最終回 少女知心於蘇州 ~第一節~




 伍先生の屋敷のすぐ裏手に細い運河が走っている。屋敷の厨房で必要となる大量の魚や野菜はいつもここから舟で運び込まれているが、今はあたりに人気はなく、はらはらと舞う花びらが、水面にいくつもの小さな花筏を作っていた。

「思わぬ長逗留となってしまい、申し訳ございませんでした」

 岸辺に淡い影を落とす柳の下で桐箱をかかえ直し、蛟仁はふかぶかと一礼した。

「いやいや、蘇州の民を守るためにご尽力いただいたのです、本来ならもっとゆっくりしていただきたいくらいで……」

 杖を突き、珊釵に肩まで借りて見送りに出ていた伍先生は、弱々しくかぶりを振った。

 万寿宮での戦いに介入した際――亡者にその表現は不自然だが――瀕死の重傷を負った伍先生は、どうにか一命を取り留め、冥府に送り返されることをまぬがれた。生前は呉の大軍を率いて戦場に立ったこともある先生は、今は自身が見守るこの蘇州の――かつての呉の都の人々を守るために、いてもたってもいられなかったという。ならばこれも名誉の負傷といえるのかもしれない。

「蛟仁どのにお持ちいただいた香炉のおかげで、一般人の被害を最小限に抑えることができたのは事実ですわ」

 珊釵も天香も、さらにいうなら蛟仁も、まだ完全には包帯が取れていない。饕餮との邂逅はそれほど過酷な試練だったともいえるし、そこから五体満足で生還できたことを喜ぶべきだろう。

「……それにしても、星秀くんはどこへ行ったのかしら? 蛟仁どのに挨拶もしないなんて」

「あの小僧のこと、どうせ本官たちが蛟仁どのばかりを持ち上げるのが面白くないのであろう」

「いえ、大理星君どののご活躍がなければ、私たちは今頃ここでこうしてはいられなかったと思います。さすがは南斗六星を束ねる御仁、私も大理星君どのを見習って、これからも日々研鑽を積みたいと思います」

「その謙虚さがなあ……」

「星秀くんにも、半分でもあれば――」

 女たちは顔を見合わせ、肩を落として溜息をついた。

「――ともあれ、洞庭湖の龍王殿下には、傷が癒えてからあらためてお礼を申し上げにお伺いいたしますので、どうかよろしくお伝えください」

 伍先生が話を引き取ってそうまとめると、蛟仁はもう一度深く頭を下げ、軽く地を蹴って運河に飛び込んだ。龍王の眷族として生まれたあの少年神将にとっては、むしろ地上よりも水の中のほうが居心地がいいのかもしれない。

 伍先生をささえて屋敷の中に戻った珊釵は、軽く手を叩いて張三郎を呼び出した。

「張!」

「へい、お呼びで?」

「小僧はどこで何をしておる?」

「おそらく例の未亡人の屋敷じゃねぇかと……ついてくるなといわれましたんで、正確なところは判りやせんが」

「そうか」

「珊釵どの、わたくしが行って呼んでまいりましょうか?」

「いや、本官が行こう」

 星秀を呼びにいこうという天香を制し、珊釵は屋敷の門を出た。


◆◇◆◇◆


 霧の立つ湖上に小さな舟を浮かべ、ろうくんは白い髭をしごきながら溜息をついた。

「……香炉に閉じ込められた人間たちはどうなったのじゃ?」

「怪我人はひとりもおりません。香炉の中では心安らかに桃源郷の夢を見ているという話ですから。……ただ、目覚めたのが見る影もなく破壊されたまん寿じゅきゅうですから、何があったのか混乱はしたでしょうが」

「いや、かの饕餮とうてつを相手にしてその程度ですんだのなら、むしろ僥倖というべきじゃろう。ともあれ、どうにかこちらは落ち着いたか」

「ええ。ことと次第によっては、また姉が天軍を率いて出陣するような事態になっていたかもしれませんし」

洞庭どうていの龍王にも借りができたか」

 太白たいはく金星きんせいと並んで万寿游仙宮があったあたりを眺めていた老君は、もう一度溜息をついてから振り返った。

「ところで……ご自分のなさりようが残酷だったとは思いませぬか?」

 この偏屈な老人の敬語を初めて耳にした太白は、はっと目を見開いて振り返り、慌てて膝を屈した。

「よいか、はくよう

 静かな水面に立ち尽くしていた白衣の少女は、おごそかな声で老君にいった。

「……そもそもわたしには、人としての心がない。人を作ったのは確かにわたしであり、人の姿も今のこのわたしの姿を模したものではあるが、心は違う。もし人がわたしと同じような心を持っていたなら、人はここまで栄えることはなかったろう」

 その声は、不思議と年若い少女の者のようにも、年ふりた老婆のもののようにも思える。ただひとつはっきりしているのは、その声の持ち主は、自分などよりはるかに大きな力を持った存在だということだった。

「そして、おまえたちの心も人とそう大きな違いはない。わたしから見れば、おまえたちや人間たちの心の動きは、とても興味深いものといえる」

「……何がおっしゃりたいのか?」

「わたしは、自分が生み出した人間たちがこの世界でどう生きていくのか、そしてその心はどう動くものなのか、それを知りたかった。世界という器に人間たちを解き放ち、あとはもう、それをただ見守るだけのものになりたかったのだ」

「では、ぶんおうじゅは――?」

「わたしはあの子を通して人の心を知りたかった」

 淡々と語る少女の表情は茫洋としていて、確かに彼女は心の持ちようや感情のあり方が、ふつうの人間とはかなり異なっているようだった。

「わたし自身は外から人の世の大きな流れを見守り、黄珠を通して人の心を見る――ずっとそうしてきた。そしてそれは、あの子自身の願いでもあった」

「だからといって……そもそもあなたなら、黄珠にあのような最期を迎えさせたりせずにすんだはずですぞ? 饕餮を倒せる倒せぬという話ではなく、それこそあの娘を連中のもとから救い出し、どこか安全な場所にかくまうこともできたはずじゃ」

「一度はそうした。あの子が望んだから、あの子と、それに南斗星の少年を救った。だが、直接わたしがこの世界に介入するのは本意ではない。だからもう、わたしは手を出さないといったのだ。……それにおまえたちも」

「な、何です?」

「神は神……人ではないのであれば、どこかで一線を引いてわきまえるほうがいいとは思わぬか?」

「我々が下界に介入しすぎ、と……?」

「……もっとも、それを決めるのもおまえたちだ。これ以上わたしが口を出すことでもない。わたしはただ、あるがままのこの世界を見守るだけなのだから、この世界に神々が必要なのだとあれば、それを否定するつもりもない」

 少女――じょの姿が、足元のほうから消え始めていた。その白い姿が、白い霧に溶け込むかのように徐々にぼやけていく。

「ただ――黄珠のおかげで、わたしにも判った」

「……何をです?」

「人の心……黄珠は、本当にあの少年のことが好きだったのだと。あれが愛、そして哀しみもまた……わたしはようやく、本当の意味で理解した気がする。わたしがそうした心を持てるかどうかは判らないが……少なくとも、わたしはもう、黄珠のような分身を生み出そうとは思わない。おまえのいうように、それはとても酷なことなのだろうと想像がつくようになったからな」

 そう呟いて消え去る寸前、女媧の頬に小さく涙の雫が光ったような気がしたが、それは太白の気のせいだったのかもしれない。

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