後編
アメショーの部屋は綺麗に掃除されていた。
小窓のカーテンは二重になっていて、レースのものだけが閉じられており、そこから午後二時の日差しが淡く差し込んでいる。窓枠を指でなぞって埃の有無を確かめはしないが、きっと隅々だって汚れていない。整理整頓の行き届いた空間はかえって生気がなくて落ち着かなかった。乱雑に積まれた文庫本や漫画本の類でもあれば、と思って見回すも、それらは背の低い書棚に整然と並んでいる。私がその間に指を滑り込ませるのを固く拒んでいるふうですらあった。もしかすると私の来訪のために念入りに清掃したばかりなのかもしれない。ようするに、その部屋にある物は皆、お利口さんだった。ついでに言えば可愛らしくもあった。彼女みたいに。
また一歩、室内に踏み込んでみると花の香りが私の鼻孔をくすぐる。つんとするレベルではない。探す。どこから? 花瓶に飾られている生花もなければ、無論、それらを床に敷き詰めているでもない。見つけた。ホワイトピンクのチェストの上にある、アロマディフューザー。小瓶に棒状のものを何本か差しているタイプだ。他のタイプもあるのは知っているが、私が一見してそうだとわかるのはこのタイプしかない。他は、加湿器や別の機器と間違えてしまうと思う。絵の具に詳しくない人間がアクリルカラーとアクリルガッシュの差異を知らないのと同様に。
ラベンダーかな。この香り。
「立っていないで座りなよ」
私を自室の前まで案内しておいて、飲み物とお菓子をとってくるからとキッチンへ向かったアメショーがすたすたと戻ってきた。両手で四角い木目調のトレイを持っている。気圧されて、部屋の真ん中まで私は踏み込む。閉じられるドア。密室。微かに匂いが増したような。アメショーのかも。授業中ずっと近くにいると鼻が慣れちゃってわからなくなるけれど、ふとした瞬間に感じる、あのいい香り。
彼女が部屋の中央に置かれた折り畳み式のローテーブルにトレイを置く。
「おかまいなく」
「それ、準備する前に言ってよ。ほら、座って」
テーブルを挟んで私たちは座った。敷かれているのは手触りのいいカーペットだ。まるで子猫みたい。自分が撫でたことがある動物は親戚の家で飼っていた大型犬の毛ぐらいしかないのだけれど。野良猫に触れた経験すらない。なんだか睨まれることが多い気はする。
「まぁ、とりあえず一杯やりなよ」
「おっさんじゃん」
アメショーに睨まれてしまった。彼女は、ずいっと私に、持ってきた紙パックのリンゴジュースを差しだす。飲みきりサイズだ。私のために用意してくれたのだろうか。お菓子は市販のクッキーだった。チョコチップの入ったバタークッキー。
「それで、頼み事ってなに」
「焦らなくても逃げないから。まずはおしゃべりしようよ」
「鈴音のすべらない話が聞けるってこと?」
「ざ、雑なフリだなぁ。うーん……ええと、私が茶道部なのは話したよね」
「うん、聞いた。何か面白い出来事があったの?」
「そんな期待しないでよ。あのね、茶室……厳密にはうちの学校にあるのって、設計上はただの和室なんだけど、そこでは基本的にはずっと正座していないとダメなの」
「私だったら無理」
「私も得意じゃない。でも、そこはなんていうか、我慢比べ? 慣れが大事って言われはした」
「でも慣れないことだってある」
たとえば、二度と取り戻せはしない幸せな日々を夢を何度も見て、寝不足になってしまうこと。私は口にはしなかった。彼女をいたずらに傷つけたいという加虐趣味はなかった。ただ、どんな顔するのかなって。それは思った。
「あのね、新しく一年生の女の子がふたり入部してくれたんだけれど、やっぱり正座には慣れていないの。小中学生のときに茶道をどこかで教わっていたわけでもなくて。それで、ついつい可愛い後輩を想う先輩心ってのが出ちゃって、こう、長時間正座しているところに、背後から近寄って、その足裏を指でつぅーって」
「鈴音って変態?」
「ちがうよ!? 出来心だったの」
「さっきは先輩心なんて言っていた。ほんとは下心だったんだ」
「そんなんじゃないって。実里ちゃん、厳しい」
羞恥で頬を染めるアメショーを見るのは愉しかった。来てよかった。
「それでオチは?」
「えっ」
「その話のオチ。まさか後輩を辱めて楽しかった、で終わらないよね」
「そんなふうに言っていないよね? ……その後輩ちゃん、何するんですかぁって涙目で訴えてきて、あわや退部する流れになって。どうにか説得できてよかったけど」
「そっか。私、鈴音の泣き顔見たことないな」
「今、そういう話の流れだった!?」
「でも――――近頃は毎夜、泣いている。ちがうの?」
「…………」
押し黙ってしまった。自然に話題をシフトするつもりがコミュニケーション能力の低さが出てしまった。
「今日、私をここに呼んでくれたのは鈴音の夢と眠りに関係している。私に力になれることがある。そう思って、やってきたんだよ」
素直に、できる限り真摯に私は彼女に言う。茶化すつもりはない。
「……そっか。ありがとう、実里ちゃん」
「まだ何もしていない」
「そこは黙って、受け取っておいてよ」
むくれるアメショーは可愛かった。ころころと変わる彼女の表情に私は翻弄されていた。気づかれていないといいな。
「あの、さ」
右耳にかかった髪をさらりとかき上げて、アメショーは切り出した。
「私ね、今この瞬間もけっこう眠くて。あ、退屈しているんじゃないの。そういうことを言いたいんじゃなくて」
「つまり?」
「実里ちゃん――――私と一緒に寝てくれない? な、なーんて、あはは……」
「それが頼み事?」
「うん」
「私、眠くない」
むしろ今のアメショーの発言のせいで目が冴えた。一緒に寝る。この子と? 私が? 絵面は決して不健全でないよう思う。絵になる。そう言うと驕りだろうか。でもデッサンで済ませずに、彩るのもいいんじゃないかって。
ただし、こうした客観的ないし第三者的な目線は当事者でないからこそ成立するのであって、裏を返せば今の私はそう捉えるのが極めて困難だった。
簡単に短くまとめてしまおう。
そんなの恥ずかしい。ぜったいドキドキする。
「だ、だよねー」
「まだ午後二時過ぎだよ」
「あのね、添い寝してくれるだけでいいの」
「赤ん坊を寝かしつけるように?」
「そう表現されると違うって言いたくなる」
「米倉添い寝ってこと?」
「勝手に改名しないでよ」
「…………わかった、添い寝する」
「え?」
「二度は言わない。私は責務を果たす。鈴音の力になりたいって言った。言ってしまった。だったら、何もせずに帰るのは卑怯。でしょ?」
「そ、そこまで重く考えないでほしいなぁ」
「ううん、考えさせて。鈴音は睡眠不足で困っている。このまま授業中にふらふらな状態が続けば、成績は下がる一途を辿るはず。そうすると進級が危ぶまれる。そうなると――――」
私はもうあなたと話す機会を失ってしまう。
容易く繋がりが絶たれてしまう関係に今はあるのだから。私は言葉を飲み込んだ。これこそ重い内容で、感情で、白状していい種類のものではなかった。そもそも、私は彼女に対する執着心に近い何かをたった今、自分の内に発見したのだった。
やっぱりアメショーが悪い。私をこんな気持ちにしやがって。
「ねぇ、鈴音。根本的な部分を確認したい。私が添い寝をして、それで状況は改善に向かう保証ってある? 仮に今、ぐっすりできても夜はやってくる。その時にまともに眠れなければ意味がない。わかっているよね」
私は話題をずらし、でも重要な事柄を彼女に問い質す。
「わかっている。だから、夜は夜で眠る」
「本気?」
「もちろん。実里ちゃん、今日は泊まっていって。お願い。ね?」
「……正気?」
「我儘だってわかっているし、突拍子もないことを言いだしているって自覚はあるよ。それに実里ちゃんからしたら論理的ではないって。筋が通っていないって。でもね、えっと、言ってなかったことがあるの」
「なに」
それでこの局面が覆るとは到底信じるに及ばない。
「夢に実里ちゃんが出てくるようになったの」
「嘘つき」
「本当だよ? たぶん、授業中に何度もつつかれたせいなのかな、私がお姉ちゃんといるところに現れてね、実里ちゃんが私を連れ出すの。強引にじゃなくて優しく。お姉ちゃんも、笑っている。ちょっと寂しそうだけど」
「私が鈴音を連れ出す……まるで白馬の王子様みたいに?」
「えっ。ごめん、それは違うかな」
「言ってみただけ。忘れて。結局、夢が根拠なんだね。鈴音の言い分」
夢が拠り所。それは古典ならともかく現代社会では筋は通らずのままだ。
アメショーは俯いた。私は彼女を咎めるつもりはない。なるべく適切な方法で彼女の悩み事を解決したい、それだけだ。
別の方法を、と私が声をかけようとしたとき、彼女が顔をあげた。その目には決心が宿っている。
「試してみる価値はあると思わない? 私は思う。みーちゃんが私をあの幸せ過ぎる夢から、このどうしようもない現実に、お姉ちゃんのいない今に私を連れ出して、繋ぎ止めてくれるって。私はその今を生き続けないといけないから。もう、泣きたくないの。何度も喪うのはつらすぎるよ」
アメショーはまっすぐに私を見据えて一言一句、はっきりと迷いをなくして言い切った。それなのに私は反射的に返していた。だって、引っかかるでしょ。
「みーちゃんって私?」
「あ……」
「どうして」
「ゆ、夢の中では実里ちゃん、猫さんだから。耳と尻尾つけているの」
にゃんてこった。いや、だからってみーちゃん呼びになるだろうか。私が彼女をアメショーと心の中で呼んでいるとあたかもリンクしている。これを偶然ととるか、必然ととるか。間違いなく前者だ。これまでの私であれば躊躇いなくそう主張する。
だから、血迷ったのだろう。私はこの巡り合わせを特別に感じた。それでなぜだか心を温かいもので満たした。そんな不可解な心の変容を経て、私は彼女に言うのだ。
「わかった。添い寝する。泊まりもする。親に連絡はするし、その他諸々、たとえば夕食やお風呂や着替えは考えないといけないけれど。ともかく、鈴音の賭けに私は乗る。でも一つ条件をつける。全部終わったら私の頼み事も聞いて。いいよね」
「それって……?」
「まだ内緒。ほら、準備して。眠る準備」
そうして私は彼女と寝ることになる。
でも、その午後二時過ぎの時点ではアメショーは一睡もできなかった。曰く、緊張しちゃってとのこと。それ、私の台詞だ。私にも眠りは訪れなかった。
眠いと言っていたにもかかわらず、彼女は私のすぐそばで天井を共に見上げて、いろいろおしゃべりをした。それだけだった。彼女が細身でもベッドは二人には小さくて、身体を寄せ合わないといけなかった。暑苦しい。心身ともに、あつくて、あつくて、どうしようもなくなっちゃう。
彼女の両親は共働きで、週に三度は夕食を彼女一人で済ますらしかった。今日は二人。私と彼女。夕食後、私は一度、着替えなどを取りに家に帰った。彼女の家の玄関で「戻って来てくれるよね?」と言われて「どうかな」と返すと「意地悪」と不貞腐れてしまった。
そして夜がやってきた。朝がやってくるように、夜もやってくるのだった。
二人して学校の課題をやったり、動画を観たり、中学生のときの話をしたり、夜と共に仲が深まるのを感じた。そして不意に静寂が訪れた。沈黙が横たわって、私たちも寝ようという話になった。実際には目と目で伝えあった。
二人で寝転がる。暗闇。目を閉じた矢先に、アメショーの声がする。耳元。くすぐったい。アメショーの可愛いパジャマ姿。お姫様みたい。
「実里ちゃん。もしも私が目覚めなかったら、その時は起こしてね」
「鈴音が夜中に起きても私を起こさないで」
「約束できないかも」
「……じゃあ、必ず起こして。寝かしつけてあげるから」
「いいの?」
「今夜だけ。ここまできたら、精一杯やってみる」
「そういえば今更だけど、実里ちゃんは寝相悪い?」
「普通。壁にぶつかったらごめんね」
「私のほうこそ床に落としたら、ごめん。あ、そうだ。抱きしめていい? それなら……」
「鈴音の変態」
「そっ、そんなことは、でも、うん、やめとく」
黙り込むアメショー。私はうとうとし始める。でも彼女より先に眠るのはまずい。そう思っていると、彼女が私の手を握った。
「これぐらいならいいよね?」
「……いいよ」
「不思議。まだ緊張しているのに、今夜はぐっすり眠れる気がする。予感って言うのかな、そう信じられるの。ありがとうね、実里ちゃん」
「夢で会えたらお礼を言っておいて。猫の私に」
「ふふっ。そうする」
やがて私たちは眠りに沈んでいく。深く、深く。
先に起きたのは私だった。時間を確認する。
え――――――午前九時? 眠りすぎでしょ。あ、日曜日か。なら、いいのかな。
隣のアメショーを見やる。そこにいる。いつもの朝とは違う光景。
寝起きの私の心臓が止まるかと思った。彼女の寝顔。それは、あの日放課後に見たそれとは比べ物にならないぐらいに、素敵だった。生きている眠りがそこにあった。
そーっと目元に触れる。慎重に、慎重に。どうなんだ? 涙の跡はないと思う。
夢は見ているのだろうか。見ているとしたらどんな夢になっているのだろうか。
知りたい。聞きたい。触れてしまいたい。そして彼女と私、そうだよ、私たちのこれからを話してみたい。私が抱えるこの想いを、まだあのデッサンみたいな未完成のこの気持ちをいずれははっきりとさせてしまいたい。
ふと眠る直前の彼女の言葉を思い出す。
もしも目覚めなかったら……。
どう起こしたらいい? もう起こしていい? だって午前九時だよ。ああ、でも寝かしておいてあげたほうがいいのか。けれど、私は二度寝でもすればいいわけ? できないって。完全に目が覚めた。誰のせいだ。この子だ。
「アメショーが悪いんだよ」
私は彼女の頬にキスをする。
今のところお姫様を起こす王子様にはなれずとも、猫にはなれるのだから、彼女も私も猫なんだから、その柔らかな頬を好きにしたっていい。そこに特別を込めたっていい。今はそういうことにしておく。
それからしばらくして彼女が起きる。寝ぼけまなこで私を捉えると、彼女は微笑んだ。「おはよう」と私たちは始まりの挨拶を交わす。
きっとここから始まる。さよならを一つ告げて、新しく始まる。
頼み事は決まっていた。絵のモデルになってもらうのだ。手始めに、猫耳を生やした彼女を描くのもいい、なんて。
偲び猫の午睡あるいは白雪姫メソッド よなが @yonaga221001
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