第七章 暁天に吠える ~第六節~

「無事か、星秀!?」

 瓦礫をかわしながら、珊釵と蛟仁が星秀へやってきた。

「――浄光道の八華楼主とやらはどこだ!? その女を捕らえなければこの騒動は収まらぬぞ?」

「そ、そんな女、いなかったよ。僕が来た時には、もう……」

「は!? テメっ……ナニいってんだ、テメー!?」

 あちこちから血を流し、傷だらけで足を引きずりながら、峰児が大声でわめいた。

「がっ、楽嬰サマが、ここにいらっしゃらねーワケねーだろ!? バカか!?」

「騒々しいな、峰児」

 頭上に落ちてきた瓦礫のすべてを呑天で薙ぎ払い、男は峰児を一瞥した。

「……つか、オメー、誰だ……?」

 峰児はいぶかしげに目を細め、あたりを見回した。

「楽嬰サマも、祖師も、それにあの女もいねー……マジ誰だよ、オメー!? ここで何があった!?」

「楽嬰ならここにいるぞ」

「何?」

「ここだ。……これが楽嬰だ」

 男はそういって、呑天の穂先と柄とのつなぎ目に巻かれた白い房飾りを指差した。

「……は? オメー、何いって……」

「もともと楽嬰は、呑天を完成させる部品のひとつとして私が育てた娘だ。こうして姿を変えた今も、文黄珠への嫉妬と憎しみが呑天の刃と柄をしっかりとつなぎ止めてくれている」

「オメー……?」

「どちらにしろ、敵ということね」

 瓦礫に埋もれて動かなくなった戦獄の巨体から槍を引き抜き、天香は続いて男に斬りかかった。同時に、蛟仁も剣を振りかざし、天香と挟撃するような形で襲いかかる。

「! 天香ちゃん、その男はマズいって!」

 はっと星秀が声をかけた次の瞬間には、天香と蛟仁は、それぞれの鎧を砕かれて壁に激突していた。

「天香!? 蛟仁どの!」

「な、何……が?」

「今のは――!?」

 のろのろと身を起こした蛟仁は、手にした剣が柄から三寸ばかりを残して折れていることに気づいて絶句した。

「あ、ありえないわ……砕星鉄騎まで!?」

 天香が持つ砕星鉄騎も、穂先がまるまる失われ、ただの長い金属の棒になり果てていた。仮にも天界の名工、魯班ろはん先生の手で鍛え上げられたほうが、こうまであっさりと破壊されることなどまず考えられない。蛟仁の持つ剣にしたところで、天軍の上級神将たちが使う武宝具に比類するものだろうに、そのふたつを同時に破壊したのは、やはり呑天の持つ力ゆえに違いない。

「あ、あの武器は……奥さんが持っていた神石としての力でどんなものでも破壊できるんだ」

「何だと!?」

「あの穂先、あの水晶の刃みたいなものが……たぶん、奥さんなんだ――」

「あ、あれが神石――?」

「ちょ……ま、待て、待てよ! ちょっと待てって!」

 星秀たちのやり取りを耳にした峰児が、よろめくようにして男のほうへ向かった。

「そ、その、先っちょがあの女で、その根元に巻きついてるのが楽嬰サマ……? え? 何だよ、それ……え? じゃあ、オメー……オメーは誰なんだよ? オメーみてーなヤツいなかっただろ!?」

 あざやかな色合いの鎧を真っ赤な血で汚した峰児は、男の肩を掴んで細剣をその鼻先に突きつけた。

「お、オメー……オメーの言葉がホントだとしたらよ、今すぐ、楽嬰サマをもとに戻せよ! じゃねーと今すぐ穴だらけにするぞ!?」

「……短慮と無礼さは最後まで変わらなかったな」

「はァ!?」

「その空迅突も私があたえたものだ。もう返してもらうぞ」

 そういうなり、男は口を大きく開けて細剣の切っ先をかじった。

「!?」

 ぎょっとして動きが止まった峰児の目の前で、男は彼女の細剣の刀身をあっという間に中ほどまで食べてしまった。

「テメー!? まさか、虚風――」

 慌てて飛びのこうとした峰児の細い腰が、横殴りの一撃で両断された。

「そっ……」

「おまえは無駄に人間を殺しすぎるが、私は無駄というものが嫌いだ。どんなものであっても、腹の足しにはなる」

 男が唇をとがらせて大きく息を吸い込むと、まっぷたつになった峰児の骸が一瞬で男の口の中に消えた。

「……どうも私の身体は効率がよくないらしい。いくら食っても腹がふくれない。困ったものだ」

 ほっとひと息ついて腹を撫で、男はいった。

「だが、長い空腹に耐えてきた甲斐があった……呑天さえあれば、私はこの世界にあるすべてのものを食らい尽くし、世界そのものを食らい尽くし、さらには次元の壁を切り裂いて、別の世界でもすべてを食らうことができる」

 誇るでもなく、静かにそう告げた男の鎧には、鈍く輝く金色の線によって、不気味な怪物の顔を思わせる紋様が描き出されていた。

「と、饕餮とうてつもん……?」

 眼鏡を押し上げ、天香がいぶかしげにもらす。

「饕餮? 何だっけ、それ? 聞いたことがあるような――」

「饕餮というのはあらゆるものをむさぼり食らうとされる伝説上の魔獣のことです」

 星秀の疑問に、蛟仁が緊張の面持ちで答えた。

「下界の人間たちは、その魔獣の姿を、貪欲さに対する戒めや、あるいは魔よけの意味を込めて、古来より祭器などに刻み込んできました。その紋様のことを饕餮文というのですが……確かにあれは饕餮文です」

「蛟仁どのの説明はまことに正しい。……ひとつだけ補足するなら、下界の人間が伝説上の魔獣と考えておる饕餮は、実際には伝説でも何でもなく、実在する魔神だということくらいか」

「え!? じゃ、じゃあ、まさかあいつは――」

「神将にしては不勉強なお子だな……本当に今の今まで気づかなかったのか?」

 その時初めて、男は――饕餮は唇を吊り上げ、笑みらしきものを見せた。

「なぜ……どうしてここでそんなものが出てくる?」

 珊釵が頬をひくつかせ、低い声で呻いた。いつも高圧的で不遜な少女の顔が今はひどく青ざめ、冷汗までにじんでいる。

「饕餮といえばゆうけいせい、あるいはあのラーフにも比されるほどの魔神……それがなぜここで唐突に現れる?」

「別に私はどこかに封印されていたわけではないからな。ただ空腹をかかえてじっと機会を窺っていただけだ。蚩尤やラーフのように天界に叛旗をひるがえしたこともないから討伐を受けたこともない」

「現に今やっておるではないか! 世界を切り分けて食らうなどと――そのような所業を天界が許すと思うか!?」

「刀鍛冶が人を殺せる刀を打っただけで罪に問われることはない」

 饕餮は平然と首を振った。

「私も今はまだ、呑天という武器を作っただけだ。呑天を玉帝に突きつけたわけでもない。ならばどんな大義があって私を討伐するというのだ? まだ討伐を受けるような大罪を犯していない私に、いきなり襲いかかってきたおまえたちのほうこそ非難されるべきでは?」

「そ、それは――」

 珊釵は返す言葉を失って唇を噛み締めた。

 確かに饕餮は、天界に対して直接弓を引くようなことは何もしていない。彼がやったことといえば武器を作ったことだけ――その過程で数万という単位の人間を虐殺したのならともかく、犠牲になったのが黄珠と八人の女たちだけでは、天軍が討伐に乗り出す大義名分にはならない。

「……まあいい。とにかくここは私の“家”だ。天軍の神将とはいえ勝手に踏み込んでくることは許さん。さっさと立ち去れ。私を討伐したいのなら、私が実際に何か行動を起こしてからにしろ。どのみちおまえたちのようなお子が四、五人ばかり束になってかかってきても意味はない。次に来ることがあるのなら、その時はもっと手勢を引き連れて――」

「いや」

 饕餮の長口上をさえぎり、星秀は蛇矛を構えて進み出た。

「少なくとも僕にはおまえを斬る理由がある!」

「……何?」

「奥さんは――文黄珠は僕の恋人だ! いや、いっそ婚約者、もっというなら妻同然の女性といっていい! ああそうだ、そうだよ、奥さんは僕の奥さんなんだよ! それをおまえはそんなわけの判らない武器に変えた! だから僕にはおまえを討つ大義名分があるというか、討たなきゃならないんだ!」

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