大正春物語

小林

第1話 桜吹雪

 ─武蔵野。玉川上水にあるこの村は随分と西洋化が進んだ中央部に促されるようにしてどんどんと情景を変えてきた。数十年前に新しくできた自然豊かなこの地は未だに農業が盛んで、駅周辺にしかガス灯など西洋風のものはなかった。あとは田園風景だけがざあっと広がっていた。


 季節は春。”武蔵野美”とも言われる景色は、春という飾り付けによって更に輝きを増す。白い花びらが集まって成すことのできる桃色の景色。そして、澄み切った青空にいつも見慣れているはずの水田は、国木田先生の小説の如く美しいものへと変化していた。


 つい先日切った短い髪が風にのりふわふわと宙に舞った。首筋が少しひんやりした。詰襟の学生服を着て、真っ黒の外套を羽織り歩く。風に飛ばされないように学生帽をグッと深く被り直す。分厚い綿の生地にも関わらず、桜吹雪が吹き乱れる土手はまだ肌寒かった。その真っ黒な姿は、周りの淡い色と対比してよく目立った。近くを歩くのは、幸せそうに微笑む家族や古風な老夫婦ばかりであった。


 しばらく土手を歩き、河原の方へと降りていった。麗かとした陽を反射させる玉川を走るのは、薪を運ぶ船ばかりであった。桜の絨毯を切り裂いて走り抜ける西洋風の船はどこかこの村には馴染まない、異質なものに見えた。


 水面を覗き込む。透き通った水が映し出すのは、僕と桜色の景色だった。指先で短くなった前髪を少し整えて、外套を羽織り直す。


 桃色の花びらがサラサラと水面を流れ、僕までもがその鮮やかな色に染まってしまいそうであった。


 川を覗き込んでいると水面に映るものと目があった。顔を上げて振り返ると、一人の少女がこちらをじっと見て立っていた。美しい桃色の袴を身に纏った少女だった。大きな他の桜に比べて随分と小さい彼女は一際僕の目を引いた。


 彼女の近くに歩いていくと、彼女はニコニコとして僕をじっと見ていた。僕が近くに歩いていっても、彼女は身を引くことなく、僕のことをただ見ていた。僕よりも背が高い彼女は、その袴のせいか幾分大人びて見えた。僕は彼女の隣に座り込むと、ふっと目を閉じた。


 周りの木々がざわざわと音を立てて揺れ、桜の花びらが僕の頬をかすめた。


 ─穏やかな時間はあっという間に過ぎ去った。


 木々の擦れ合う音で目を覚ました僕が横を見ると、依然彼女が座っていた。日が傾き始め、周りはもう金色で染まりつつあった。


 彼女は僕の隣に座り込み、遠くの景色を眺めていた。風に靡く艶やかな茶色い髪や淡い桜色の唇に、またも僕は吸い込まれそうになった。桃と濃い紅色の袴が周りの桜と同化し、まるでこの世のものとは思えない、桜の精霊のような美しさだった。


 じっとそれを見ていると、彼女が振り返った。視線が交差して、気恥ずかしくなった僕は「また来る」とただ一言告げ、立ち上がった。帰り際にチラリと彼女の方を見ると、彼女は嬉しそうに桜色の袴を揺らしていた。




 それからというもの僕は彼女の元に足繁く通った。武蔵野の景色も日を追うごとに段々と変化してきた。


 いつも彼女がいる河原の桜は緑色に変わりつつあった。彼女も周りの桜に促されるように袴の色を変えていった。薄い桃と濃い紅色から、最近は落ち着いた黄緑色の袴を着るようになった。相変わらず、編み上げの茶色い長靴が音を立てることはなかった。


 彼女は話しかけてもただ微笑むだけで僕たちの間に会話はなかった。しかし、僕は彼女といるだけでとても幸せだった。いつしか僕は彼女に友人以上の感情を持ってしまっていた。




 僕の学校が始まり出した時分のことだった。僕は勉学が忙しくなり、なかなか彼女の元へいくことができなかった。


 久しぶりに彼女に会いにあの河原へ行った時、彼女の姿はどこにも見えなかった。もう葉桜となってしまった河原を、僕は日が傾き、周りが金色になるまで走り回った。額に大粒の汗をかき、きっちりと羽織っていた黒い外套はいつの間にか僕の手の中でくしゃくしゃになっていた。ビロードを広げたような黒が空を覆い隠す時間まで河原にはたったの一足の下駄の音がカランコロンと響いていた。




 もうガス灯に火が灯り始める頃だった。僕はついに彼女を見つけた。いや、彼女というよりその木を見つけた。


 その時に僕は初めて気がついた。


 僕が好きだったのは桜並木の中の小さな桜の木であったのだ。


 前に見た時はあんなに鮮やかな桃色だったのが今ではすっかり緑緑とした葉桜となっていた。僕にはもう以前のような彼女には見えなかった。そう、ただの木にしか見えなかったのだ。


 玉川を行く小船の人工的な光が木々の間を縫い、僕たちを照らし出した。


 僕は近くの柵に引っかかっていた縄を引っ張ってくると、彼女、いや桜の木にくくりつけた。


 縄を下の方へぐいっと引っ張り、ちゃんと結べているかを確認すると僕は下の方に作った輪っかにそっと首を通した。




 初夏の日差しが一人の少年と一本の葉桜の木を映し出した。少年の服や髪は乱れ、下駄は泥で汚れ、顔までもが汗と涙とでぐしゃぐしゃであったが、ただ彼は幸せそうに笑っていた。なぜか縄の先の小さな桜の木の葉は全て枯れていた。彼の光を失った黒い黒い目はただ桜の木を映すばかりであった。



 武蔵野の静かな村で「学生ノ首吊リ自殺、桜ノ木枯レル」と題され、新聞が発行された。


 彼の最後の春は心中という言葉で飾り付けられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大正春物語 小林 @kobayashi0221

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ