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プロローグ
今日も目覚まし時計代わりにしているスマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた。
遮光カーテンは陽の光を完璧に遮り、真っ暗な部屋には扉の隙間から差し込む廊下の光しか灯りがない。
スマートフォンを覗きたくなる気持ちをぐっと抑えて、彼は目を
どれくらいの時間が経っただろうか。
廊下から床のきしむ音が聞こえて、部屋の前でピタリと止まった。
扉につけられたレバーハンドルのドアノブが静かに下がり、廊下からの光が強くなってまぶたの上に差し込む。
足音は枕元に近づき、衣擦れの音と共に鼻腔をくすぐる甘い香りが漂ってきた。
彼はまぶたを閉じたまま寝息を立て続ける。
優しく前髪が撫でられ、クスッと微笑む声が聞こえた。しかし、まだ目を開けてはいけない。
レールの擦れる音を最小限にしながらカーテンが開け放たれ、陽の光が部屋中を満たした。
「おはよう。もう……相変わらずお寝坊さんだなぁ。もう7時だよ。今日も可愛い幼馴染が起こしに来てあげたよぉ」
彼は布団の中でモゾモゾと動き、「んんん」とわざとらしい声を出す。
陽の光が眩しいふりをして薄目を開けると、満足そうに目を細めながら優しく掛け布団をめくる少女の姿が見えた。
もう9年も続けているやり取りなのに毎日楽しそうで何よりだ、そんなことを考えながら彼は目をこする。
「……おはよう」
いつも通りに渾身の寝起き声で挨拶を返して体を起こすと、計算し尽くしたように置かれた彼女の唇と自分の唇がぶつかった。
(こいつ、本当にキスが好きだな)
毎度のことだが、そんなことを思う。
きっと彼女も同じことを思っているはずだ。そんな気がした。
実際に彼女は彼の唇を迎え入れるように少しも動かない。そして彼は彼女の唇に向かって一直線に進む。
決して目を
そこにロマンチック感や義務感はなく、ただの日常と化していた。
何事もなかったかのように彼はスマートフォンに『0518』と打ち込み、ロックを解除する。安直だがパスワードは誕生日だ。
しかし、それは彼ではなく彼女の誕生日をパスワードに設定している。正確には設定させられている。
これまでに何度も祝ってきた日だから忘れるはずがない。数日もすれば指先はパスワードを覚え、目視しなくてもロックを解除できるようになってしまった。
慣れた手つきでアラームのアプリを起動してスヌーズ機能をオフにする。
次いで彼女が昨日の夕方に用意してくれたカッターシャツと制服に着替えた。着替えている間、彼女は今日の授業で必要になるはずのプリント類を彼の鞄に詰め込み始める。
「やっぱり教科書はひとつもないねぇ。課題はやったの?」
彼女の声が背中越しに聞こえた。
「やってない」
当然だと言うように即答し、わざとらしい彼女のため息を聞く。
二人にとってこの会話は無駄だ。下校時も帰宅後もずっと一緒なのだから課題をしていないことはもちろん彼女に把握されている。
それでも彼女には「課題をやれ」と言わない理由があった。それは教室に着いてからのことなので彼は黙って着替えを続ける。
着替えを終えた彼は彼女と一緒に階段に降りて、既に出勤してしまった母親が作り置きした朝食を食べ始めた。
ぽつんと置かれたトースターは役目を与えられずに寂しそうにしている。
冷めた目玉焼きとソーセージ、付け合わせのサラダを無言で食べ進めている彼がテレビから視線を外し、隣を見ると彼女は暖かく見守ってくれていた。
「はよー」
そうこうしていると妹が階段を降りてきて、洗面所へと向かった。
二人は声を揃えながら挨拶を返し、登校の準備を整え始めた。
「みっちゃん、牛乳!」
「自分で取りなさい。来年から高校生でしょ」
「けち!」
「毎日、毎日その会話いる?」
「わたしとみっちゃんの数少ない会話なんだから、いるよ!」
非常に世話焼きな彼女だが、自分以外の人間に対しては冷たい一面を持っていることを彼は知っている。
彼の妹もそれを理解できる年齢になっていた。
「いってきまーす」
妹が家を出てから、数分後に彼と彼女は家を出るようにしている。
前屈みになって靴を履こうとしている彼女の胸元を指さして、「おい」と声をかけた。
「その履き方はやめろって言ってるだろ。見えてるから」
「あー」
彼女はシャツの胸元を覗き込みながら納得したように呟いた。
「それから、さっきからスカートがめくれてるから直して」
「おー」
後ろを振り向き、肩にかけたスクールバックに巻き込まれたスカートを正した彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もう。そんな所ばっかり見ちゃって。えっちだなぁ」
お前が隙だらけなんだよ、という視線だけを向けて彼も靴を履いた。
「いってきます。いってらっしゃい」
「いってらっしゃい。いってきます」
決して広くはない玄関で再び軽く唇を重ねて外に出る。
まだ寒さを残しつつも春らしい暖かな陽光を背に受けながら、家の鍵をかけてドアノブをガチャガチャと鳴らした。
「鍵、オッケー?」
「オッケー」
二人は肩を並べてすっかり通い慣れた学校へと歩き始めた。
これが小学4年生頃から続く、二人のモーニングルーティンである。
このルーティンを崩すことだけは決してあってはならない。
だからこそ、彼は彼女が部屋に入ってくるよりも早くに目を覚ましていても狸寝入りを決め込まなくてはならず、制服は脱ぎ散らかさなければならず、学校から与えられた課題を終わらせるわけにはいかないのだ。
この時の彼はこれから先も今の日常がずっと続いていくのだと信じてやまなかった。
第1章
午前8時頃に学校に着き、1階にある教室へと向かう。
古びた教室の扉をガラガラと音を立てながら開けた彼こと
校則通りに制服の第一ボタンまでしっかり留めて、瑞穂の母におすすめされたワックスで毎朝セットしている聡は、いつもと代わり映えしない姿で他の生徒よりも遅めに席に着いた。
最高学年になりクラスメイトの入れ替わりはあったが、ほとんどが顔見知りである。
彼らの通う高校はいわゆる進学校だ。特にこのクラスは難関大学を目指す生徒が集められている。
そんな集団の中で新学期早々から彼は少し浮いた存在となっていた。
「里見くん、今日も社長出勤じゃないか」
いかにもインテリ風のクラスメイトが眼鏡をくいっと持ち上げながら高圧的な態度で近づいてきた。
聡は返事をすることもなくただぼんやりと片肘を突いている。
クラスメイト全員というわけではないが、このクラスの生徒は意識が高い。
しっかりと目標を持って授業に臨み、将来を見据えている者が多かった。
そんな中で漫然と日々を送る聡の姿が気に入らないと思っている生徒も少なからずいた。
「きみは学年順位トップ10にも入っていないくせに課題をやってこないそうじゃないか。今日はやってきたのだろうね」
聡は無言でシャーペンとノートを机の上に置いた。
「まさか。聡は課題なんてやってこないわよ。はい」
「おう。サンキューな」
聡の後に続き教室に入った彼女こと
瑞穂は学生らしく胸の高さまで伸ばしたロングヘアを二つ結びにして清楚な雰囲気をまとっている。
アクセサリー類は身につけず、代わりに伊達メガネをかけて委員長キャラを確立していた。
学校でおしゃれをする必要はなく、教師や他の生徒に求められているキャラクターを演じることで相応の立ち位置と信頼度を得ようと画策した結果だった。
更にプライベートと学校では声も話し方も変えてしまうほどの徹底ぶりである。
そんな彼女はおもむろに鞄の中からノートを取り出し、びっしりと回答が書かれたページを開いて聡の机の上に置いた。
「委員長?」
その光景を見慣れているクラスメイトは何も違和感を抱かないが、3年生で初めて一緒のクラスになった生徒たちは目を丸くした。
「な、何をやっているんだ、君たちは……?」
聡は瑞穂が取り出したノートをしばし見つめ、自分のノートに課題の答えを写し始めた。
「あー、ムダムダ。言うだけ時間がもったいないよー」
「そっか。知らないんだっけ。この二人はいつもこうなんだよ」
聡は素早く答案を暗記し、ノートに達筆をふるっていく。
クラスメイトが雑談を終える頃にはノートを写し終えてしまっていた。
「いつ見ても鮮やかな速筆だねー。記憶力もいいし、真面目に勉強すれば学年順位ももっと上がると思うんだけどなー」
昨年も同じクラスだった瑞穂と仲の良い女子がやる気のない声で褒めてくれた。
「それは買い被りすぎだって。俺は瑞穂がいないと何もできないからな」
聡はシャーペンを筆箱にしまい、ノートを瑞穂に返した。
「そうね。聡は私がいないとダメな子だものね」
瑞穂はお姉さんぶって、聡の頭をポンポンと優しく叩く。
これが聡に宿題や課題をやれと言わない理由だった。
小学生の頃から自由研究、書初め、読書感想文といった長期休暇の宿題以外は全て瑞穂がノートを写させている。
やらなくていいのならやりたくないというのが素直な気持ちではあるが、自分の為にも自力でやるべきだとは思っている。
しかし、瑞穂はそれを許さない。
自宅ではなく教室で、しかも生徒のほとんどが登校しているタイミングで周囲に見せつけるようにノートやプリントを写させるのだ。
聡に与えられる時間は長くても20分。それまでに他の生徒が前日の放課後から取り組んでいる課題の転写を終わらせなくてはいけない。
これこそが、彼に与えられる瑞穂からの課題なのだ。
おかげで聡の記憶力と筆の速さだけは無駄に向上して、長所として履歴書に書きたくなるほどのレベルにまで達していた。
瑞穂がノートを持って自分の席に座るとすぐにチャイムが鳴り、担任教師が教室に入ってきた。
「起立、礼!」
担任の推薦で学級委員長を務めている瑞穂の合図で生徒が立ち上がり、挨拶をして着席する。提出予定だったノートを後ろから順番に前に回していくと、聡も何食わぬ顔でノートを上に重ねた。
「あ。来週からの選択教科は選んだか? あのプリントも提出してくれ」
そんな書類があることなどすっかり忘れていた聡だったが、今朝、瑞穂が自分の鞄をガサゴソやっていたのを思い出し、クリアファイルの中を探った。
これか、と空白を埋められたプリントを見ると『地理』と『化学』が選択されていた。言わずもがな瑞穂が選んだものである。
聡が顔を上げるとこちらを見て満面の笑みを浮かべている瑞穂が「一緒だね」と口パクで訴えていた。
お前が選んだんだろ、というツッコミを飲み込んでいるとプリントは聡の手から抜き取られ、提出されてしまった。
(よりによって地理と化学かよ。都道府県の位置もまともに分からないのに。それより化学ってなんだっけ。すいへーりーべーのやつか? ま、でも瑞穂がいれば平気か)
聡はいつも通りに深く考えず瑞穂に向かって親指を立てておいた。
諸々の課題は問題ないだろうが、さすがにカンニングをする訳にはいなないので、テストの点数は自力で取らなくてはならない。
卒業を前にして赤点、補習、留年なんてことになってしまえば笑い話にもならないし、好きな人に幻滅されてしまう。
そんなことは絶対にあってはならない。
聡は思い人から「勉強できる時間を与えられるのは子供の特権だから、ちゃんと学校には行きなさい」と言われ、二つ返事で約束している。
それに瑞穂のわがままは今に始まったことではないし、慣れっこだ。
高校3年生まで彼女に手を引かれながらも必死についてきたんだ。今年もきっと大丈夫……なはず。
そう自分に言い聞かせて、聡は片肘を突き直した。
4時間目の授業が終わり、昼休みになると仲の良いグループで集まり昼食の準備が始まる。
聡も教科書を机の中に放り込み、立ち上がろうとした。
「購買部行くだろ?」
「おう」
なぜか縁あって入学した時から同じクラスの友人、速水と一緒に瑞穂の席へ向かう。
速水も最初は戸惑っていたが、丸2年も続ければ習慣化して何を言われなくなった。
「瑞穂、サイフ」
「はい、使い過ぎちゃダメよ」
瑞穂は呆れたように顔を傾け、ため息をつきながら鞄から無地の財布を取り出した。
「今年の瑞穂も里見くんに甘々だねー」
クラスメイトの女子たちに笑われることにも慣れている。
聡は瑞穂から受け取った自分の財布を片手に教室を出た。
(毎日、なんであんな得意げに俺の財布を取り出して渡せるんだ?)
別にダメな奴というレッテルを貼られることに対して不服があるわけではない。ただ、俺の幼馴染は演技派だな、という感想を抱いただけだ。
今持っている財布は両親から貰っている食費だけが入っているものだ。プライベート用の財布は別に持っている。
このルールを決めたのも瑞穂であり、入学当初は『幼馴染にお金の管理をしてもらっているダメ男』と噂されたのは彼にとってほろ苦い思い出だった。
「もう3年だから聞くけど、それって委員長の金じゃないよな?」
「なわけないだろ。親の金。弁当を作る時間がないから金を置いていってるんだよ。速水もそうじゃないのか?」
「俺は弁当と購買の半々だな。そのときの気分ってやつだ」
聡は購買部で数種類のパンとコーヒー牛乳を買って教室に戻った。席には朝礼前に声をかけてきたインテリ風のクラスメイトが待ち構えている。
「里見くん。きみは水本さんが解いた課題をノートに写す行為を恥ずかしいとは思わないのか?」
「いや、別に。これまで一度もバレたことないし、チクられたこともないし、テストで赤点を取らなければいいだけの話だろ。瑞穂も好きでやってるし、効率的でWin-Winの関係なんだよ」
インテリ風のクラスメイトこと木村は聡の言っていることが理解できないというように顔をしかめた。
「いくら恋人同士でも課題は自分でやらないと身につかない。水本さんに悪気はないのかもしれないが、里見くんの今後の為にも自分で時間を割いて取り組むべきだ」
まさか同級生から説教される日がくるとは思ってもみなかった、というのが素直な感想だった。
しかし、聡は大して気にすることなく席に座り、焼きそばパンを開封して口に含む。
炭水化物と炭水化物が口内で暴れ回り、喉を通過した。
「俺と瑞穂は恋人同士じゃないぞ」
「へ!? そ、それはすまない。ち、違う! 話の論点をずらすな。今は課題の話をだな――」
「そんなぞんざいな言い方をしなくてもいいのに。私は聡のこと好きよ」
仲良し四人組で持参したお弁当を食べていた瑞穂はいつの間にか聡の背後に立っていて、微笑みながら彼を見下ろしていた。
その笑みは見る者によって、天使のようにも悪魔のようにも見えた。
「別に嫌いだなんて言ってないだろ。俺も瑞穂のことは好きだ」
「愛してる?」
「比較的愛している」
突然始まる夫婦同然のやり取りにも慣れているクラスメイトは「またか」と苦笑いを浮かべ、慣れていないクラスメイトは頬を染めたり、顔を引きつらせたりしている。
「どういうことなんだ。二人は本当に付き合ってないのか!? その距離感で!?」
二人と初めて同じクラスになった木村は誰も詳しく触れてこなかった二人の関係性について言及し、他のクラスメイトは耳をそばだてた。
「付き合ってないと思うんだけどな」
「付き合っているはずなんだけどな」
正反対の言葉を呟く聡と瑞穂は顔を見合わせ、懐かしむように自分たちの出会いと今日までの日々を思い出した。
◆ ◆ ◆
聡が瑞穂と初めて出会ったのは保育園の入学式だったらしいが、そのときの記憶はない。ただ物心をついた頃には瑞穂が隣にいた。
切り揃えられた前髪がチャームポイントだった瑞穂は得意げに「私のお母さんに切ってもらったの」と言っていた。
聡が瑞穂の家に招かれたのは小学校に入学する直前で「髪を整えた方がいいよ」と言われたからである。
いつものように手を引かれ、彼女の自宅でもある美容院に入店した。
その日、彼は心を奪われた。
笑顔で手を引いて走る瑞穂ではなく、そんな活発な娘を女手一つで育てる彼女の母親に。
瑞穂の姉だと紹介されてもまったく違和感のない彼女の母親は、聡の母親とは異なる雰囲気をまとっていた。
黒髪でいつもスーツを着て家を出て行く自分の母と違い、茶髪でオシャレかつ清潔感のある服装で働く姿に魅了された。
それからというもの、聡は瑞穂の母以外に髪を切られることを嫌い、両親にお願いして3ヶ月に1回は必ず美容院に通うようになった。
他の同級生が異性を意識し始める頃、当時小学4年生だった聡は雑談しながらも丁寧に髪を切ってくれている瑞穂の母に鏡越しに想いを告げた。
「俺、
「あたしも聡くんのこと好きだよ」
その言葉を聞いて聡の鼓動が速くなる。
しばらく沈黙が流れ、「瑞穂を幸せにしてくれたらもっと好きになっちゃうな」と言われたときは心臓が口から飛び出るかと思った。
「ほんとに!?」
純粋だった聡はその言葉を正直に受け取り、『幸せにする』の意味を求め続け、一つの答えに辿り着いた。
瑞穂はいつでも自分の手を引いて、笑っている。
この笑顔を守ることが正解なのだと結論づけ、彼女のわがままを聞き、決して逆らわずに隣にいると決めた。
瑞穂が困っていれば他のことを放り出して助け、彼女が悪者にならないように、傷つかないように大切に扱った。
そうすることで聡は自分の好きな人に『好き』の先にある言葉を言ってもらえるようになると信じた。
◇ ◇ ◇
同じ保育園で仲良くなった男の子を好きなることはありえる話で、結婚の口約束をすることもあるだろう。
瑞穂もそんな幼少期をおくった。
聡って意外とオシャレが好きなのかな。それとも私のことが好きなのかな。そう思っていたのは瑞穂の勘違いだった。
初めて母に髪を切ってもらってから聡は
彼が好きなのはオシャレでも、散髪でも、自分でもない。うちのお母さんなんだ。
そう直感してから聡を見ていると非常に分かりやすい性格をしているのだと気づいた。
多分、彼は彼自身の気持ちに気づいていない。そのまま気づかないで、ずっと私だけの手を握ってくれていればいいのに。
そんな風に思っていた矢先、聡は3ヶ月に1度のカット中に母に告白した。
とっさに隠れたことで聡には気づかれなかったが、母とは視線が合い、微笑まれた。
その笑みはなに?
勝ち誇っているの?
娘の友達に、しかも幼馴染に告白されたからって浮かれているの?
瑞穂はその場を後にして、二人の会話が聞こえないように自室に閉じこもった。
それからというもの、明らかに聡の態度が変わった。
元々、勝ち気な性格ではなかったけれど、より従順になり、わがままを聞いてくれるようになった。
お母さんに何を言われたのか知らないけど、聡は私の幼馴染に変わりない。きっと私を好きになるの。だって私は聡の好きな人と同じ血が流れているのだから。
瑞穂は聡にだけわがままを言うようになり、ありもしないことを教え込むようになった。
同じ年齢でも精神発達は女子の方が早く、耳年増でもあった瑞穂は聡を自室に招いた際に耳元で囁いた。
「チュウしよっか」
「は? なんで? チュウって好きな人とするもんじゃないの?」
「聡はそんなこと気にしなくていいんだよ。幼馴染同士ならチュウしてもいいんだよ。私の言う事が聞けないの?」
「分かった」
いつだって私は正しい。きっと聡もそう信じてくれているはずだ。
瑞穂の予想通りに突き出された聡の唇が迫ってくる。
瑞穂は微動だにせず、聡の唇を受け入れ、二人は初めての感触と感覚を味わった。
(これがチュウか。瑞穂の唇って柔らかいんだな。瑞稀さんの唇もやっぱり柔らかいのかな)
(これが聡の唇。絶対にとろけるようなキスで振り向かせてみせる)
正反対のことを考えながら二人の唇が離れ、お互いに上気した顔を突き合わせる。
瑞穂は聡とのキスを習慣化させ、寝起き、登校前、下校後、帰宅前の最低1日4回行うルールを設けた。
最初は照れながらだったが、今では何の恥ずかしさもなく行為に望めるようになっている。
中学生にもなるとロマンチックの欠片もなくなってしまったのは事実だ。しかし、義務感だけは生まれないように、一回一回を丁寧に大切に行うようにしている。
その気持ちは聡にも伝わっているのか高校3年生になっても雑なキスをされることはなかった。
短い回想を終えた二人は息を吐いて同時に頷く。
「うん。やっぱり付き合ってないな」
「うん。やっぱり付き合ってるわね」
自分たちだけで納得した二人に木村を含めたクラスメイトは肩すかしを食らったようにうなだれる。
昼休みが終わり、今日はあと2時間頑張れば放課後だ。授業だけは真面目に受ける聡は得意の板書技術でノートを埋めた。
放課後、部活動に向かう生徒たちが多い中、聡が鞄を背負っていると瑞穂がひょっこっと顔を出し、男子生徒であれば誰もが憧れるであろう笑顔を向けられた。
「一緒に帰ろう」
わざわざ誘わなくても毎日一緒に帰ってるだろ、と思いつつも黙って頷き、あとを追う。
クラスメイトから「お熱いねー」などと冷やかされるのにももう慣れた。
「はぁ。今日もさんざんこき使われちゃった」
「そんなに嫌なら引き受けなかったらいいのに」
「ダメ。私のイメージが崩れちゃう」
嫌々ながらに学級委員長を務めている瑞穂の愚痴を聞きながら、彼女の自宅に向かって歩く。
「せっかく聡との時間を作る為に部活にも入っていないのに」
「別にやりたいことがあるなら部活に入っても良かったけどな」
「ないからいい。ねぇ、部活している子たちも夏で引退だね」
「春で引退もありえるだろ」
「私たちには関係ないけどね。聡もそろそろ本腰を入れて勉強しないとね」
「そういえば、瑞穂は大学に進学するんだろ。どこ志望なのか教えてくれよ」
んーっ、ともったいぶって指先を顎に当てる瑞穂は悪戯っぽく振り向き、笑顔で答えた。
「東大だよ」
「……は?」
時が止まった気がした。
東大? マジで?
一気に血の気が引いて、足元がおぼつかない。
瑞穂は実に楽しそうだが、この顔は嘘をついている時の表情ではない。
偏差値を70近くまで上げないといけないことに絶望した聡はぎこちなく、愛想笑い返した。
「中学の時も頑張れたから、今年も頑張れるよね」
その屈託のない笑顔は期待に満ちあふれ、聡を信用しきっていた。
「お、おう。任せとけ」
聡は瑞穂の願いを叶える為、好きな人にとっての理想の男になる為、真剣に勉強に取り組む覚悟を決めた。
取り急ぎ、教職に就く両親に相談するところから始めよう。そう思いながら帰路に着いた。
「相変わらず、ファンシーな部屋だな」
瑞穂の部屋にお邪魔してベッドにもたれかかる。
目の前で着替えを始める彼女を極力見ないようにする聡は適当に少女漫画を手に取ってパラパラとめくり始めた。
「いつも言ってるけど、見てもいいんだよ」
「昔、さんざん見せてもらったからな。もうお腹いっぱい」
聡は視線を上げずに扉の方へ向かう。
「トイレ借りるな」
そのまま嘘をついて階段を降りた。
お客さん帰ったかな、と美容院を覗き、瑞穂の母である瑞稀を探す。
ちょうど床の掃き掃除をしているところだった。
「瑞稀さん、ちょっといい?」
「帰ってたのね。おかえり。次のお客様が来るまでならいいよ」
「今日さ、瑞穂の志望校を聞いたんだ。東大だってよ。やっぱ瑞穂はすごいよ。俺なんてどう足掻いても受かる気がしないって。でも、瑞穂が同じ大学を目指せって言うからやるよ。それに、あいつ高校生になっても隙が多いっていうか、危なっかしいんだよ。大学にも変な奴はいるだろうし、俺が一緒にキャンパスを歩いてあげるんだ。見ててよ、秋頃には俺の偏差値も学年順位もとんでもないことになってるからさ」
少年のように瞳を輝かせる聡は息継ぎも忘れて饒舌に語る。
瑞稀はそうか、そうか、と相づちを打ちながら微笑み続けた。
「瑞稀さん。俺、今年18になるんだぜ」
「そうね」
「結婚できる年になるんだ。待っててくれよ」
瑞稀は一瞬だけ目を伏せて、聡を見据える。
「……忘れてなかったのね」
「当たり前だろ」
それだけを言うと聡は階段を昇って瑞穂の待つ部屋へ戻って行った。
「はぁ。まったく。……いらっしゃいませ!」
店に残された瑞稀の挨拶はいつもよりトーンが低くなってしまった。
9月。聡の誕生日が来るまでに良い案を考えないと。瑞稀は内心焦りながらも目の前の仕事に集中する為に息をはき、笑顔を作った。
②ほかに好きな人がいても幼馴染とだけはキスしていいって聞いてるんだけど。俺、なにか間違ってる? 桜枕 @sakuramakura
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