間が、じゃあ、いるのかよ?
もの思いに耽っていると、先ほどのベテランが「日岡さん、そろそろ初動会議ですよ」と猫なで声で呼びかけてきた。
「いま行きます」と答えて椅子から立ち上がり、会議室のある廊下を歩いているなかで、ふと、
「あなたねえ! いい加減にしなさいよ!」という女性警官の怒鳴り声が聞こえた。「そんなデタラメなことばっかり言ってえ! あんな可哀想なお婆ちゃんイジめて、ねえ、恥ずかしいと思わないの!?」
「――?」
トーリがそちらに振り向くと、ベテランの男が「ああ、昨夜ね」と頭をかいた。
「ガキンチョのホームレス狩りですよ。仲間一人を置き去りにして、あとは逃げちゃったみたいですがね。仲間割れもあったみたいで。とにかく、妙に口を割らない面倒なお嬢ちゃんなんですわ。少年課も、気の毒ですよ」
トーリは少しだけ興味を持ったが、すぐに目の前の職務に集中し、
「へえ、そうなんですね」とだけ答え、会議室に急ぐことにした。
獣人による事件は、年々増加傾向にある。日本だけではなく世界中で、この手の犯罪が――あるいは、災害が増えている。
人間と獣、両方の姿になることができる新しい怪物。
その対策は各国により異なる。
日本の場合は、人間の事件を扱う刑事部と、獣の案件を扱うことがある警備部の間で、まず陣取り合戦が行なわれた。――結果として、両部をまたぐ形で獣人捜査局が新設され、少しでも獣人による事件の疑いがある場合には、彼らが特権的に動くことを許可されることとなった。
それについて、世論の理解が追いついているかどうかは人により見解が分かれるところだろう。政府が国会の承認を得ないまま強引に進めたこの決定には、各野党から激しい批判があった。獣人を動物として保護すべきだとする環境系の活動家は声を広げているし、さらに、獣人自体が存在しない陰謀論なのだとする泡政党さえ議席を獲得している。
日岡トーリはそのあたりのことには関心がなかった。要は獣人の事件を解決して、国民の安全を守ることだけが大切なのだ。
口先だけの下らない連中を納得させるのは、政治屋たちに任せておけばいい。
初動会議の場では、まず、鑑識課による調査の追加報告がなされた。公園には死体周辺のほかに血痕なし。
つまり、当初予想されていた「転落死体をつくり、それを事件の現場まで運んだ」という線はなくなった。
これで、人間による犯行の可能性はほとんど消えたわけだ。
次に刑事たちによる近隣住人の聞き込みだが、目撃者になった小林ヒナという女の子の報告を除けば、ほとんど手がかりはなかった。
――ヒナは朝五時の日課の散歩途中に死体を見つけた。少なくともその時点で事件は起きていたということだ。
「それじゃ、まあ」とベテランは言った。「俺たちは引き続き周囲の聞き込みと過去事件との照合から。警備部については獣人が実際に現れてからだ」
そう言うと、彼はトーリの顔を見つめた。
「日岡さん、あとはよろしくお願いします。もう、どういう獣人が事件を起こしたのか、目星だってついてるんじゃないですか?」
瞬間、全ての捜査員の冷たい瞳がトーリに向き直った。
「はい」とトーリは答えた。「おそらくは飛行型の獣人です。それなら空から自由に被害者を落とすことができます」
「ほう?」
「そして、こんな事件は少なくともここ数年の都内では聞いたことがない。だとすると、問題の獣人は最近どこかから越してきたのか、あるいは後天的な獣化によって急に人を狩り始めたのか、それとも気まぐれに死体の始末の仕方を変えたか、いずれかです」
「なるほどね」
ベテランは笑った。
「日岡さんは、で、どの可能性がいちばん高いと思うんですか?」
「――勘になりますけど」
とトーリが渋った。
「いえいえ、ぜひ!」
「――今回は後天性の獣人である可能性が高いです。
死体に噛み跡がありましたか? 獣なのに人を喰っていないのは、要するに、ちょっと前まで自分自身も人間だったからです」
そうトーリが答えると、捜査員たちの顔が引き締まるのを感じた。
恐怖に震えているわけではない。少し前まで人間だったのならば、自分たち刑事にできることはあると考えているからだ。
トーリはそんな彼らを頼もしいと思った。――できれば友好的に協力し合いたい、とも感じたが、そういう甘えはすぐに捨てた。
会議が終わったあと、日岡トーリはすぐに署内の喫煙所に足を運んだ。口に咥えたハイライトに火をつけ、ゆっくりと毒を吸い込む。
――まずは各捜査員の報告をチャットで受けながら、署内のファイルを見よう。被害少女の詳細履歴、死体調査の結果報告。あとはネットワークを借りて飛行型獣人の過去案件を漁るとするか。
つまりはほとんど徹夜コースだった。
まあ、いいさ。家に帰ってもやることなんてなにもないしな。
――だってもう、俺は独りなんだからな。
トーリはそこまで考えると、首を振った。そうして署内に残ると、所轄や警視庁刑事課の警官たちが一人ずつ消えていくのを見送りながら、最後までデスクに向かい合っていた。そして、ThinkPadを動かす。
手がかりはまだ、ほとんどないように見えた。それでも、体を動かしていたい。トーリの思いはそれだけだった。
そのとき、
「おなかへったよー、ねえー!」という少女の声がした。
「?」
トーリが声のほうに歩いていき、当直の警官に頭を下げて階段を下りると、留置所のある廊下の突き当たりに出会った。鉄格子のついた物々しい部屋。
そこには、長い白髪を後ろ手でひとつにまとめた、鋭い目つきの、タッパの高い少女が立っていた。――といっても日岡トーリ自身が180程度あるため、彼女のことを大きいとは思わない。
「お兄さん、誰?」と少女は訊いてくる。
「獣を殺す、狩人」とトーリは微笑んだ。「キミの名前は、どういうの?」
「ラッカ」
と少女は答えた。
そしてこれが、ラッカとトーリが再会した瞬間だった。
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