第2話 とにかく打たれ弱い我が弟
初めて慶次郎の式神を見たのは、俺が六歳の時だった。
「何だこれ」
学校から帰ると、日当たりの良い縁側で、慶次郎が昼寝をしていた。
透けるように白い頬をふくふくさせてすやすやと眠っている弟のまわりに、小さな人形のようなものがぷかぷかと浮かんでいるのである。それは俺が触ろうとすると、嫌がるように逃げるのだが、こちらが黙っていると興味深げに寄ってくる。手のひらを出してじっとしていると、花にとまる蝶のように、そこに、とん、と降りてきた。
好奇心旺盛な俺ではあるが、かといってそれを握り潰したりはしない。
人形なんかではない、とわかったからだ。小学生の子どもなんてファンタジー世界の住人みたいなものだから、そう見えただけなのかもしれない。これが一般家庭ならそうだろう。けれども我が家は由緒ある神社で、ご先祖にはたぶん誰もが知る平安時代のスーパースター、安倍晴明殿がいて、俺達は、その彼の武勇伝を毎晩読み聞かせられて育った口だ。
式神だ。
そう思った。
誰が出した。
少なくとも俺じゃない。
手の中のそいつに尋ねてみようかと顔を近付けたところで、慶次郎の焦ったような声が聞こえた。
「歓太郎、それぼくの! 食べないで!」
その言葉で、そいつはしゃぼん玉が弾けるように消えた。てっきりびっくりして消えてしまったのかとその時は思ったが、おそらく、あの時の慶次郎にはまだ上手くコントロールが出来なかっただけなのだ。気持ちが高ぶって、消してしまったのだろう。
「食べないよ。式神でしょ? 慶次郎が出したの?」
慶次郎は、もじもじしながら、まるで悪事を白状するかのようなか細い声で、うん、とだけ答えた。
「いつから出来るようになったんだ?」
「わかんない。何か、出てくるようになっちゃった」
「勝手に?」
「おりがみで遊んでたら出てきたの」
彼が指差した方向にあるのは、二枚の折り紙で作る『やっこさん』である。それが式札の役割を果たしたのだろう。その時はまだウチの神社は俺が継ぐことになっていたから、こっそりある程度の勉強はしていた。何の力もないけど、勉強して知識をつければ神主にはなれる。父さんだってそうだから。
「歓太郎、ぼく、どうしたらいい? 式神が出せるってみんなに知られたら、せいめい様みたいに鬼とたたかったりしないとだめ?」
いやだよ、こわいよ、と言って、慶次郎はめそめそと泣いてしまった。その背中をよしよしと擦り、「父さんに相談しよう」と提案すると、小さい慶次郎は震えながらこくこくと頷いた。
「まぁ、慶ちゃんどうしたの? もう、歓ちゃんったら、弟をいじめちゃ駄目じゃない」
泣いている慶次郎を見て、巫女姿の母親はぷんぷんと怒ったが、父親の方は落ち着いたものである。
「
そう言って腰を落とし、俺達二人を平等に撫でる。周りからヘタレヘタレと言われまくっている父だが、とにかく底抜けに優しいのだ。
「ここでは話しにくい?
父の優しい声に、再び込み上げてきたらしい涙を拭って、慶次郎は俺の服を掴んだ。
「よし、わかった。喜衣ちゃん、少しだけ抜けるね。ここ、お願いします」
「はいはーい。歓ちゃん、疑っちゃってごめんね? コウ君、戸棚にお菓子あるから出してあげて。歓ちゃん、慶ちゃんと仲良く食べるのよ」
良くも悪くもウチの母の切り替えは早い。ひらひらと手を振る明るい笑顔を見ると、こちらもこちらで弟を泣かせた兄と疑われたことなんて一気に吹っ飛んでしまう。
社務所の二階で母から言われた通りにお菓子を出し、それから二人分の牛乳を用意して、「話せそうになったらで良いよ」と父は言った。急ぎの仕事もないし、まずはお菓子を食べようか、なんてのんびり笑って。
そこから慶次郎が式神のことを話すまでには結構かかった。その時はまだ時計の読み方なんてわからなかったけど、お菓子の皿をあけ、牛乳をそれぞれ二杯おかわりをしたところでやっと話したのだ。そのせいで夕飯が食べられなくなり、母親に呆れられたことを覚えている。
その後は、もう大変だった。
我が子が式神を出せると知った父は腰を抜かし、その音で母が駆けつけ、「コウ君が死んじゃうぅぅぅ!」と大騒ぎし、それにつられて慶次郎も大泣きをし――。
なぜ小学一年生の俺が救急車を呼ばねばならんのだ、と子ども心ながらに思い、それと共に、
この家は俺がしっかりしなくちゃ駄目だ、と悟ったのである。
そこからは、また別の意味で大変だった。何せただの式神ではない。どうやら式神を出せる程度ならば、過去にも数人いたし、何なら遠縁の年寄りの中にも一人いるらしいのだが、それは出した本人にしか見えないものだったし、となれば完全に自己申告であるため、何をもってそれを証明するのかという話になるわけだが、爺のやつは本人がボケてる可能性もある。
けれども、慶次郎の式神は、誰にでも見えた。触ることも出来た。もちろん、式神の方では嫌がって逃げ回ったりもしたが、使役者である慶次郎の「少しだけお願い」の言葉に従うところを見るに、操ることも出来るらしい。
晴明殿の式神と同じだ。
こうなれば、何が何でも慶次郎を跡継ぎにせねばならぬ、というムードになる。
年寄り連中が遠方遥々、どれ晴明殿の再来とはどっちだ、と手土産もなしにやって来るようになった。大勢の大人達に囲まれて、式神を出せ、枯れた花を咲かせてみよと迫られる慶次郎はそのうち目玉が腐って落ちるんじゃないかと心配になるほど泣きっぱなしだった。年寄り共は父と母がいる時は大人しくしている癖に、仕事で抜けられなくなると途端に本性をさらけ出してくるのである。
それで、泣きすぎて発熱し、本日の謁見は終了でござい、となるのだが、まぶたをぽんぽんに腫らし、真っ赤な顔で横になる慶次郎を見るのは本当に辛かったものだ。
「歓太郎、ぼくもういやだ。陰陽師なんていやだよ」
寝ているかと思ったら、まぶたが腫れすぎて閉じているように見えただけで、慶次郎は起きていた。ふよふよと手を漂わせ、微かに触れた俺の服の袖を、見つけたとばかりに、ぎゅう、と掴む。
「鬼はいないってじいさん達言ってたじゃん」
「言ってたけど。でも、わるい霊はいるって言ってた」
「まぁ、いるかもなぁ」
「ぼくこわいよ」
「大丈夫だって。俺がいるじゃん」
その言葉に、大した意味はなかった。
その時の俺は、まだ子どもで、当たり前のようにこの家にいるものだと思っていたからだ。いまは小学生だけど、その次は中学に行って、それから高校にも行くだろう、それくらいは想像が出来たけど、そこから先はわからなかった。父さんも母さんも家で働いているし、慶次郎だってずっとここにいるだろう。だからきっと自分もここにいるのだと、その時は考えていたのだ。
「ほんと?」
腫れたまぶたを懸命に持ち上げて、慶次郎は必死に俺を見た。
大事な約束や確認は、目を見てするものだと常日頃、父と母から言われているからだろう。
「ほんとだって。俺がついてるんだから、大丈夫だ」
「わるい霊がいても?」
「いても。二人で力を合わせれば何とかなるって」
「そうだよね。歓太郎がいてくれるなら、何とかなる気がしてきた」
「だろ? 俺がいれば百人力だからな」
それから慶次郎は、まぁ、泣くは泣くけれども、その回数はだいぶ減り、嫌がりながらも多少は年寄り連中のかわし方も覚えた(俺にいわせりゃまだまだだけど)。
そうして数年が経ち――、
「やっぱり僕には無理だったんだよ歓太郎」
と、話は冒頭に戻る、というわけである。
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