シナスタジア

八ツ幡 七三

シナスタジア

 校舎の窓から夕陽が差し込んでいる。

 私はむわっとした教科準備室の窓を少し開けた。私一人であれば熱など帯びなかったろうが、客人を迎えたばかりに準備室の温度が上がった気がする。秋とは思えないほど暑く、首筋に汗がにじむ。

 窓からは冷えた風と共に金木犀の香りが漂ってきた。見れば空は茜色に染まり、鴉が鳴きながら山の向こうへと飛んでいく。昼頃降った雨の影響でグラウンドには水たまりができてぬかるみ、野球部は練習を休むことに決めたらしい。だからか、校内は水中に沈んだ時のような束の間の静けさに包まれている。

 雨が止んでよかったと思う。今日着てきたグレージュのパンツスーツはつい先日買ったばかりなのだ。パンプスだってそう。すぐに汚れて使い物にならなくなるのは困る。ただでさえ汚れてばかりなのだし、クリーニングが追い付かない。

 ――ああ、もうすぐ日が沈む。上空から濃紺の幕が下りてくる。その下の蜜色、茜の空は写真映えしそうな見事なグラデーションの秋の夕空。

 現実逃避をするように、窓の外を眺めていた私に彼は苛立ったようだった。怒りに任せて机を強く叩き、荒々しく立ち上がって私に詰め寄った。


「何とか言ったらどうなんだよ!」

 

 立ち上がった瞬間、思いのほか大きな音を立てて椅子が倒れたので、驚きのあまり私の眼鏡がずれる。

 身体のあちこちが疼いた。激流に翻弄されるような痛みが走る。

 ――ダメだ、流されては。

 呼吸を整えて口を開く。


「……元気そうで、安心しました」

「――俺が聞きたいのは、そういうことじゃない!」

 

 まるで狂犬のように彼は噛み付いた。

 今日に限ってノー会議、ノー残業デー。私以外の教職員は皆帰途についた。当の私は自分の傷の手当で出遅れて、そろそろ準備室を出ようとしていた矢先、彼――元教え子が何の前触れもなく乗り込んできたのだ。本来関係者立ち入り禁止であるが、卒業生ともなれば話は別らしい。いや、単に、彼の行動を阻害するのが面倒だったという可能性もありうるか。

 ――どこからどう見ても、ヤンキーか極道だもの。

 金髪にピアス、一体どこで売っているのか不思議なほどに派手な柄シャツを着崩した不良青年、それが私の元教え子である。彼が卒業してから何年経ったか。

 ちなみに、卒業するまでは品行方正を絵にかいたような、黒髪が良く似合う爽やかな好青年であったと記憶している。顔面偏差値は非常に高く、当校のみならず他校にファンクラブがあったらしいがそれも頷ける。久方ぶりの母校への凱旋に、きっとファンクラブ一同は涙を流して喜んでいることだろう……存続しているかどうかは知らないが。

 しかし困った。夜は危険だ、完全に日が暮れてしまう前に、どうにか家に帰らなければ。傷の痛みに耐えられずにその辺で女一人がうずくまっていては、流石に危ないだろう。

 手首に巻いた包帯に目を留め、彼が低く唸った。


「……その傷――」

「傷が、どうかしましたか。君が在学中も、よくあったことだと思いますが」


 ぼやける視界で見上げれば、彼は拳を握りしめて黙り込んだ。

 そう、よくあることだった。現に今日も私は傷をこしらえている。

 私の傷など珍しくもないだろうに、今更何故。生々しい傷を生徒に見せないよう、包帯で隠す配慮はしていたが、それが逆に皆を困惑させていたのを私は知っている。

 あの女教師はいつも傷だらけだ、彼氏からDVを受けているだの、いかがわしい組織とつながっているだの、極道御用達の女だの、根も葉もない噂を耳にしたのは一度や二度ではない。面倒だったから、否定も肯定もしなかったけれど。

 「地味に見えて化粧映えする綺麗な顔だから、男受けするでしょう、変な男に捕まっちゃダメよ」などと同僚にからかわれたこともある。痛みに耐えて教壇に立ち、袖から垣間見えた包帯を見た同僚や生徒たちからは好奇の視線を向けられる。そんなことは日常茶飯事だ。

 気持ち悪い、と陰で言われたこともある。何を考えているのか分からない、とも。

 人気か不人気かで言ったら、どう考えても後者だろう。陽気で気さくな同僚は生徒たちに頼られていたが、私を慕うのは多分、ごく一部。

 彼はそのごく一部に該当した。

 彼は真面目だった。授業の後はよく質問をしに来てくれて、進路の相談も受けていた。ただ、私の傷について触れてきたことは一度もなかった。教師のプライベートを聞くのは失礼だ、と思ってきたのかもしれない。もしくは、私が予防的に張った一線を越えないよう努力していたのか。

 近づきすぎるとよくないと同僚からは注意されていたが、慕ってくれる生徒が可愛くないはずがなかった。だが、あくまでも教え子の一人にすぎない。彼から向けられる眼差しはあらゆる感情で渦巻き、時にそれは私を困惑させた。

 ――私は、ずっと気付かないふりをしてきたのだ。

 彼の想いは一時の気の迷いに違いない。年齢が近い私に、異常なほどの親近感を抱いているだけにすぎない。

 卒業すれば、いずれ薄れゆく感情だとあの頃は割り切っていたが、こうしていざ目の前に現れると心が揺れる。

 授業中ならチョークを握って無心で黒板に向かい、チャイムが鳴るなり次の授業に向かう体で、さっさと教室を出ていけるのに。

 

 彼の在学中、教室は常に荒れ果て、ひとり、また一人と欠けていっていた。どれほど心に巣くうやすみの痛みを引き受けても追い付かず、残ったのはよほどの鈍感か、強靭な精神の持ち主か、恐慌の元凶かのどれかで、まともな子らは皆、心が折れてしまったのだ。そのたびに私の傷も一つ、また一つと増えた。

 そんな中で彼だけは、最後まで折れなかった。彼の精神は傷一つない、よく磨かれた玉そのものだった。

 学友が休むたびに傷が増える、そんな女教師不審に思って当然だろうに、もの言いたげな眼差しを投げるだけで直接聞こうとはしない。分別のある子だった。

  彼はいつもただ真っ直ぐに私を見ていた。教室から出ていくその瞬間まで。

 ――彼の想いには、触れてはならないと思った。

 下手に応えれば、私はきっと――。


 丹田の辺りがじんと痛む。荒ぶる彼の気が私の気脈を乱すせいだろうか。それとも、先ほど教え子から引き受けたやすみの影響か。

 溜息をついたその時、彼は机の前に突っ立ったまま、地を這うような声で質問をする。

 

「――その傷、誰にやられた」

「どうしてそんなことを? ……私がどこで誰と何をしていようと、君には関係ないと思いますが」

「それ、立場が逆でも同じこと言える? 俺のやることなすこと、全部黙って見てられんの?」


 切れ長の目が私を射抜く。腕を掴まれブラウスの袖を思い切りまくられる。露わになった私の頼りない腕は引いてしまうほど蒼白で、ぐるぐる巻きの包帯からは血が滲み出ていた。痛みに顔をしかめて見せれば、彼の方が泣きそうになる。


「何があったら、こんなひどい傷になる!」

「……別に、大した傷では」

「言えよ!」


 言えるはずもない。

 教え子の心の傷――やすみを肩代わりしているなどと。

 やすみ、または心傷とも言うか。

 人は繊細で、些細なことで心に傷を負う。それが深く大きくなるほどに、生活に支障をきたし、やがては壊れてしまう。

 病は伝播しやすく、最悪コミュニティーが破壊される。特に学校は縦横の繋がりが根深く、被害が大きくなりやすい。町一つが壊滅することもありうるだろう。祖父母から聞いた話では、その昔、やすみが伝播し集落が一つ消えたとかなんとか。傷が小さなうちに肩代わりすれば大事にならずに済む。

 私は、その病を肩代わりする力があった。代々受け継がれてきた力である。

 そして今も、彼のやすみをわずかに引き受けた。その結果がこの傷、出血、痛み。

 

「なあ、先生。どうして何も答えてくれない!」

「君は、もう私の生徒ではないでしょう?」

「ああ、そうだよ。生徒じゃない。だから――だからこそ、教えてくれよ……俺、先生を守りたいんだよ」

 

 縋るように彼は囁いたが、私は答えられなかった。

 ――どうして、そんなことを言うの。

 在学中は一点の曇りもなかった彼の心、今はやすみで満ちている。


「先生、俺、思いつく奴らは全員潰したんだよ。だから、もう大丈夫だと思った。先生はもう傷付かないって。それなのに――どうすれば先生は傷付かなくなる? 教えてよ……!」

 

 ああそうか――彼は私の為に病んだ、そう理解した。

 ただ、離れたこの数年、彼の中に鬱積したそれは、引き受けるには重すぎる。

 守りたいと願うなら、どうか心安らかにいてくれないか。

 そうでなければ。

 彼のやすみを引き受けたら、おそらく私は死んでしまうだろう。

 そうなれば、彼はきっと壊れてしまう。

 ――どうする、失敗できないぞ、これは。

 泣きそうな顔の美青年を見上げ、考え抜いた末に答える。


「もう、何も。何もしないでください」


 刹那、ぞわり、と背筋に寒気が走る。

 目の前には静かな絶望があった。


《終》

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