雪の果て
登崎萩子
妻の名前
私の役目は、城の片隅で大人しくしていることだけ。日の当たらない部屋は、何年も同じ造花が飾ってある。ここには誰も来ないはずだった。
「ローゼ様、失礼いたします」
侍女のマリアは慌てているのか、早口だった。滅多にない出来事だ。
万が一のことに備えて椅子から立ち上がると、体がきしむような気がした。
マリアの後ろから年下の第一王子が現れる。金色の髪と、青い瞳はどんな場所でも輝いていた。
「嫁ぎ先が決まった。クヴセ人には、これで十分だろう」
挨拶はなかった。それでも、これは温情に違いなかった。
「確かに賜りました。今まで」
私の言葉を聞き届けることなく、殿下はお帰りになった。
母は、私が生まれてすぐ亡くなった。平民だったそうだ。私が王女だというのは、夢のようで実感がなかった。
「マリア、今までお世話になったわ」
「ローゼ様とご一緒いたします」
私が幼い頃から、マリアはそばにいた。嘘をつくと声はほんの少し高くなる。それがなかった。
目尻に浮かぶ皺が増えた気がする。それでも柔らかく輝く金髪は豊かで、マリアは若い。
「ローゼ様、もっと喜んでくださいな。ようやくここから出られるんですよ」
何を喜ぶの。マリアは、私の手をそっと包むように握る。
「これからは、ご自分のお好きなように暮らしてください」
陛下は、お許しになるのかしら。
道には雪が残っているけど、色は茶や黒が混ざっていた。延々と馬車に揺られ、風景を眺めていた。マリアは、城にいた頃と同じように声をかけてくる。
「心配なさらず。ローゼ様なら大丈夫です」
マリアは座っている時間を埋めるように語ってくれた。内容は、互いの国を行き交った書簡のことだった。
クヴセ人の商人の入国を禁止して、争いが起きたこと。
私が和平のために嫁ぐこと。
通行を許可したが、クヴセ人は辺境の領地までしか入ることはできない。
あちらはイルネート国とは違い、世襲ではない。次の王は民によって選ばれる。
「申し訳ありません。もっと早くお話しすべきでした」
「気にしないで。私に出来ることはなかったわ」
マリアは、その書簡の内容を噂で聞いたはずだった。私達には、何も知らされないのだから。
窓の外の景色は瞬く間に変わっていく。草木は、葉を落としていた。あっても濃い緑色だ。馬車での過ごし方は習わなかった。座っていてもめまいがしてくる。
『イルネートの役に立て。第一王女として恥ずかしくないように暮らせ』
昔の言葉が、幽霊のように漂う。
馬車の窓には、明かり取りの小さなガラスがはめ込まれていた。そこに映った自分に向かって、話しかける。声はマリアにも届かない。
肌が白く、細い体に短い右腕。栗色の髪に、灰色の瞳が見返してくる。映りこんだ私は確かに王女だった。絹の服に手袋をしているが、右手はない。ひじから下が生まれつきなかった。
「私は第一王女」
鏡に向かって唱えることが、数少ない習慣だった。
日が暮れて、空が薄い紫に変わる。王宮を出てから、色が変わることに気づいた。
領主館に辿り着くと、暗い中馬車を降りる。出迎えもなく、マリアが身の回りのことを済ませた。
早朝に外へ出ると、雪が木の枝から落ちてくる。クヴセはイルネート国よりも北にあるらしい。
馬車の近くに騎乗した人が数名いる。外の空気は冷たく肌を刺すのに、彼らは軽装だった。こちらに気づくと、素早く馬から降りる。
「この度は、お礼申し上げます。私達もご一緒します」
見上げるように背の高い男性だった。肩にかかるくらいの赤い髪は、燃えるように波打っていた。瞳は緑と珍しい。視線に気づいたのか、彼が私に向かって微笑んだ。
「俺はヴェルデです。昨夜は休めましたか」
王女に対する言い方ではなかった。ただ、イルネート語の発音は正しい。
「はい。私がローゼです。侍女はマリアといいます」
王女らしくなかった。なぜこんな失態を犯したのかしら。
自国の者は、従者と婚姻の使者を兼ねていた。日陰者の第一王女には無関心なのか、咎めるようなことはなかった。
馬車に乗ると、前後を騎乗した男たちが固める。何か忘れている気がして、落ち着かない。
「マリア、私の振る舞いをどう思う?」
「ご立派です。護衛の方の大きなこと。一目見て、少し怖いくらいでした。私は顔に出てしまいましたが、ローゼ様はそんな事ございませんでした」
見た目は怖くはなかったわ。そう、見た目。彼らは私の手について一言も触れなかった。好奇の目や、見下す雰囲気もなかった。珍しい。他国の使者に会った時は、こうはいかなかった。
国境を越えて森を抜ける。マリアが居眠りをしていても、それを咎めることはない。判断し「罰」を与えるのは国王であって、私ではない。
「ローゼ様、少しはお休みになれましたか」
「ええ」
全く目を閉じることはなかった。マリアにそれを言うことはない。
外へ出ると、空気はより一層冷えていた。初めての場所なので様子はよく分からない。
足が地面に付いた途端、周りの景色がぐるぐる回る。目の前から光が消えた。マリアの声が遠くから聞こえる。体のどこに力を入れれば倒れないのかしら。
腰の上を温かく支えられる。それはちょうど胃の裏側で、場違いにも空腹を思い出す。
「なんだか、お腹が空いたわ」
いつもなら言うことはない。叱られるだろうか。隣で背中を支える手がマリアよりも大きい。
「食事の用意を頼む」
大声ではないが、よく響く声だった。ようやく、視界が元に戻る。すぐそばにヴェルデが立っていた。夜になると、瞳は濃い青にしか見えなかった。仰ぎ見る形になるが、目が合っても顔色一つ変えない。
「ここは景色がいい。特に星空が美しい」
決して押しつけがしくはなかった。ヴェルデは、私が空を見なくても怒りはしないだろう。何故かそう思った。それでも、言われた通り空を見上げる。
漆黒の中に浮かぶ光は、途切れることなく頭上に広がっていた。よく見ると星は瞬いているように見える。星とは絶えず光を放っていると思っていた。息をしようとしても、上手くできない気がする。
「気に入ってもらえたのは嬉しいが、冷えるだろう」
私はこの景色を気に入ったのだろうか。ヴェルデは笑いながら言う。耳が温かい気がした。空から目を戻すと、首が痛む。
目が慣れてくると、草原のあちこちに布のような物で作られた六角形の天幕が見えた。マリアと共に案内される。
クヴセの者は、こんな寒い時期にも屋外にいるのだろうか。一番奥まで歩いていくと、ひときわ大きい天幕に辿り着く。いい香りが漂っていた。甘く柔らかい。
入口の布をめくると光があふれてきて目をすがめる。床には何かの毛皮が敷き詰められていた。
「靴はどうすればいいでしょうか」
マリアが尋ねる。不作法にならない程度に様子をうかがうと、天井が思ったよりも高い。クヴセの人でも手が届かないだろう。
「どちらでも構わない」
岩のような体格をしている。イルネートの貴族が体を鍛えているといっても、彼ほどではない。それでいて所作が雑ということもなかった。話し方も穏やかでゆったりと話す。命令するようなところはないのに、周りはヴェルデに従う。
「では明日」
そう言うと出ていってしまう。マリアと二人で食事をとる。
「周りは優しい人ばかりで、食事もおいしいですね」
馬車の揺れのせいか、まだふわふわと体が揺れている気がする。
「ええ」
部屋は暖かく、食事もおいしい。調度品もイルネートの物に似ている気がする。椅子に机、ベッドまである。クヴセは生活が違うと思っていたが、天幕であること以外、今までと大きく変わらない。
「お休みの準備をします」
マリアに任せて一人座っていることしかできなかった。
夜が明ける前に起きると、マリアが婚礼衣装の支度をする。黒い生地に、銀糸で花の模様が縫い取られている。
「お迎えに上がりました。ジャフルと申します」
男の声がした。外に出ると朝の光がまぶしい。
ジャフルも背が高く、肌の色が濃い。体に巻き付けるようにしている服は、見たことがないものだった。砂漠や山岳地帯に住むものは一枚の布を巻くと本で読んだ。
無表情で言い渡す姿は、イルネートで親しんできたものだった。
森の中に入るとイルネートのように石造りの館が現れた。点在する天幕と森にある館。それがクヴセだった。
沈黙のまま進んでいく。館内には埃が積もっていることもない。室内の空気も澄んでいて、まだ冬なのに花が活けられていた。
子どもの頃、マリアによく本を読んでもらった。妖精が人間の家を掃除したり、幸運をもたらすおとぎ話。それを思い出す。
ジャフルが扉を開けると、ヴェルデが目に飛び込んできた。輝く緑は、日の光の中では新緑のようだった。
はっとして意識を戻す。通路の両側に人が立っている。祖国の使者もすぐにわかった。
ヴェルデと手がない方が隣り合う。
「騙すつもりはなかった。クヴセの王は、たいして偉くない。」
真っ白な服を着た老人が、聞いたこともないような言葉を、歌うように話す。儀式の最中にも関わらず、ヴェルデは小声で続ける。
「なれなれしいのは嫌だろうが、我慢してくれ」
王、いいえ。ヴェルデ様は腕を私の腰にまわした。今までこんな目にあったことはない。マリアに身の回りのことをしてもらっても、すぐにその手は離れた。顔が赤くなっているのが鏡を見なくても分かる。
何とか目線を上げて、背筋を伸ばすと優しい笑顔を向けられる。
祝いの言葉が聞こえる中、使者たちは婚姻を見届けると、すぐに去ってしまう。
「申し訳ありません。本来なら王に対して祝いの言葉を申し上げるところ、お恥ずかしい限りです」
とてもヴェルデ様の目を見ることはできない。
「東の国が来ているからあまり暗い顔はするな」
「東の国ですか」
「あちらともうまくやっていれば、当分は戦いをせずに済む」
まあ、独り言かしら。違うわ。私に説明して下さったのね。
「東の国は、王女殿がいるので商売相手として認めてくれるらしい」
「それは、これからは東の国とうまくやるということですか」
「俺たちはどこの国でも構わない。商品を売り、曲芸をしながら国を回らせてくれるなら」
式が終わると、ヴェルデ様は初めの天幕とは違うところへ歩いていく。
「そのうち別になるだろう」
「別というのはどういうことですか」
「お互い気に入った相手と暮らすという意味だ」
軽い調子で言われても全く理解できない。
「私はどうすればいいのですか」
ヴェルデ様は床に横になる。
「この国から出ていかなければ、自由にしていい」
「私が信用ならないので、そばにはおけませんか」
「君はそれでいいのかと聞いているんだ。この国では君が産んだ子供は、現国王の子になる。世継ぎという訳ではないから、保証はない。が、父親が誰であろうと問題はない。イルネートの使者が来た時だけ、俺とうまくやってくれればいい」
そのまま寝ようとする。
「お休みですか」
「寝相が悪いんだ」
怒られるかと身構えたのに、言い方は優しく気遣うようにもとれる。
それ以上繰り返すわけにもいかず、一人でベッドに入る。時折、木々の音か、名前も分からない動物の声と、祝いのため歌う人の声が聞こえた。
翌朝、ヴェルデ様はいなかった。外へ出ると空は薄い水色だった。寒さも昨夜よりは和らいでいる。マリアは部屋を整え、私の服を変える。濃い緑色に銀糸の刺繍だ。飾りは同じく緑色の宝石だけど、私の持ち物ではなかった。
「用意して頂いたお召し物ですが、よくお似合いです」
ぼんやりと入口の前に立っていると、周囲に人の気配がある。
二、三十歩先の天幕の陰から女性達が、こちらの様子をうかがっていた。赤や青の鮮やかな色の布が隠しきれずに見えていた。
イルネートでは身分というものを真っ先に考えるものだが、クヴセはどうなのだろう。嫁いでくる前に「陛下」から説明はなかった。
「結婚おめでとう」
天幕を出て歩き始めた途端に囲まれる。歌声も聞こえてきた。
「姉さんの刺繍はやっぱりクヴセで一番よ」
「こんなに肌が白くて、日焼けしても大丈夫かしら」
口々に感想を言い、中には腕や髪に触れる者さえいた。見世物になるのは慣れているが、いつもと違う。
「ヴェルデは先に行っちゃったのね。あなたも急ぎましょう」
色とりどりの服を着た女性達は、私とマリアの手を引く。
雪はところどころにあるが、歩いていくのに支障はなかった。いくつもの天幕を越えていくと開けた場所に出る。広場のようで、人々が地面に敷物を敷いて座っている。それぞれ食事をし、歌い踊っていた。
「とても楽しそうですね」
マリアの顔が明るい。突然花が降ってきた。
「結婚おめでとう」
花冠を持った女性が近づいてくる。
「まあ、美人。服も素敵な色ね。ヴェルデが何で銀糸にこだわったのか、みんな不思議だったのよ」
背の高い女性は、正面から私の頭に花冠を載せる。
「こちらの結婚式はずいぶん家庭的なんですね。私の田舎の式を思い出します」
感心したようにマリアが言うが、私は結婚式を見たことがない。
遠くにヴェルデ様を見つけた。大勢に囲まれていても、赤い髪と長身は遠くからでも分かった。
ジャフルと黒髪の美女が歩み寄って来る。
「あら、もう来たの」
何故か胃がむかむかする。空腹のせいで気分が悪いのかもしれない。美女は肩を出した服を着て、けだるそうに言う。
王女としての務めを果たさなくてはいけない。喉に綿が詰まっているようで、苦しい。移動の疲れかもしれない。
「これから、王妃としてよろしくお願い致します」
「誰かが結婚するときは、祝いの席が三日三晩続くのよ」
ジャフルが敷物と食事を用意してくれる。マリアが座った。どうしてもその場から足が動かない。
「まあ、イルネートの王女様はこんな下品なことなんて出来ないのね」
美女の笑い声は、祖国にいた頃聞いたものと同じく、心臓を凍えさせるものだった。
『右手がないとずいぶん不便なのね』
王女に出来ないことがあってはいけない。第二王女の優しい笑みと優雅な動きをまねる。
裾を踏まないように軽く持ち上げ、靴を脱いで敷物の上に上がる。祝いの席で淡い色の花が舞い、歌声が響く中で、私一人だけが冷たい水の中にいるように固まっていた。
「椅子をお持ちしましょうか」
「いいえ、必要ありません」
目を閉じてゆっくりと腰を下ろす。まぶたを透かして日の光が星のようにきらめいた。すぐに、心配そうなマリアの顔が目に入った。
手づかみで食べるのは良くないと言われていたが、ジャフルは器用に食べており、皿に果物を載せて渡してくれる。
「ありがとうございます」
「いえ、お口に合うといいのですが」
皿を左手で受け取る。身分が違うとか直接皿を受け取ってはいけないのは、イルネートの話。ここはクヴセだ。
風が柔らかく、日差しが温かい。花の香りか、料理の甘い香りにふわふわとした気分になる。果物は色が濃い紫だった。口に入れると、みずみずしく程よい酸味と甘みだった。
「とてもおいしいわ」
「ぜひ、俺たちの席に来てくれ」
激しい口調に驚く。木の器を持った屈強な男たちが周囲に集まってきた。
「ぜひこれを」
手渡された深めの皿には、真紅の液体が入っている。一体何の飲み物かしら。
「俺達のところでは飲むことになっているんだ。早く飲まないと固まっちまうよ」
にこにこと話す様子は本心から祝ってくれているのがよく分かった。
「ありがたく頂戴します」
動揺を出さないように、口を付けるとすぐに飲む。口いっぱいに血の味が広がる。いつまでも口に含んでいる訳にもいかないので飲み下す。
気づくと背中に汗をかいている。
「イルネートにはない習慣なのに、よく飲んだな」
笑い声はもう何度も聞いた気がする。
「お祝ですから」
断ることなど考えなかった。ヴェルデ様はそのまま私の隣へ座り込む。
「俺にも分けてくれるだろうな」
男たちはつまらなそうに顔をしかめる。
「王に選ばれたからって横柄な態度はよせ」
肩をすくめて気にしたふうもなく返す。
「この前の戦いでは多少役に立っただろう。それに、いい馬を買い付けてきた」
男たちの笑い声が耳に響く。子ども達が、花や草で作った飾りをもって駆け寄ってくる。
「お姉ちゃんがお嫁さんね」
子ども達は、興味深そうに見つめてくる。
「今から、仕事でよくやる踊りを見せてあげるね」
真っ黒な髪を編み込んだ、十歳くらいの子が丁寧にお辞儀をする。薄く体に吸い付くような服は、桃色から薄紫へと色を変える。大きく腕を振りあげ合図をすると、別の子供たちが手拍子をはじめ、笛を吹く子もいた。曲に合わせてくるくると回る様子は、とても子どもには見えない。
瞬きする間もなかった。顔に日差しを受けて、胸が高鳴る。少女は軽やかに仔馬のように高く飛ぶ。
曲が終わり少女もお辞儀をする。拍手を送ると年相応の可愛らしい笑顔を見せてくれた。息の乱れもなく駆け寄ってくる。
「お姉さんは何が得意なの?」
無邪気な質問は、楽しい気持ちを一瞬で曇らせた。思いつかずに少女の顔を見つめるしかできない。
「ローゼ様は王女様ですから、踊りを踊ったりはしないんですよ」
マリアの声はいつもと変わらないはずだった。それでも、なぜか前を見つめることしかできない。
「歌は好き?」
別の小さな子がやってくる。顔つきは男の子ようだが、髪が長くどちらか分からなかった。
「ぼくはね、王様みたいに戦うより歌う方が好き」
そう言って歌い始める。のびやかで、大人のような声量だった。高い音は透き通っていて、耳に心地良い。低い音は私の心さえも落ち着かせる。目の奥が熱い。滴が頬を滑り落ちた。泣くのはいつだってマリアの方だった。
「一緒に歌ってみて」
手を引かれて立ち上がる。
「大丈夫だよ。すぐに歌えるよ」
「歌うのは生まれて初めてかもしれないわ」
驚いて子どもたちが大きな声を出す。
子ども達に合わせて歌う。高い音を出そうとすると、のどが苦しくなる。音も窮屈そうになる。
目を閉じて、音を聞くことに集中する。春の土の匂いの中、子どもの声は柔らかい。私ももっと柔らかく、優しく。
夜明けの星をあなたと見上げ
いつまでも二人
あなたの優しい声は
美しい歌を私へ
星を思い浮かべていると、いつの間にか私一人で歌っていた。
目を開けると、まぶしい。幻のように星は消えてしまう。少し後ろを振り返ると、子ども達は歓声を上げた。
「お辞儀してみて」
少女に言われて、いつものように膝を曲げて礼をする。
「わあ、異国風だね」
ここでは私の方が異国の人だった。初めてにしてはよくできた気がする。自然と頬が緩む。ヴェルデ様も楽しんでくださったかしら。
「ジャフルどうだった」
「私は好きです」
ヴェルデ様の感想は聞けなかった。
「光栄です」
嬉しいのは本心だった。それでも、ヴェルデ様の言葉が聞きたかった。
その日の夜、ヴェルデ様はいつまでたっても戻ってこない。寝る気になれず外へ出る。
自分から何かをしようと思ったのは初めてだ。上着を羽織っていても、冷えてくる。寒気がするので歯が鳴る。
火が灯された広場で踊る女性たちは、私とは対照的で、薄着だった。手足を露出し、腰をくねらせる。踊りは闇に照らされ妖しくも美しかった。逃げたいのに離れられない。
「そんな所で見えるのか」
闇の中から突然声をかけられても、ヴェルデ様だとすぐにわかる。
「ええ、よく見えます」
こんな時でも私の声はいつも通りだった。足音はかすかで、近づいて来ても姿はぼんやりとしかわからない。
「ジャフルをよんでくる」
「なぜ彼なのですか」
「君が微笑むのはジャフルがいる時だけだ」
全く覚えがなかった。
「そんなはずありません。今日の歌の時は違います」
「あれは俺に向けられたものではないだろう」
誰か、ヴェルデ様を探しに来たのか足音と灯火が近づいてくる。
「戻られた方がよいのではありませんか」
「誤解だ。説明させてほしい」
その瞳が瞬いて見えた。毛皮の上着をかけてくれた。天幕に戻ると、待たされる。
「すぐに茶を淹れる」
手際よく出てきたお茶は薄い緑色だった。まろやかな香りは少し甘く感じた。
「イルネートはクヴセの民を嫌悪していた。せめて夫くらいは選べた方がいいだろうと。それで勝手なことをした」
真面目な顔をして、熊のように大きな体を丸める。叱られた子どものような言い方だ。
「緊張していただけです」
ヴェルデ様は足を崩して座ると、お茶を飲んで黙ってしまう。
「無関心な態度には慣れ親しんでいました。それだけです。あなた様が他の方を選ぶなら仕方がありません」
情けないことに途中から声が震えてしまう。
「本心か?」
瞬きをして涙を散らすと、まっすぐに緑の瞳を見つめる。どうして私は泣くのだろう。王女として役に立たないから。他に理由はないはずだった。
「私はただ王妃としての役割を果たしたい」
ヴェルデ様は立ち上がって背を向けて外へ向かおうとする。
「役目か。君には意思がないのか。俺が暴君ならどうする」
私の意思。
諫めます、と頭に浮かぶが心は違う答えを持っていた。一呼吸おいて返事をする。
「あなた様はそのような方ではありません」
「ずいぶんふざけた答えだ」
「真面目に答えました」
「どこが。君のことを放っておいたのに」
「先程おっしゃいました。意思がないのかと。あなた様は私の気持ちを考えてくださいました。優しくない方にはできませんわ。本当に暴君なら、適当に相手をすればよろしいでしょう」
盛大なため息をついて戻ってくる。
「正直に言うと、女に泣かれるのは困る。どうすればいいのか全くわからん」
「はい」
これから、涙を止める練習をしなくては。
「だが、作り笑いをされるくらいなら、泣き止ませる方法をいくらでも考えよう」
ヴェルデ様の言葉は優しいのに、涙がにじむ。
「何か欲しいものはないか」
ぼんやりと思い浮かぶ。言ったところで手に入らないだろう。
「何でもいい、絶対に笑ったりしない」
クヴセに来てからの私は何か変わったのかもしれない。
「心が欲しい。ヴェルデ様の心が欲しい」
腹の底から面白がる笑い声が響く。
「強欲だな。意外だ」
「嘘つき。笑わないとおっしゃったのに」
口から勝手に言葉が出てくる。
「馬鹿にした訳ではない。見かけによらず情熱的だと思っただけだ」
「強欲だなんてひどすぎます」
何を言っても叱ったりしない王がいるのは、おとぎ話だけではなかった。
「見えないものをねだるなんて、欲が深いだろう。体ならくれてやるし、他の者に触れさせないようにもできる」
ヴェルデ様は笑った。
「俺の心をどうやって手に入れるか、思いついたら教えてくれ」
必ず見つけて、私がヴェルデ様を驚かせてみせます。
「ローゼ、夜が明ける前に見せたいものがある」
すぐに毛皮の上着をかけてくれる。二人で天幕の外に出る。
空は薄い紫だった。それは馬車の中から見ていたものとは違った。これから朝に向かう色。山の向こうに、太陽があるのが分かる。暖かい陽の光のおかげで涙が渇く。
「ローゼ、見えたか。真上にある」
星はささやかな光でも輝いていた。ヴェルデ様が私の名前を呼ぶのはなぜかしら。
「消えてしまうなんて、少し寂しいです」
「星も月も消えたわけではない。隠れているのは一瞬だ。夜になれば、また見える」
そう言いながら、優しい腕が私の肩を抱く。右側に立つヴェルデ様は空を見上げたままだ。私は、体を寄せた。そして短い右腕でヴェルデ様の背中を精いっぱい包んだ。
雪の果て 登崎萩子 @hagino2791
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