第七章 暁天に吠える ~第七節~
「…………」
饕餮は無言のまま、少し離れたところにあった瓦礫の山に呑天を差し向けた。
「!」
呑天がひと振りされるや、雑に積み上がっていた瓦礫はすべて子供でもかかえられるほどの大きさに寸断され、さらに饕餮が大きく息を吸い込むと同時に、ひとつ残らず彼の口の中へ消えていった。
「……あくまで私闘、私事で押し通すつもりか? 別に私はおまえたちと戦いたくないわけではないぞ? 単にこの場で戦うより、まずは腹ごしらえを優先させたいだけだ。私はひとり静かに、誰にも邪魔されずに食事をしたいからな」
「だからだろ! どうせおまえみたいな奴は、満腹になったら力が強くなるとか相場が決まってるんだ、だったらその前に決着をつけてやる!」
「二度死にかけて、それでもまだ判らないとは……あきらめの悪いお子だ」
「いってろ!」
星秀は床を蹴って右に飛んだ。それを見た珊釵は逆に左へ走り、それぞれが左右から回り込むようにして饕餮との距離を詰めていく。
星秀は珊釵の弟弟子といっても、ともに修行したことはない。ただ、ふたりとも同じ師匠、つまりは星秀の父に師事していたから、何もいわずとも察せられることはある。珊釵が星秀の動きに応じてすぐに走り出したのは、それが六星君がひとりの強敵を包囲して制圧する際の、基本的な陣形だと気づいたからだろう。
「長期戦はできぬぞ、小僧!」
「判ってるよ!」
霜華月輪が無限に生み出す氷の飛刀を、珊釵が立て続けに投げつける。しかし饕餮はそれをいちいちかわそうとはせず、ただ目の前の空間を吞天で薙いだだけだった。
「ぬ!?」
吞天の軌跡を追うように、珊釵と饕餮の間の空間に斜めの線が入り、その周囲の風景がゆがんだ。その刹那、一陣の突風が吹いて、氷の飛刀は一本残らずそのゆがみに吸い込まれて消滅してしまった。
饕餮の背後から斬りかかろうとしていた星秀は、それを見るなり、小さな光の雲を起こして強引に身体の向きを変え、天井近くまで飛び上がった。
「……ふん」
饕餮が振り返りざまに呑天を振るうと、今の今まで星秀がいたあたりの風景がゆがみ、周囲の空気を瞬間的に吸い込んだ。
「も、もしかして……空間を切ってるのか……?」
饕餮が吞天を振るうたびにその周辺の風景がゆがむのは、呑天の切っ先が空間を切り裂き、この“世界”に小さな切れ目を入れているからだろう。空間の裂け目はすぐにまた勝手に閉じるようだが、その際に、近くにあるものは“あちら側の世界”に吸い込まれてしまうらしい。
いずれにしろ、これでは迂闊に近寄れない。そもそも呑天の刃は、こちらの得物や防具で受けることがほぼ不可能なのである。まともに向かい合って斬り合える相手ではなかった。
「珊釵どの!」
「わ、私も援護いたします!」
天香が珊釵のもとに走ると同時に、蛟仁が降らせる細かな鱗が驟雨となって饕餮に襲いかかった。一枚一枚はごく小さい刃だとしても、その数は珊釵の投じる飛刀の比ではない。饕餮は左手で顔をかばいながら、右手に構えた呑天を大きく振りかぶった。
「させぬぞ!」
霜華月輪が唸りをあげて饕餮に迫る。
「小賢しいお子たちだ……」
饕餮は右手を軽く帰し、下から上へと素早く呑天を振るった。そのほんのわずかな動きだけで、神珍鉄でできた丸盾がまっぷたつになり、さらに饕餮のひと呼吸でその胃の中に吸い込まれてしまった。
「……まだだ!」
丸盾が失われても、丸盾と籠手をつないでいた鎖はまだ健在だった。
「――む!?」
吞天を握る饕餮の右手に鎖を絡みつかせ、珊釵は天香とふたりがかりでその動きを封じにかかった。
「星秀くん! 今のうちに――」
「すぐに調子に乗るのは子供の悪い癖だな」
「ぬ、ぅ――!?」
ふたりの南斗星君が渾身の力で引く鎖を、饕餮は右腕一本で振り回し、同時に呑天を左手に持ち替えていた。
「きゃあっ!?」
「あ――」
逆に鎖に引かれて大きく振り回された珊釵と天香は、そのまま蛟仁に激突し、壁際まで転がっていった。
「私は滅多に怒らないが――これ以上私の食事を邪魔するというのなら、おまえたちのような年端も行かぬお子たちが相手でも本気で怒るぞ?」
「怒るのが遅いよ」
雷閃蛇が届く間合いへと星秀が踏み込んだ時には、すでに饕餮は左手に持ち替えた呑天を高々と振りかぶっていた。
「――おまえが怒るより、僕が奥の手を出すほうが早い」
星秀が軽く左目をつぶると、呑天の目の前に真っ赤な薔薇の花が無数に咲いた。
「!? 何だ、これは――」
「僕の一番の特技は、何もないところから、世の女性と同じ数だけ薔薇を生み出すことができるってことなんだよ! そんなに空腹ならこれでも食ってろ!」
「……!」
あまりに場違いな真紅の薔薇の塊を唐突に突きつけられ、視界をふさがれても、饕餮が呑天を振り下ろす動きは止まらない。だが、そこに星秀は、自分が欲しかったほんのわずかな逡巡を見出していた。
「……っ!」
呑天が星秀の身体を袈裟懸けに両断する寸前、星秀が走らせた雷閃蛇の一撃が、呑天の柄を切断していた。
「! 何だと!?」
目の前の薔薇を掴んで投げ捨てた饕餮が、初めて驚きの声をあげた。
「……いくら何でも僕らをナメすぎだろ?」
実際には触れてすらいなかったが、空間すら切り裂く呑天の刃によって、星秀の右肩には鎖骨にまで達する深い傷が刻み込まれていた。もはやこの右腕ではまともに得物は持てないだろう。そうと察した星秀は、迷うことなく雷閃蛇を捨て、くるくる回転しながら宙に舞った呑天の上半分を左手で掴んだ。
「ついでにこいつも――自分で食らってみなよ!」
しっかりと握り締めた呑天を、自身の落下速度も上乗せして、饕餮の肩口に叩きつける。使い慣れた雷閃蛇を両手で振るったとしても、とても再現できないくらいの見事な切れ味を見せて、その刃はやすやすと饕餮の腹まで達した。
「…………」
常人なら即死のはずの深手をあたえられながら、饕餮は変わらず自身の足で立ち尽くし、不機嫌そうなまなざしを星秀に向けていた。
「よくもやってく」
自分の身体に開いた大きな傷を両手で確かめ、それからようやくこぼれ出た饕餮の声が、不自然に途切れた。その傷口の周辺の空間がゆがんだ直後、饕餮自身の身体が――妙な表現だったが――傷口のほうへめくれるようにして吸い込まれ、血が噴き出す前に一瞬で消滅してしまったのである。
「……え? ど、どういう――?」
這いずるようにして立ち上がった蛟仁が、あたりを呆然と見回して呟いた。
「饕餮は……どこに消えたのですか?」
「……どこへかは判らないけど、おそらく、こことは別の世界に吸い込まれた……もしくは吸い出された? のだと思うけど」
ひびの入った眼鏡をかけ直し、天香が立ち上がる。
「饕餮ほどの邪神であれば、あの程度の傷で死ぬということはあるまい……が、この世界に戻ってこられるかどうかは判らぬな。天界のお歴々ですら、単身で別の世界へと渡ることはできぬという話だ。呑天を持たぬまま別の世界に飛ばされた饕餮が、あの傷を完全に癒してこちらの世界に戻ってくるまでどれほどかかるか――」
「その頃には、わたくしたちはもうとっくに引退しているかもしれませんわよ?」
「であれば気が楽なのだがな」
天香と蛟仁の手を借りて立ち上がった珊釵は鎖がちぎれてもはや何の役にも立たなくなった籠手をはずし、足を引きずるようにして星秀に歩み寄った。
「いずれにしろ、お手柄だったな、小僧」
「……何が手柄だよ」
その場にひざまずいたまま、星秀は鼻をすすった。その手の中にある呑天は、二尺ばかり残っていた柄はひびだらけ、白い房飾りもぼろぼろで、刃には無数の亀裂が走っている。おまけにその亀裂は、今もかすかな音を立てながら広がり続けていた。
「結局、僕は奥さんを守れなかった……」
星秀がかぼそい声で呟くと、澄んだ音を立てて呑天の刃が砕け散った。
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