最終回 少女知心於蘇州 ~第二節~


◆◇◆◇◆


 主人を失っても、この庭の美しさは変わらない。風に乗って舞い散る花びらをぼんやり眺めていると、石造りの卓の上に冷たい茶が置かれた。

せいしゅうさまが深く哀しんでおられるのは判ります」

 盆を胸にかかえ、せいらんが哀しげな微笑みを浮かべていた。

「……でも、案外と奥さまは満足していらしたかもしれませんよ?」

「そうかな?」

「これまでの奥さまは……もともとそれをお望みだったとはいえ、人間として人間たちの中にまぎれ、人々のいとなみを見守ってきただけでした。ただ淡々と、流れに身を任せて……」

「あの人らしいね」

「わたしはもっと欲深く、わがままであってもよいといいました。人間は欲深い生き物なのだから、人間として生きるのであればもっと望んでもよいのだと。……でも奥さまは、いつもご自身のお命にすら執着なさらず、すべてを受け入れておしまいになるのです。すでに自分は、人間として生きるという大きなわがままを聞いてもらっているのだからとおっしゃって」

 万事ひかえめな黄珠ならそういうだろう。彼女のそういう奥ゆかしさが、決して長いとはいえないかかわり合いの中で、星秀のものの考え方に変化をあたえてくれた。それは間違いなく文黄珠の長所のひとつといえる。

 ただ、それをいまさらあれこれいっても意味はない。黄珠はすでに完全に消滅してしまったし、別の黄珠に転生することもないのである。

「……そこまで望んで人間になった奥さまが、今度は星秀さまをお助けするために人間であることをやめたのです。人間であることをやめてでも、星秀さまをお助けしたいと願ったのです」

「そのことが男冥利に尽きるって? ……むしろ後悔しか残らないよ」

 弱々しく自嘲をこぼし、星秀はかぶりを振った。

「そもそも僕が奥さんの前に現れなければ、奥さんが人間をやめることはなかった。人間のままでいれば、極論、みずから命を絶ってあいつらの前から逃げるってこともできたんだ」

「いえ、奥さまはこれまでの人生でも、一度たりともみずから命を絶とうとなさったことはございませんでした。生をまっとうするのも自分の責任だと。ですから今回の人生でも、奥さまは自分の責任を果たそうと――」

「人間じゃなくなったんだからそのへん融通利かせてもいいと思うんだけど……奥さん、律儀すぎるよ」

「ですから、わたしが申し上げたいのは――」

「僕の精神的な重荷を軽くしようと思ったんでしょ? いいよ、清蘭ちゃんがそこまで気にする必要ないし」

 星秀は立ち上がり、池のほとりにしゃがみ込んだ。

「自分でもよく判らないんだよね。どんなに無様でカッコ悪くて卑怯なことをしてでも、とにかく奥さんにあの場を切り抜けてほしかったのか、それとも、彼女には何があろうと僕がよく知る奥さんのままでいてもらいたかったのか――」

 もちろん、星秀は黄珠に生きていてほしかった。たとえ別の人間に生まれ変わるのだとしても、数十年後にまためぐり会うこともできるかもしれない。しかしその一方で、彼女が生き延びようとすることでその高潔さをなくしてしまったら、それはもう、星秀が愛した文黄珠ではなくなってしまう気がした。

「何度生まれ変わったって美人なのは折り紙つきなんだし、そこを気に入ってるなら何としても生き延びる一択なんだよねえ。……でも、たとえ見た目が同じだったとしても、中身が違っちゃうと、それはもう別人てことだよなあ。やっぱり見た目より中身が大事ってことなのかなあ」

「……ごくごく当たり前のことを、何をそのように感慨深げにほざいておる?」

「うひ!?」

 溜息交じりに池の水面を見つめていた星秀は、自分の背後に映り込んだ姉弟子の姿と陰気な言葉に飛び上がった。

「あっ、!? ど、どうしてこちらへ!?」

「任務が終わったのだ、されば報告に戻るのが当然であろう? しかるに貴様がいつまでたっても先生の屋敷に戻ってこぬから迎えにきてやったのだ。先生やてんこうこうじんどのまで待たせておるというのに……」

 あちこちに包帯を巻きつけたさんは、うんざり顔を隠そうともせず、ところどころに舌打ちを交えて説明した。

「……いざ来てみれば、自分の顔を池に移してひとりぶつぶつとぼやいておるとはな」

「ぼ、ぼやくっていうか――え? ひとり?」

 珊釵の言葉に、星秀は四阿のほうを振り返ったが、さっきまでいたはずの清蘭の姿はない。代わりに、彼女が立っていたあたりに積もっていた乾ききった泥の山が、春の風を受けて静かに崩れ、吹き流されていった。

「……清蘭ちゃん……?」

 おそらくあの小間使いの少女は、三〇年の人生を永遠に繰り返す黄珠のために女媧がつけた、すべてを知る唯一の理解者だったのかもしれない。そして、黄珠が消滅した今、役目を終えた清蘭もまた、もとの土塊つちくれとなって黄珠のあとを追ったのだろう。

「……どうした、小僧?」

「いや、別に」

 懐かしい香の香りを含んだこの屋敷の空気を胸いっぱいに吸い込み、星秀は珊釵の肩に手を添えて歩き出した。

「――それじゃ先生たちにあいさつしてから天界に戻ろうか」

「……急に何だ、貴様?」

「いや、いつまでもくよくよしてても仕方ないっていうかさ、うん、僕が落ち込んでたら世の美女と美少女まで落ち込んじゃうからね」

「切り替えの早さも、ことによっては軽薄と見えるぞ?」

「それはひどいな。僕はこれでも今回の件でひと周り大きく成長したと思うけど? 何しろあの饕餮を異世界に放逐したんだからね? そのあたり、ちゃんと報告してよ?」

「報告書には事実しか書かぬ。……というか、馴れ馴れしいぞ、貴様」

 肩にかかる星秀の手を払いのけ、珊釵は眉間のしわを深くした。

「これは失敬。……ただ、師姐も少しは表情を作るってことを考えたほうがいいよ?」

「は? どういう意味だ?」

「女は愛嬌っていうでしょ? 僕としては男も愛嬌だと思うんだけどさ、とにかくいつもそんなしかめっ面してたら、うまくいくものもうまくいかないよ?」

「……だから、貴様は何を――」

「あ、それとも先生は、師姐のそういうツンツンしたところが気に入ったのかな?」

「…………」

 自分の言葉をさえぎって星秀がそう続けた瞬間、珊釵は長い袖をまくって星秀の顔面に拳を叩き込もうとした。

「っと! ここでそんな一撃食らったら、また怪我の療養で天界に戻るのが遅れちゃうよ」

 屋敷の周辺の人通りが少ないのをいいことに、星秀は光の雲に乗って珊釵の拳をかわし、そのまま空に舞い上がった。

「星秀! 貴様はまた――」

「僕は先に屋敷に戻ってるからさ! 師姐は真面目に規則を守って歩いて帰ってくるといいよ!」

 いつもやり込められていた姉弟子に、最後の最後で一矢むくいた星秀は――あとで報復されることは今はとりあえず考えることはやめて――この大きな街で一番高い伍家の塔を目指し、一気に雲の速度を上げた。

                                 ――完――

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浪子知恋於蘇州 嬉野秋彦 @A-Ureshino

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