第3話 時空への旅は続く 〜京都・二尊院にて〜
いくつかの時空を行き来して、旅を続ける。そう、私は今ここにいるが、時間の経過によっては、突然見知らぬ街にいて、呆然としている。しかし、必ず元の、いや、どこが元なのか分からないのだが、今いるこの世界に帰ってくる。もしかしたら、違う次元で生きる私は、やはりその世界に戻ると思っているのかもしれない。
数年前になるが、執筆中の小説の終盤でどうしても京都の場面を書きたくて、ひとり京都を訪れた。
私は好きな嵯峨野を歩き、祇王寺、化野念仏寺、落柿舎、二尊院などを訪れた。
この日は雨が酷く降りしきり、歩く人も疎らであった。どの寺に入ってもほとんど人の姿もない。特に二尊院では小一時間ほども私ひとりきりで過ごすことができた。
二尊院は過去に数回訪れた事があるが、数十年も前のことなので、このお寺の記憶はほとんどなかった。
砂利の道を門まで歩き、お寺の境内に入った。広い境内の中に人の姿はなかった。
雨はますます激しく降り続いている。
拝観料を払い、靴を脱いで外廊下を歩き、数メートルで開いている障子の前に行き着いた。そこの障子は開いていたので、ここから本堂を拝観できるのだと分かった。
この先、私は本当に不思議な敬虔な体験をしたのである。
なんと驚いたことに、開いていた障子に行き着くと、廊下にいる私から手の届く、ほんの1メートルほどの所に、阿弥陀如来と釈迦如来がおられたのだ。
こんなに近くでお姿を見られるのかと、心底驚き、崩れるように正座をして、ただひたすら手を合わせ、その美しいお姿に見惚れ、敬虔な思いと畏怖の念にかられた。
こんなに近くに立っておられる。私は外廊下の座布団の上に座っているのだから、初冬の時期に暖かいわけがないのだが、阿弥陀様とお釈迦様の前では、ほのかに暖かく感じられた。どれほど満ち足りた幸福感に包まれていただろうか。どこか時空を超越したところに居たような気がする。
聞こえるのは、屋根にあたる鋭い雨の音。
私は心の悩みを阿弥陀様とお釈迦様に話した。心が落ち着いていき、幼い頃や少女の頃の楽しかったこと、たわいも無い事柄、現実の生活の迷い、様々な想いを話し続けていたような気がする。
そのうち私は屋根に当たる雨の音を聞きながら、心が無になっていった。しばらくの間何も考えてはいなかったような気がする。その時の私の心の中は海の様に大きくて澄み切った青空のように清々しく、古の樹木に抱かれているようにどれほど安らいでいただろう。自分の悩みなど、所詮はたいしたことでもなく、そんなことより、人は大きな何かに守られ、包まれていて、心配することなど何もないのだと感じていた。いつまでもここにいて、ただひたすら祈っていたいと思っていた。
どれほどの時間が経ったのだろう、お坊さんの話し声にふと我にかえった。気がつけば50分以上の時間が経っていた。さて、そろそろ行こうか、、足の痺れもなく立ち上がった。
二尊院を出る時には、今まで経験したことがないほど暖かくて清々しい気持ちになっていた。そして、あれほど直ぐ近くに阿弥陀様とお釈迦様がおられたことを、それほど不思議にも思っていなかった。
この体験から数年後の晩秋に、再び二尊院を訪ねた。釈迦如来と阿弥陀如来にお会いしたかった。
数年前の強烈な印象を胸に廊下を歩き開いている障子の前に立った
え?あれ?これはいったいどういうことかしら、、、?
釈迦如来と阿弥陀如来は本堂のずっと奥にある仏壇の中に立っておられる。目を凝らしても暗くて遠くて、よく見えない。
あれ?あんなに遠くにおられる、、
でも、考えてみればこれが正常、当たり前よね、、あんな廊下の直ぐ近くに置かれているはずはないもの。それに本堂は広いんだ、、数年前は本堂の中なんか何も見なかった。
目の前の阿弥陀様とお釈迦様の大きなお姿で、本堂の中など何も見えなかったのだ。
では、私が見たのはいったいなんだったの?
あまりのショックでしばらく体が動かなかった。
あの時は、たまたまあの位置におられたのだわ・・・それにしてもおかしな事があるものだ。そんな事は、普通はありえない。
私は意を決してお土産を売ってる売店の男性に尋ねた。
「大変、妙なことをお伺いしますが、数年前、廊下のすぐのところに、釈迦如来と阿弥陀如来を置かれていたことはありませんでしたか?」
「え?そんなに近くに、、絶対にありませんな」
その男性は私をとても妙な顔で見た。警戒してると言ってもいいかもしれない。
そして、隣に座っているお坊さんに耳打ちしてる。
若いお坊さんで、私はこのお坊さんにも怪しい女だと思われるのだろうと覚悟を決めた。
「どうされましたか?」
そのお坊さんは優しい口調で尋ねた。
「あ、あの、本当に妙なおかしなことをお伺いするのですけれど、、、大雨の降る数年前、多分6〜7年前のことなんですが、お釈迦様と阿弥陀様を廊下のすぐの手が届く位のところに置かれていたことはありませんか?今日見たら、本堂の奥のほうにおられたので、あの時の事がとても不思議に思って、、。」
最後のほうは、小さな声になってしまった。自分でもおかしなことを言っていると思ったのだ。
「ありませんね〜」
「ないですよね、、あ〜、私夢でも見たのかしら、、本当にすみません、、変なことを申しました。大変失礼いたしました。」
「ほう、、そんなことがありましたか。いいんですよ、、いえいえ、そうですか、、それは良かったですね、、おかしくなんかありませんよ〜良い体験をなさったんですね、、そうですかぁ〜」
さすが修行を積まれているお坊さん。私の気持ちを汲んでくださった。
当時私は小説を投稿していた。主人公が京都を歩く様子は、私が嵯峨野を歩いたそのままだ。二尊院のこともそのまま書いた。主人公が絶望の淵から這い出る場面だ。
京都に詳しい方は、この私の二尊院の様子を読まれて、おかしなことを書いているなと首を傾げたはず。
あの体験はいったいなんだったのだろう。
不思議な奇跡のような、ほとんどありえないような体験だった。静かで安らかで今まであのような感覚になったことはあの時をおいて他はない。
今でもあの安らぎと暖かい敬虔な気持ちははっきりと残っている。私は確かに、異次元の空間にいたのに違いない。もしかしたら本当に、お姿を見せてくださっていたのかもしれない。理由はわからない。無常の中で無限に続く世界、極楽浄土は祈りや無心の世界に案外近くにあるのだろうか。その入り口は殆どの人は見つけることができないのかもしれないが、何か偶然にその次元に入り込んで、極楽浄土なのか異次元なのか分からないが、その世界を訪れることが出来たのかもしれない…。
無限に広がる宇宙が存在するのだから、人の存在も、普通に認識しているものとは違っていても、不思議ではないのかもしれない。
どこの世界に存在しているのが正解なのか、時空を越えて、何かの要因で同時にふたつの世界に存在するのか、ふたつを同時に見つめているのか、そもそも正解などないのか、どこの次元にも、もうひとり、あるいはふたりの私がいて、それぞれの時間の経過の中で生きているのか。
考えても答えは出ないが、人の命の不思議さや、生きながらえさせてもらえてること、大いなる存在から命を与えてもらえたことへの感謝、生きていることの意味を今現在の命の消えるまで、深く見つめていきたいと思っている。
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