第一釣 わたし、はじめて店に立つ 

第一章 白い箱の中身は何ですか?

第4話 まるでヒャドみたいな〈潮氷〉

「それじゃ、これから、ヒトミに独りで店をやってもらう事になる分けだから、一通り、オフクロの釣具店の研修を、今日のうちに済ませちまおうか……」

 こうして、父の弟である〈オイちゃん〉が、仕事の説明をしてくれる事になった。

 父は、今、釣具屋とは全く異なる職業に就いていて、さらに、大学への入学を機に上京して以来、ほとんど大洗の店に立ってはこなかったので、父では、仁海に、釣具屋のイロハを教える事は難しいのだ。


 店の入口から真ん中あたりまでは、仁海には見たこともないような道具がズラッと、しかも雑然と置かれていた。

 それらを手に取って眺めていると、その様子を見た叔父が仁海にこう言った。

「大洗の店はな、こんな風に釣り道具が沢山置いてあるけどな、これらは殆ど全て、死んだオヤジが次から次に、どんどん仕入れたものなんだよ。だから、何がどんだけ何処にあるのかってのはオヤジしか分かんなくって、俺にも完全には在庫の把握ができていないんだ。

 で、オヤジの店を引き継いだものの、オフクロは、そもそも道具のことはあんまり詳しくなかったから、倉庫から売れそうな物を俺が出して置いておいて、それらを、お得意さんが自分で物色して、勝手に選んで買って行くって感じだったから、ヒトミも道具の事は別に覚えなくてもいいよ」

 こう言われて、仁海は実はホッと胸を撫で下ろした。

 針、糸、錘、竿など、膨大な種類の道具を把握するだけで、一体どれほどの時間を要するのか、と軽く絶望しかけていたからだ。


「覚えてもらいたいのは、まずはコレからかな」

 そう言って叔父は、店の真ん中あたりに置かれている白い大きな箱の前まで、仁海を連れて行った。

「オイちゃん、この、お菓子屋さんとかに在るアイスが入っているみたいな、大きなケースって何?」

「『アイスが入っているみたいな』? ああ、なるほどね。この白い箱は、ヒトミが思ったまんま、見たまんまの物だよ」

 そう言いながら、叔父が、真ん中で二つに分割されているその大きな箱の左側の蓋を開くと、箱の中から、冷気が外に流れ出てきた。

 箱の中、そこには、ブロック形の氷が並べ置かれていた。

 つまり、その箱は、いわゆる〈冷凍ケース〉だったのだ。 

 ただ、叔父と仁海の目の前に在る白い箱と、駄菓子屋などの冷凍ケースとの違いは、駄菓子屋の冷凍ケースは、蓋の部分が透明になっていて、そこに、どのようなアイスが冷凍保存されているのかを客に見せるためのショー・ケースになっているのに対して、大洗の釣具店の白い箱の蓋の色は本体と同じ白色で、中が見えないようになっている点であった。


「左側には、〈ブロック氷〉が入っているから、もしも、氷が欲しいってお客さんが来たら、冷凍庫の左から出してあげて」

「この氷って、いったい何に使うものなの? 釣ったお魚を保存するためのもの?」

「そうだよ。魚を氷で冷やすのは、当然、魚の腐敗を遅らせるためなんだ」

「やっぱり」

「で、ここがポイントなんだけど、うちの氷は、海水を凍らせている〈潮氷(しおごおり)〉だからね。ここ重要」

「えっ! なんで、水道水とか真水じゃダメなの?」

「そりゃ、ダメだよ。

 まず、入れ物には、釣る場所の水を汲んでおいて構わないんだけど、特に、海釣りの場合には、買ったペットボトルの水や、家から持ってきた水ではなく、海水を必ず使わなくちゃあかんのよ」

「でも、どうして?」

「それは、だな。塩分を含んでいる海水は、真水よりもキンキンに冷えるからなのさ」

「へえ、そうなんだ」

「そう、うちの店が、海水で作った氷を売っている意味がここにあるわけ」

「なんで?」

「真水で作った氷が溶けて混ざると、塩分濃度が下がっちゃうからだよ。もし、そうなった場合、入れておいた魚が水っぽくなっちゃうんだよ。

 あと、これは加減なんで難しい話なんだけれど、魚って冷やし過ぎもダメで、保存の適温は五から十度って言われているので、手を入れてみて冷た過ぎる、と思ったら、氷を取り出して温度の調整をする必要があるんだよね」

「そうなんだ。なんか、その皮膚感覚ってのが分かりにくいね」

「でも、加減が難しいのは、潮氷を買うお客さんの方で、うちらは売るだけだから、氷の使い方を訊かれたら、今の説明を、なんか上手くやっておいてくれよ」

「はぁ~い」


「オイちゃん、このブロックの潮氷ってお魚を冷やしておく以外にも何か使い道あるの?」

「あるよ。魚の保存以外に、氷は、魚を〈締める〉時に使うんだよ」

「? オイちゃん、『魚をしめる』って、そもそも何?」


 叔父が言うに、釣った魚はすぐに劣化し、鮮度が下がり始める。つまり、魚「料理は船の上から始まっている」という言葉があるように、魚の美味しさは、釣り上げた魚を即死させ、いかにして魚の新鮮さを保持するかにかかっており、その釣った魚の新鮮さ保存のための即死処理のことを、〈魚を締める〉と呼ぶそうなのだ。


「ねえ、おいちゃん、なんで即死させる必要があるの?」

「えっと、だな。一般に魚は死ぬと死後硬直して、〈ATP〉って言うんだけど、要するに旨味成分が失われてゆくんだよ」

「へえ」

「でもな、魚を即死させると、普通に死んだ場合とは違って、魚の死後硬直が〈ディレイ〉して、旨味成分、ATPの減少が抑えられるんだよね」

「でも、釣った直後にしめずに、生きたまま家に持って帰った方が新鮮なんじゃない?」

「チッ、チッ、チッ。そこが素人の浅はかさ。

 魚は狭い容器の中で暴れたり、川や海といった、それまで泳いでいた広い環境から狭い入れ物の中に移されると、その環境変化のストレスのせいで鮮度が落ちちゃうから、釣った直後に即死させるのがベターなんだよ」

「へえ。お魚って繊細なんだね」


「まあ、つまりさ、〈締める〉ってのは、魚を釣った直後にいかに素早く殺すかってゆう、即死のテクニックなんだけれど、その魚の締め方にも、〈脳天締め〉〈神経締め〉〈血抜き〉と色々あってだな……」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って、オイちゃん、刃物を使って血抜きをするってのは知ってる。料理でもやるから、わたし、分かるよ。

 だから、オイちゃんの、お魚の即死法の講義は、取り合えず置いといて、話を氷に戻してよ。

 で、この白い大きな冷凍ケースに入っている氷で、どうやれば、お魚を締められるっていうの?」


「刃物を使っての血抜きってさ、たしかに、魚の鮮度を保つためには重要な処理法なんだけれど、血は苦手って人もいれば、刃物の扱いに慣れていない人もいるし、また、不慣れだと処理に時間もかかるし、要するにさ、血抜きって、けっこう難易度が高い締め方なんだよね」

「たしかに、そうかもね」

「実は、ナイフを使わず、時間もかからない、お手軽な魚の即死方法があって、それが〈氷締め〉なんだよ」

「でも、どうやって、氷でお魚を即死させるの?

 わかったっ! 氷って凍っていて硬いから、撲殺だっ!」

「なわけないだろっ!

 クーラーボックスに入れておいた海水に〈潮氷〉を入れて、水をキンキンに冷やしておくんだよ。で、そこに、釣った魚を入れて、その急激な温度の水温差によって、魚を凍死させるのが、いわゆる〈氷締め〉なんだよ」

「それならば、ナイフいらずだね。なんか、剣を使えない魔法使いが、氷系の魔法、例えば、ヒャドとかで敵を倒すみたいだ」

「ハハハ。うまいな、その喩え。

 それにさ、刃物での血抜きって、地味に時間がかかるので、もし、入れ食いモードに入って、バンバンと魚がヒットし出したら、一匹一匹を丁寧に処理している時間って案外ないんだよね。

 でも、氷締めだと、水に氷を入れて冷やしておくだけだから、数を釣る場合には、すっごく便利なんだよ」


「それならば、時間がかかる、神経締めや血抜きみたいな締め方をせずに、みんな、氷締めをやればいいのに」

「でも、氷締めって、あらゆる魚に有効な締め方じゃないんだよ」

「どゆこと?」

「氷締めは、サイズでいうと、だいたい二〇センチ級の小魚向けなんだよ」

「どうして?」

「小さい魚だと、すぐに冷えるからさ。でも、それ以上のサイズ、たとえば、二十五センチ級のものが釣れた場合、大物が釣れたのは確かに嬉しいかもだけど、でかい魚は、冷えるまでに時間がかかって、氷締めが効かないので、血抜きをしてからの氷締めが良いんだよね」

「なんか、それって、ちょっと強い敵は、剣でダメージを与えてから、ヒャドでトドメみたいだね」

「なんか、お前のRPGの喩え、分かりやすいな。俺も、今度、初心者の客に訊かれたら、その喩えを使ってみるよ。

 まあ、いずれにせよ、今、秋でハゼが釣れているシーズンなんだよ。ハゼは二〇センチ級の小魚で、数が釣れるのが面白いから、氷が欲しいってお客さんが来たら、冷凍庫の左からブロック氷を出してね」

「うん、わかったよオイちゃん。チッサイお魚にヒャドで無双したいお客さんが来たら、潮氷を出せばいいんだね」

「まさに、それな」

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