中編

 驚くことにアメショーこと米倉鈴音よねくらすずねが学校で舟を漕ぐようになったのは、つい最近のことだと言う。今のところ本人の主張のみであるから、第三者による裏付けはない。


実里みのりちゃん、私を信じてくれないの?」

「……信じる」

「よろしい」


 勝手に寝顔を描いた対価として私はその日のうちに、彼女に駅前の某コーヒーチェーン店に連行されてトロピカルフルーツ系のフラペチーノを奢らされていた。そのお店に私は足を踏み入れたことはほんの数回しかない。そしていずれも例の中学時代からの友人と共にであった。フラペチーノってあれでしょ、シェイクよりさらさらしていてコーヒー入っているからちょっと苦いんでしょ。その程度の認識だった。

 四角いテーブルを挟んで、アメショーは横長のソファに腰掛けてくつろいでいるのに対して、私は背もたれがカチカチの椅子に座っていて、くつろげていない。不公平だ。かといって横に並んでソファは近すぎる。どっちみちリラックスできない。


「実里ちゃんも何か飲みなよ」

「たった今、金欠になったから」

「私が悪い人みたいだよ、それじゃ。一口いる?」

「いらない」

「遠慮しなくていいのに。実里ちゃんのお金で買ったやつなんだし」


 確かにそのとおりだ。しかしその点で遠慮しているのではない。


「続き」

「え?」

「聞かせて。米倉さんが寝不足になっている件」

「鈴音でいいよ。教室でも言ったけれど」

「でも、それだと……可愛い過ぎる」

「褒められている? それとも馬鹿にしている?」

「ほ、褒めている、たぶん。ほら、だって鈴の音でしょ」

「それで?」

「米倉さん、猫っぽいから」

「ねぇ、実里ちゃん」


 じっ、と私を見つめてアメショーが名を呼ぶ。真剣だ。私の知っている眠そうな顔つきではない。今度は何を言われるのだ。何を要求されるのだ。定期があるからって財布を空っぽにされてたまるか。


「な、なんでしょう」


 強気なのは内心だけでめっぽう弱気になって私は訊ねる。


「そんなに嫌だったら帰っていいよ。お金も返す。今日のこと、忘れてあげる。でも……せっかくだから友達にはなりたいかな」

「自分の寝顔を盗み見て描くような子と?」

「それも忘れるの。もうしないって約束して。ね?」


 教室での一件はなかったことにしてアメショーと友達になる。お金も返してもらえる。悪くない提案だった。でも「帰っていいよ」と口にしたときの彼女はどこか寂しげだった。睡眠不足の話を聞いて欲しがっていた。だからここで私がそれを聞かずに去るのは、彼女にとって悪いことなのだと思う。気持ちとして。マイナス。


「……べつに嫌じゃない」

「え?」

「さっきの、えっと、待って。整理させて」

「うん」

「だから――――猫っぽくて、鈴を転がすような声をしている米倉さんが鈴音だなんて似合いすぎている。そんなの畏れ多くて呼べない。こっちが照れちゃう」

「ごめん、わかんない」

「いいから。呼び方は今は一旦、忘れて。眠りの話、して」


 というか、そんなに見つめないでほしい。それは言葉にしなかった。ああ、こんな時飲み物を買っていればそれを飲んで誤魔化せるのに。買っておくべきだった。今からでも遅くない? あ、ダメ。アメショー、ようやくって感じで話し始める。


「私ね、お姉ちゃんがいたの。大好きだった」


 買いに行かなくて正解だった。どんなものを飲んでもきっと美味しくはならない種類の話だ、これは。


「大学三年生だったの。半年前に事故で死んじゃって。それでしばらくは学校に行く気も起こらなかったんだけれど。でも、お姉ちゃんに怒られるだろうなって。うん。期末考査は赤点ばっかだったけれど、先生たちが事情を考慮してくれて、たくさんの課題を冬休み中にやって。それでどうにか進級できた。あ……これは本題とは関係なくて」


 ズズズと飲むアメショー。

 暗い顔にトロピカルフルーツはミスマッチだった。ひょっとして、彼女なりに陰鬱なムードにならないように選んだのかな。ううん、ただの味の好みか。どんなことがあったってお腹は空くし、喉は渇くし、大抵の場合は明日がやってくる。


「最近になって夢を見るの」

「お姉さんの?」

「そう。幸いなことに、事故とは無関係の。そもそも事故は私たち家族の全然知らないところであって。ええと、夢で見るのはお姉ちゃんとの思い出。びっくりするぐらい鮮やかで、楽しくて、嬉しくて」


 アメショーが微笑む。でも、その微笑みは長く続かない。


「だからね、目が覚めた時に落ち込んじゃうの。泣いちゃう。ほんとに。そっか、もういないんだって。どうして半年経ってからなんだろうね。死んじゃってすぐは、そんな夢……二、三回しか見なかった気がするのに」

「どんな思い出?」

「えっ」

「私が知ってどうにかなるとは思わない。ただ、意味を見出すことができるかも」

「意味?」

「たとえば……そう、何か見つけてほしいものだったり、処分してほしいものだったり、単に思い出してほしいものだったり。大好きな妹であるあなたにそういうお願いをお姉さんが今になってしてきている、みたいな」

「死んじゃった後で?」

「信じるのは難しい?」

「うん。だって、お姉ちゃんは私のこと、そんな好きじゃなかったから」


 思いつきで言ってみたのが間違いだった。フィクションに毒されてしまっていた。夢は夢でしかない。それは米倉鈴音の記憶の整頓作業と精神作用で完結されていて、そこに故人からのメッセージを付そうとするなんて愚かだった。少なくとも、今日まともに話したのが初めての人間がしていい試みではなかった。

 米倉鈴音が眠そうにしている理由。それは幸せすぎる夢が彼女を苦しめていたからだった。彼女はその夢を見まいと夜更かししている。あるいは夜中に起きてしまう。夢で気づく場合があると言う。これは夢で、姉はもういないと。姉は夢ではひたすら優しい。生前に冷淡な態度をとられていたわけではないが、彼女たち姉妹はそれほどお互いを話さなかった。べたべたしなかった。それが適切な距離だった。そのうえで妹である彼女は姉を想っていた。大好きだと言い切れるぐらいには。

 それならお姉さんだって……そう私が言っていいものか悩む。気休めにだってならないのでは。私は、お姉さんはもちろん、ここにいる妹をほとんど知らないのだ。


「実里ちゃん、そんな顔しないで」

「生まれつきだから」

「そうじゃなくて。実里ちゃんなりに、慰めようとしてくれたんだよね。私の夢に、特別な意味を見つけようとしてくれたんだよね」

「……でも、できなかった」

「それは、そうかもだけれど」

「私、どう付き合ったらいいの」

「うん?」

「教室を出る前に言ったでしょ。眠りに付き合ってもらうって」

「ああ、あれは……」


 言葉が続かなかった。目が泳ぎ始めた。それでまた、ズズズとした。特に深くは考えていなかったらしい。それが顔に出ていた。呆れはしない。何事も勢いって大事だ。そういうわけで、私も勢いで次の思いつきを口にする。


「つつくぐらいならするよ」

「つつく?」

「授業中に眠りそうになるあなたを」

「あ、ありがとう」

「他に何ができるだろう」

「……仲良くしてくれたら、嬉しいかな」

「なぜ?」

「えっ。えっと、そこで理由いるかなぁ」


 苦笑するアメショーだった。私は私で首をかしげる。とはいえ、アメショーと仲良くなるのはいいことだ。プラス。でも、それこそなんでだろう。理不尽に彼女を非難していた自分だ。筆が乗らない理由にしていた彼女とこうして二人で向かい合って話してみると、それが暗い話であっても、それが彼女個人を構成する大切な話であるから、どうにも妙な気分になってしまう。


「鈴音」

「えっ」

「さっきから聞き返し過ぎ。鈴音って呼んでいい?」

「今、呼んだよね。というか、呼んでいいって言ったよね」

「鈴音」

「な、なに」

「よろしく」

「……こちらこそ」

 

 ズズズと彼女は。

 お金返してもらうって言いだしにくくなった。しかたない。奢っておく。

 かくして私は新しい友人を得る。日中、彼女の眠りを妨げるだけでは根本的解決にならない。わかっている。時間が解決してくれる悩みかはわからない。




 数日後の昼休み。

 私はアメショーと学食にいた。もともとそういう約束をしていた。たまには弁当ではなくて学食もありかなって彼女が言いだした。私が誘ったわけではない。……どうだっけ。利用したいなら私はそれを阻止する力はないって言ったかも。しかしそれを誘い文句と受け取るのは変人だ。

 

「ねぇ、実里ちゃん」


 安上がりのかけうどんを食べる私に、かき揚げそばを食べる彼女が声をかける。


「なに。うちの学校、天ぷらそばってないよ。かき揚げは時期によって素材が違って、小ぶりの海老がそこに加わるときはある」

「学食の豆知識を提供してほしいと頼んだ覚えないよ」

「わざわざ名前を呼ばずに用件だけ伝えてくれればいいの」


 まだ慣れないし。実里ちゃんって。数少ない他の友達からは苗字の野々原の頭をとってノノって言われたり、呼び捨てだったりだ。ちゃん付けはアメショーからだけ。


「冷たいなぁ」

「それ、温そばでしょ」


 しれっと私は応じる。嘘は言っていない。ずらしただけだ。


「――――明日って暇?」

「土曜日。学校は休み」

「知っているよ! もうっ、どこまでがわざとなの。あのね、よかったら私の家に来てくれないかな」


 思わず私はうどんから顔をあげた。うどん啜っている場合じゃない。


「なんでそんな顔するの? もしかして実里ちゃん、変なこと考えた?」

「変なことってなに。普通ってなに。かけうどんだって立派なうどんだよ」

「うん、落ち着こうね。頼みたいことがあって」

「鈴音の家で。私に。……何を頼む気なの」

「ええと…………ちょっと、変なことかも」

「マジで?」

「ぷっ。実里ちゃん、やっぱり面白いね」


 面白くない。詮索してみても、詳細を教えてくれないアメショーだった。「嫌だったら来なくていいよ」と少し不安げに言うものだから、それ以上聞けなくなってしまう私もどうかしている。たった数日で、アメショーは私になついている。猫じゃらしで遊んであげたわけでもないし、餌付けだってしていないのに。

 ちなみにアメショーは茶道部(正確には同好会であるけれど)に所属していて、週に一度、茶室で活動しているらしい。お茶会(という名の駄弁り女子会)にも誘われたが、英国式のアフタヌーンティーだったら行くと答えたら「ならいい」と唇を尖らせて拒まれてしまった。

 それはそうと、アメショーの家だ。菓子折りの一つぐらい包むべきだろうか。アメショーに聞いたら他の親しい友人とは住所が離れているせいで、招待したことは今までないのだという。彼女と同じ中学校から進学してきた生徒数自体少ない。何が言いたいかというと、彼女の家に友達が上がるのは中学生以来だそうだ。

 

「そんなに気合入れておめかししてこないでいいからね。むしろ動きやすい恰好のほうがいいかな」


 放課後、アメショーが私を美術室へと送り出して言った。詳しい立地は後で送ってくれるそうだ。あれ、私行くって言ったかな。ああ、でも断っていないや。

 美術室で相も変わらず真っ白なスケッチブックを前にして当たりをつける。デッサンのアタリはつけられないが、アメショーの頼み事にはつけてしまう。

 遺品整理だろうか。

 冗談ではなくそうなのかなって思った。昼休みの彼女を思い出す。ここ半月余りずっと目のクマをメイクで誤魔化し続けている彼女を。

 彼女の亡くなった姉。その部屋に私を招き入れて、その遺品の整理を手伝ってもらう魂胆なのかもしれない。そうした物理的な整理を経て、精神的な整理を完了する。彼女は幸福な夢とそれに伴う寝不足という不幸な現実に別れを告げる。なるほど、この線はある。

 不思議と嫌悪感はなかった。彼女が本気で頼んでくれるのなら、それに応えたかった。一人の友達として。他の友達ではなく、敢えて彼女の姉を微塵も知らない私に頼んだというのもあり得る。損な役回りとも、美味しい役回りとも言えない。ただ……不謹慎にも、彼女とそういう形であっても仲を深められるのを心のどこかで喜ぶ自分がいる。

 手放したら負けだと思っていた鉛筆を、画材の匂いが染み付いてしまった机にゆっくりと置いてみた。スケッチブックをめくる。描きかけのアメショー。その寝顔を思い出す。もう一度描きたい。そうお願いしたら、どんな顔するんだろう?


 翌日。電車を乗り継いで、知らない駅へと到着する。そこにアメショーが待ってくれていた。私服姿はどうも猫っぽくない。ただの可愛い女の子がそこにいた。なんだ、彼女自身は動きやすい恰好ではないのか。制服とはまるで違う色合いのスカートをひらめかせて、寄ってくる。その微笑みを直視できない私。

 そうして彼女に案内されて彼女の家に着き、そして彼女の部屋へと入る。

 

 頼まれ事は彼女の姉の遺品整理などではなかった。

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