第5話 赤き凍結塊、それが〈コマセ〉

「オイちゃん、こっち側、右には、いったい何が入っているの?」

 白き大きな冷凍庫の左側に入っている、ブロック状の〈潮氷〉の説明を叔父から受けた後で、仁海は、右側の不可視の白い蓋を開けてみた。

 右の箱の中に並べ置かれていたブロックは、透明ではなく、薄い赤色の塊であった。


「この赤い、レンガみたいなのって、いったい何なの?

 さっきの透明の氷が青色の氷系の〈ヒャド〉ならば、こっちの赤いのは、さしずめ、炎系の〈メラ〉みたいな感じかな?」

 仁美は、再び、RPGの魔法の系統に、それぞれのブロック状の塊を喩えてみたのであった。


「とりあえず、これを着けてから、その赤い塊を触ってみな」

 そう言って、叔父は、業務用の薄水色の使い捨てのゴム手袋を、仁海に手渡した。

 着けてみると、その水色の手袋は、仁海の手にフィットした。

 仁海は、その水色の薄手の手袋を着けた手を結ぶや、折り曲げた右手の中指で、目の前の赤い塊をノックしてみた。

 仁海の右中指の関節部に伝わってきた感触は、まさに、石のような硬さであった。


 それから、仁海は、結んだ手を開くと、掌でその赤い塊の表面を撫でた。

「ヒャっ、つめたっ! 薄い手袋って、けっこう冷たさが、まんま、伝わってくるんだね。この赤いの、ほとんど氷だよ」

「そりゃそうだろ。冷凍庫に入っているんだからさ」

「赤いからって炎属性じゃなかったんだ。でも、色は青と赤だから、左手に潮氷、右手に赤いレンガみたいな塊を持てば、〈氷炎地獄(インフェルノ)〉って、高難易度魔法が発動できそうな気になるね」

 そう言って、仁海は、氷と赤い塊を掴んで、魔法発動のポーズを取って見せたのであった。

「あらら、触っちゃったよ」

 叔父は、そんな仁海に、呆れ顔を見せたのであった。


「ヒトミ、そんじゃさ、その右手を鼻に近付けてみな」

 そう言われた仁海は、水色の手を顔に近付けんとしたのだが、鼻先、五センチ程度のところで、思わず、手と顔を斥力のように遠ざけてしまった。

「く、臭っ!」

 反射的に言ってしまった後で、瞬時にして、冷静になった仁海は、こう言い直した。

「な、なんか独特の、こ、個性的な、に、ニオイだね……」

 そう言いながらも、仁海は、水色のゴム手袋を裏返しになるように素早く取り去ると、素手になった右手をもう一度、鼻に近付けた。

 その右手からは、もはや、赤い塊から移った独特の匂いは漂ってはこなかった。


「凍っていても、臭いは、わずかに付いちゃうんだよな。でも解けたら、もっと凄まじいよ。とにかく、その赤いのを売る時には、基本、素手では掴まずに、こんな風にして、ビニールの中に入れて、そのまま、お客さんに渡すようにするのがコツなんだよ」

 そう言った叔父は、手提げ付きのビニール袋の取っ手部分を掴んで、物それ自体には全く触れずに、赤いブロックを、器用に袋に入れてみせたのであった。

「ちょっと、ヒトミもやってみな」

 叔父に言われて、仁海も、赤い塊を直接ビニールに入れてみようと試みたのだが、うまくは出来なかった。


「わ、わたし、不器用なんで……。でも、手袋で掴んで、それから手袋を取れば臭いは付かないんだから、手で扱っちゃダメなの?」

「うっ、うぅぅぅ〜〜〜ん、ダメってことはないけれど、コイツを扱うたびに、手袋を着けたり外したり、あるいは、手洗いをして臭いをとったりするのは、お客さんが多いと捌き切れんから、できるだけ触んないようにする方がよいんだよね」

「分かったよ、オイちゃん。手で触んないでビニールに入れるのは練習しておくよ。

 ちょっと待ってて、忘れないうちに、メモを……」

 仁海は、表紙にマジックで『釣具屋さん おしごと』と書いた大学ノートを開くと、その一ページ目に、以下のようにメモし始めた。


  白い箱 冷凍庫

   右 赤いブロック(メラ)  ?         ?

    □ To do:ブロックのビニール入れスキル

   左 青いブロック(ヒャド) 潮氷(しおごおり) 保存・氷締め用

 

 それから、ノートを開いたまま、仁海は叔父に質問した。

「で、今さらな話なんだけれど、この赤いブロックって、いったい何で、何のために使うものなの?」

「これが〈コマセ〉だよ。

 で、お客さんが、『コマセをくれって』言ってきたら、白い冷凍庫の右から、この赤いのを出せばよいから。

 お客さんの中には、『コマセ』って呼び名が分かんなくて、『小さいエビを凍らせて固めたヤツ』とか、『あの赤いヤツ』とか言ってくる人もいるかもだけど、まあ、物を見せれば、向こうは、欲しい物かどうか自分で判断してくれるから、ヒトミにとって難しい事は何もないよ」


「まとめると、この赤い凍った、レンガみたいなブロックが『コマセ』で、『コマセ、くれっ』ってお客さんが来たら、直接手で触れないように注意して、ビニール袋でくるって包んで売れば、それでよいんだね。

 これで〈ファイナル・アンサー〉?」

「〈オッケー牧場〉」


「これならば、初めて釣具屋さんのお店に立つわたしにも、コマセは売れそうだけど、でもさ、でもさ、そもそもの話、〈コマセ〉って具体的に何なの? そんで、いったい何に使うものなの?」

 普段、東京に住んでいて、まったく釣りをしたことがない仁海は、コマセという語を聞くのも、見るのも初めてであったのだ。


「まあ、釣りをやる人で、コマセを使ったことがない人ってあまりいないし、そもそもの話、コマセを買いにきた人は使い方が分かっていて買いに来ている人だから、何なのか知らなくても、ヒトミは、ただ売れば、それで十分なんじゃない?」

「たしかに、そうかもだけど、オイちゃん、知らないよりも知っておいた方がよいに決まっているんだから、面倒がらずに教えてよ」


「わ、分かったよ。要するにさ、コマセってのは、広い意味では、ハリに付けるエサじゃなくって、〈釣り座〉周辺、つまり、ポイントに魚を呼び寄せるために撒くエサ、撒餌(まきえ)全般の事を言うんだよ。

 そんで、この赤い冷凍ブロックってのは、撒き餌として使う、ごくごく小さい、一センチもない〈アミエビ〉を固めたもので、正式な名前は〈コマセ・アミエビ〉って言うんだ。それを、略して〈コマセ〉って呼んでいるんだよ。

 中には、東京とか、他所から来たお客さんの中には、〈アミエビ・ブロック〉って呼ぶ人もいるけれど、地元の常連のお客さんが〈コマセ〉って言えば、だいたい、この〈アミエビ〉の赤い塊を買ってゆくんで、『コマセください』って言われたら、たいてい、撒餌一般のことを言っている分けじゃないから、この赤いのを出せばOKだよ」


「具体的で重要な情報って、〈コマセ・アミエビ〉の後半の〈アミエビ〉の方にあるのに、言葉の前半だけを切り取って、〈コマセ〉って呼ぶのって、なんか、〈コスプレイヤー〉の重要情報が前半の〈コスプレ〉にあるのに、〈レイヤー〉って呼ぶのに似ているね」

「??? なんか分かったような分かんないような喩えだけれど、呼び名に〈アミエビ〉がない事について、ヒトミが気になったってだけは、かろうじて分かったよ」


「それじゃ、この凍った塊を、ドボンって、そのまんま水に入れると、魚が集まってくる分けなの?」

「まさかっ! そもそも、この赤いコマセは、アミエビを保存するために、冷凍して固めたものだから、コマセは解かして使うものなんだよ」

「でも、どうやって? 〈レンチン〉でもするの?」

「ちゃうよ。冷凍食品じゃないんだから。まあ、やってもいいけど、その場合は、レンジは買い替え必須になるよ。

 で、冗談はさておき、夏場とかの暑い時期だと、自然に解けるのに二時間から四時間くらい、冬だと、やっぱ寒いから六時間かけても解けない場合もある」

「でも、釣りに行って、自然に解けるまで、そんなに長く待ってられなくない?」

「現場で解かす人は、網に入れて水に浸けておく人もいるよ。それでも時間がかかるから、解凍時間を短くするために、持参したお湯をコマセにかけたり、車のエンジン熱で強制解凍させる人もいるかな」

「車のエンジン熱って、なんか、チート技だね」

「まあな。とにかく、まずは、何らかの方法で解凍して、それを容器に入れて、水で混ぜた後、必要な分だけスプーンなどで取り出せば、そのまま釣りができるから、コマセを使っての釣りって、初心者でも割とお気軽にできちゃう釣り方なんだよね」

「オイちゃん、でもさ、でもさ。たしかに、コマセを使った釣り自体は簡単なのかもしれないけれど、自然解凍に数時間とか、お湯で解凍時間の短縮とかって方法があっても、やっぱり、料理でもそうだけど、凍ったものをを解かすのって、なにげに、面倒だと思うんだ」


「ヒトミの言うのは、初心者のもっともな感想でさ。冷凍されたコマセってのは、たしかに、昔ながらの撒き餌なんだけれど、最近では、解凍がめんどうな人のために、袋に入ったコマセも発売されているんだよね」

 そう言った叔父は、白い冷凍庫近くの棚を指さしたのであった。

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