第32話 人の世
雉女が三郎太の屋敷を出たのは、申し出からふた月ほど後、春の日差しに梅の花が輝く穏やかな日だった。三郎太も久助に荷物を積んだ馬をひかせて同行した。
五十辺の外れ、逢隈川に近い荒地の中にぽつねんと建った家は、三郎太が急いで造らせたものだ。彼の屋敷にある離れに、台所と作業用の土間が付いたような建物だった。三郎太の気配りで、暮らしに必要な品々も揃っていた。
「これが俺たちの住まいかぁ」
勝之介が新しい家に上り込んで歓声をあげる。
「まだ道さえないが、雉女の元に人が通えばそれも出来るだろう。勝之介がそれを造ってもいい」
縁側に立った三郎太が、目の前に広がる荒地を見渡した。
「俺は百姓をしに来たわけではないぞ」
勝之介が口を尖らせる。
「わかっておる。だから、お前がどれだけ畑を作り銭を稼ごうと、ワシは年貢を取らない。ただ家族のことだけを思って自由にいたせ。武士になろうなどと考えず、雉女とここで暮らすのだ。それが幸せというものだ」
「何が幸せかなど、俺が自分で決める」
勝之介が言い返すと、三郎太は声を上げて笑った。
「やはり勝之介は子供だ。雉女も苦労するな」
「いいえ、そんなことは……」
雉女は勝之介を見やってクスリと笑った。
――ケ、ケケン――
茅の茂みから顔をのぞかせて雉も笑った。鳴き方が下手なのは、若い証拠だ。勝之介が弓矢を取って部屋から飛び出し、素早く射る。矢は雉の胸を貫いた。
「見事!」三郎太がほめた。
「小屋を造ってもらった礼です」
勝之介は仕留めた雉を三郎太に差し出した。
「そうか……」三郎太が庭に下りる。「……これは水天神に捧げよう」
彼は葦の原を東に向かって歩いた。雉女と勝之介も続いた。ほどなく葦の原をぬけ、雪解け水を
土手の一角に勝蔵の上に乗せられたものと同じような巨石がある。昨年、平祐の首を埋めて祀った場所だった。
荒地に弁才天が住んだという噂はたちまち広がった。そんな女を抱けるなら、と武士や神職たちが訪ねてくる。三郎太も毎月2度ほど馬でやって来た。その時は約束通りに祈祷料として酒や穀物、油、反物などを持参し、半日ほど雉女を抱くと酒を飲んで帰った。
雉女は日に1人か2人の客を取り、客のないときは荒地に鍬を入れて畑を作った。月に2度は勝蔵と平祐の眠る土手を訪ねて鎮魂の舞を奉げた。
勝之介は龍蔵の面倒を見ながら受付係のような仕事をしていたが、ひと月もたつと飽きたと言って放り出した。五十辺の集落からサトという10歳の娘を連れてきて、子守や家事を任せて自分は狩りに出た。
長い梅雨が明けようという頃だった。雉女は体調が悪く床に
「勝之介、いるか?」
三郎太だった。彼は土間で笠と蓑を取って軒下に下げた。
龍蔵を連れたサトが、「下林の佐藤さま、おいでなさいまし」と膝をつく。同姓の者が多いので、地元の者は苗字の前に地名を付けて呼んだ。
「オイデナサイ」
言葉を覚え始めた龍蔵が、サトが言うのを真似た。
「なんだ。勝之介は、また遊びに行っているのか……」
三郎太が龍蔵の頭をなでて上がろうとすると、「お待ちください」とサトが止めた。
「どうした?」
「雉女さまは床で休んでいます」
「なんだと……」足を止めた三郎太が顔を歪める。
隣の部屋で2人のやり取りを聞いていた雉女は、吐き気に耐えながら体を起こした。板戸の向こう側に声をかける。
「サト、三郎太さまなら、上がっていただきなさい」
「あ、はい。どうぞ」
サトが応じるより早く三郎太は動き出していて、雉女の部屋に入った。
「大丈夫か?」
「はい、たいしたことはありません。いらっしゃいませ」
雉女は床を出て両手をつく。
「床に入っておれ。顔色が良くないが……」
三郎太が寝ている沢子に眼をやり、「流行病ではないのか?」と訊いた。
「はい。誰かにうつるようなものではありません」
無理やり笑って見せた。
「風邪か?」
「いいえ」
「
「いいえ」
「分からんのか? ならば、医者を……」
三郎太が立ちあがろうとするのを雉女は止めた。
「ただのつわりです」
「ん?」
「子供ができたのです」
腹をさすって見せる。
「あ、ああ……、そうか」
困惑する三郎太が可愛らしく、からかって見たくなった。
「三郎太さまの御子かもしれませんが、
彼に無用な心配をかけたくなくて、他の男の名前を出した。
「なんだ、五郎も来ているのか?」
「あ、はい……」悪戯が過ぎたかと、少し悔やんだ。「……一族の方々には色々と世話になっております。どなたの種かはわかりませんが、父親は勝之介です。ご心配なさりませんよう……」
「信夫庄の武士なら、みな身内のようなものだ。ならば、その子は武士の子だ。産まれたらワシに引き取らせてくれ」
何を考えたのか、三郎太が突拍子もないことを申し出た。
「ご冗談を……。私の子供はお渡しできません」
「いや、雉女ごと、ワシのものにしたいのだ」
三郎太に腕を取られる。熱く力強い腕だった。その想いは、雉女の手に余った。
「ありがとうございます。……ですが、申しました通り、この子の父親は勝之介。私は勝之介の妻です」
三郎太の手をそっと押し返した。
「あんな遊びほうけている若造のどこがいいのだ?」
「勝之介は、彼なりに明日の糧を求めて獣を追っているのです」
「ふむ……」
納得できないというように三郎太が鼻を鳴らした。
「水かさは、いかがですか? 今年も長雨のようですが……」
雉女は話しを変えた。
「あぁ、逢隈川も黒川も無事なようだ。
「そうですか……。人柱が役に立ったということですね」
「すまないな」
三郎太が顔を曇らせた。
「いえ、そういう訳では……。人の命が自然を抑える力になるなど、不思議なことです」
再び三郎太に手を握られる。今度は、そっと握り返した。
「そう思うのか?」
「平氏と源氏の戦いで多くの武士の命が夜露のように消えました。そうして治まった鎌倉さまの世なのに、庶民は飢えや病に苦しんでいる。多くの武士の命を奉げても治まらない人の世とは、何なのでしょう?」
「それは逆だ。人の世が治まらないから、あまたの武士が命をかけて戦ったのだ」
三郎太が得意気に言った。
「戦場で人の命を奪ったのは、神でしょうか?」
「いや、人だな……」
彼はそう応えて押し黙った。
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