第七章 暁天に吠える ~第五節~

 そう気づいた瞬間、星秀は一気に距離を詰めて男の頭上を飛び越えると、黄珠に絡みついた糸を断ち切ると同時に彼女を救い出そうとした。

「もう少し待てないのか? せっかちなお子だな」

「ぐ――!?」

 そうと自覚した時には、すでに星秀は背後の壁に背中からめり込んでいた。頭上を飛び越えようとした星秀の足首を左手一本で掴んだ男が、そのまま無造作に後方へ放り投げたのである。ただ、動きそのものは無造作だったが、その速さは尋常ではなかった。ほとんど受け身も取れずに石壁に激突した星秀は、前のめりに崩れ落ちて苦痛の呻き声をもらした。

「せ、星秀さま――」

「おっ、奥さん……!」

 よろめきつつも立ち上がった星秀は、黄珠の瞳が細く開かれ、自分を見つめていることに気づいた。

「待っててよ……僕が、すぐに助けてあげるからさあ」

「そのようなことはもういいのです……それより、は、早く――早くわたしを殺してください!」

「……え?」

「わたしの力が、奪われる前に、早く――」

 かぼそい黄珠の声に、星秀は彼女と男とを交互に見やった。

「こ、殺せって……いや、無茶でしょ、無理、無理だよ。自分でも判ってるよね!?」

「そうだ。もはやおまえにできることなど何も残っていない」

 男は淡々とそう告げ、ふたたび黄珠を見上げた。

「……おまえだけではない、誰であろうとこの女を殺すことなど無理なのだ。外から加えられる一〇の力を二〇にして跳ね返すのがこの女――神石が持つもっとも判りやすい力の発現であることを考えれば、この女を殺せる武器などまず存在しないことがすぐに判るだろう」

「お、おまえは、いったい――?」

「出会ったその場でこの女を殺しておけば、この事態は避けられただろう。少なくとも、この女が別の場所に生まれ変わり、年頃になるまでの一五、六年ほどは、こうなることを先延べにできたかもしれない。……だが、この女が人間であることをやめた今、もはやどうにもならん」

「……っ!」

 星秀はふたたび床を蹴り、男の無防備な背中に突きかかった。

「すべてを見届ける前におまえがひと足早く死ぬか、お子よ?」

「がっ……!」

 ろくに振り向きもせずに男が繰り出した後ろ回し蹴りが星秀の胸を捕えた。もともと峰児のひと突きによって入っていたひびがさらに大きくなり、紅玉の薄片をばらまきながら、星秀はごろごろと床を転がった。

「……星秀、さま――」

 彼を案じる黄珠の声はさらにかぼそくなっている。

「く……汗臭いのは、ガラじゃないけど――負けられないんだ、僕は……!」

「何をいっている? まさか、男の面子がどうの神将の誇りがどうのと、そんなくだらないことをいうつもりか? だとしたら滑稽だな。……おまえたちから見れば絶望的な今のこの状況を作り出したのは、ほかならぬおまえ自身なのだぞ?」

「ぼ、僕? 何が僕のせいだって?」

「おまえが文黄珠を人間でいられなくしたのだ」

 端整には違いないが、男の顔には感情の色と呼べるものが微塵も見えない。輝きのない瞳で星秀を見つめ、いっそおだやかとさえいえる口調で男は続けた。

「文黄珠が人間のままでいるかぎり、神石の力は永遠に封じられていたはずだった。永遠に転生を繰り返すただの人間にすることで、女媧は神石の力も永遠に封印したつもりだったのだろう。そして実際に、文黄珠が人間でいる間は、どんな手を使おうとも、その力を私が手に入れることはできなかったはずだ」

「……え?」

「ただの人間には神石の力は宿らない。この儀式の贄として使うためには、まずは文黄珠に人間であることをやめさせる必要があった。私にとっても、それがもっとも困難な作業になるはずだったが――確か南斗大理星君だったかな、そこのお子よ?」

 男は左手を胸に添え、大仰に一礼した。

「ありがとう、礼をいうよ」

「な、何? どういう意味だよ?」

「おまえと会って文黄珠は人間であることをやめた。おまえを守るため、おまえと同じ時をすごしたいと願ったがゆえに、この女は三〇年の人生を繰り返すだけの人間であることをやめたのだ。おかげでこうして文黄珠は神石としてよみがえり、その力が我がものとなった」

 男が紅色の棒で床を音高く突くと、黄珠との間をつないでいた白い糸の束が花開くように大きく広がり、黄珠の全身を包み込んだ。

「!?」

 黄珠を丸ごと呑み込んで巨大な繭と化した白い糸の塊が、わずか数秒のうちに小さく細長く変形し、赤い光を放ってはじけ飛んだ。

「……え?」

 光とともに細かな白い糸の切れ端が舞い散ったあとに残っていたのは、紅色の棒の先端ににゅっと生えた、黄色く透き通る刃だった。

「これがどんてんだ」

 全体の形状としては、やや穂先が大きめの大刀ということになるのだろう。男はみずから呑天と呼んだその大刀をかるがると振り回し、軽く首を回した。

「……にしても、腹が空いたな」

「お、おまえ――それ、まさか……?」

 星秀は目を見開き、男が持つ大刀の穂先と天井から垂れ下がる赤い帯を交互に見やった。しかし、さっきまであそこに吊られていた黄珠の姿はどこにもない。ただ太極図の真ん中に、黄珠が着ていた――星秀が着替えを手伝った彼女の衣だけが、小さな山をなしていた。

「おまえ……奥さんをどこへやった!?」

「愚かしいお子だな……いや、すでに理解はしているが認めたくはないのか。そうだろうな。いかに鈍かろうと、今の光景を目の当たりにして、何が起こったのか察せないはずもない」

 黒く艶光る男の鎧の表面に、金で象嵌したかのような、細く細かな文様が徐々に浮かび上がってきた。

「――お子よ。おまえが恐れているように、文黄珠は神石に戻ったのだ。神石に戻り、そしてこの呑天の刃となった。この世界に破壊できないものなど何ひとつない、この世界そのものさえ破壊できる呑天の一部になったのだ」

「黙れ……っ!」

「人にものを尋ねておいて、今度は黙れ、か……」

「こ、こいつ――!」

「無駄なことはせぬほうがいいぞ」

 真正面から突っ込んでいくと見せかけ、素早く横に飛んで男の視覚から斬り込もうとした星秀だったが、男はあっさりとその動きを看破し、呑天をひと振りした。

「ばっ……え!?」

 こちらの動きに即座に反応した男の斬撃をあやういところでかわし、距離を取ろうとした星秀は、鎧の肩当がこなごなに砕け散ったのを見て息を呑んだ。

「馬鹿な……ちょっとかすっただけなのに!?」

「呑天は世界の構造に干渉する武器だ。どんなに頑丈な武器も防具も、呑天の前では物質としての構造を維持できない。そんな呑天だからこそ、世界を切り分けるためには絶対に必要だった」

「き、切り分ける……?」

「さすがに私でも、世界をこのまま食うことはできないからな。細かく切り分けなければ食えない」

「世界を食うって……な、何をいってるんだ?」

「そのままの意味だ。本当に、世界を、食う。食いたい。それだけだ」

「お、おまえ、何者だ……?」

「どうした? また判らないふりをしたいのか、お子よ?」

 男が不思議そうに首をかしげる。

 その時、突如として天井が崩壊し始めた。

「うわ――!?」

 落ちてくる巨大な石材にまぎれて、光の雲に乗った神将たちと、傷だらけの巨漢たちが広間に雪崩れ込んできた。

「はーっ!」

 天香の砕星鉄騎が戦獄の胸をつらぬき、そのまま床に激突した。

 戦獄は今まさにとどめを刺され、武獄のほうも、いっしょに落ちてきた瓦礫の山に埋もれてぴくりとも動かない。境内での戦いは、どうやら珊釵たちの勝利で決着がついたようだった。

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