第33話 覚悟
梅雨が明けて乾いた陽射しが降り注ぐ。蝉しぐれは京や鎌倉ほど賑やかではなかったが、安達清常の屋敷に幽閉され、生まれたばかりの我が子を奪われたことを思い出させた。
昼ごろ、雉女が沢子に乳をやっているとカッカッカッと2頭の馬の蹄の音がした。
「客か?」
土間で矢を作っていた勝之介が表に出た。馬上にあるのは三郎太の家臣と蔵之介だった。
「よう、勝之介。元気そうだな」
馬上で蔵之介が言った。
「兄者、戻ったのか。親父殿は達者か?」
「おうよ」
蔵之介が馬から降り、手綱を三郎太の家臣に渡した。
「よい家に住んでいるな」
家に上がった蔵之介がぐるりと室内を見回し、雉女の前に座った。
「お帰りなさいませ。御無事で何よりです」
「相変わらず美しいな……」彼は嘆息し、「……抱かせてくれるか?」と訊いた。
「お望みならば……。それで、わざわざいらしたのですか?」
雉女の返事に勝之介が顔を曇らせた。
「いや。雉女は勝之介の妻だそうだな……。佐藤殿に聞いたぞ」
蔵之介は、弟の妻になった雉女を求めた悪戯を謝り、急いで石那坂まで顔を出せと告げた。今度はすぐに旅立つという。
「なぜだ?」
勝之介が首を傾げた。雉女もわからない。
「昨年秋……」蔵之介は外を窺い声を潜める。「……藤原秀衡殿が亡くなった。それで平泉がもめている」
「そんな話は三郎太さまから聞いておりませんが……」
「政治向きのことを雉女に話すことはないだろう。第一、佐藤三郎太殿は佐藤基治殿の縁者とはいえ家臣。藤原本家の出来事で、何かが変わるということでもない」
「そうでしょうか?」
「いずれにしても、問題は平泉がもめているということだ」
「どういうことだ? 分かるように説明してくれ」
勝之介が膝を詰めた。
「一族がもめれば、鎌倉殿に付け込まれる」
「その程度で?」
「秀衡殿が九郎殿をかくまっていたこと、すでに鎌倉に届いたはずだ」
「長者が通報したのか?」
「こら。軽々しい口を叩くな」
蔵之介は横目で雉女の様子を窺った。
「私のことなら心配には及びません」
力蔵が北へ向かった時から、こうした日が来る予感もあった。
「ならばよいが……。ここ一年の内に、鎌倉と奥州平泉は激突することになるだろう。いずれ白河関の行き来も難しくなる。親父殿は、それまでに皆を奥州から連れ出すつもりだ」
そういうことか……。納得すると雉女の行動は早かった。
「分かりました。とにもかくにも、これから石那坂に参ります。蔵之介さまは龍蔵を馬に乗せていただけますか? 喜ぶと思います」
雉女は勝蔵の横笛や白拍子の衣装など、もともと自分の持ち物だけをまとめ、サトに留守を頼んで家を出た。
勝之介は湯治にでも行くように陽気だったが、雉女はあれこれと考えるのが忙しくて黙っていた。
峰越山の麓に差し掛かると強烈な匂いがする。羽山の麓に葬られた死者が朽ちる匂いだ。
「クサイ!」
龍蔵が声を上げると、烏が舞い上がって空を黒く染めた。
「これ、龍蔵。ご先祖様の罰が当たりますよ」
雉女は叱った。馬上の龍蔵は、どうして叱られたのか理解できないないらしく「クサイ!」と繰り返した。
「子供のことだ、勘弁してやれ」
空を舞う烏を見上げて、蔵之介が言った。
年端もいかない子供にご先祖様などといっても分かるはずもないか。ならば、父親に叱られると教えればよかったのだろうか……。羽山から昇ったであろう勝蔵を思う。
「雉女、どうした? 子どものことなどに深刻な顔などして……」
勝之介はのん気な顔をしていた。
「龍蔵のことではありません。これから私がどう生きるか……。それを考えているのです」
「どうもこうも、決まっているだろう。何も変わらんさ」
「決まってなどおりません。白拍子として育ち、三年ほど傀儡女として生きてきました。京から吉野、鎌倉、越後、陸奥と長い旅でした。これから、何も変わらないと言えるでしょうか?」
「まぁ、それはそうなのだろうが……」
「勝之介さまは、今のままでよいのですか? 自分でやりたいことはないのですか?」
訊くと、彼は黙った。
初夏の陽は長く、雉女たちが石那坂に着いた時も遠くに見える峰越山には陽が射していた。が、石那坂は吾妻連峰の裾に近く陽が陰るのが早い。傀儡子たちは夕食の準備を始めていて、肉の焼ける匂いが漂っていた。
「雉女、元気そうねぇ」
傀儡女たちが雉女を取り囲み、「生まれたのね」「可愛い」「名前は?」と沢子を抱いて喜んだ。調理中の者たちも順繰り入れ替わって雉女と子供たちを抱きしめた。
フジの腹が膨らんでいた。
「フジさんもおめでたね。私も今ここに……」
雉女が自分の腹を指すと「忙しいのねぇ」と歓声がわいた。
「伊之介と、一緒になることにしたんだ」フジがいう。
「伊之介さんと……。意外だわ」
「そうよね。あいつは早乙女が好きだったんだ。でも、早乙女は蔵之介の女房になった」
「あら、そうだったの……。でも、おめでたいわ」
別々に暮らしたわずか一年の間に、仲間にも多くの変化があった。
「おー、雉女ではないか。相変わらず美しいのう」
興行を終えた男たちが徐々に集まる。彼らは、一年前と変わらない雉女の美貌に声をあげ、あるいはため息を漏らした。皆が喜びはしゃぐ中で、力蔵だけはいつものように無表情だった。
勝之介が真直ぐ父親の前に足を運んだ。
「親父殿、無事でよかった。心配していました」
「お前こそ、無事に務めを果たしたようだな」
力蔵が満足気に応じた。
「兄者から大方の話は聞きましたが……。戦の前に白河関を越えるというのは、奥州藤原が負けると読んでのことですか?」
力蔵の眉が僅かに寄った。
「奥州は人情が熱く、立ち寄る先々であれやこれやと世話になった。見捨てるのは心苦しいが、鎌倉との戦力の差は歴然……。どうしようもない」
「強い方に着くというんだな。しかし、それでは貴族や世の庶民と同じではないか?」
「勝之介……、お前の言う通りだ。しかし、ワシには皆を守る責任がある」
力蔵の視線が、雉女を中心とする女たちの輪に投げられた。
「生き残るために土地にこだわらず、より安全な場所に移動する。それが我々傀儡子の生き方だ。この地で受けた恩は、また別の地で返そう。ここでは三日興行し、五日後には発つ。それまで荷物をまとめておけ」
「しかし、俺と雉女は三郎太殿にも
勝之介が雉女に眼をやると、その襟を蔵之介が握った。
「やはり、土地の気に毒されたか……。勝之介ならそのようなことはなかろうと、親父殿はお前を残していったというのに……」
「俺が、恩知らずだと思っていたのか?」
勝之介が蔵之介をにらみつけた。
「違うのか?」
勝之介はグッと喉を鳴らして黙った。
「さあ、さあ、一年ぶりの全員集合だ。久しぶりの御馳走だよ」
梅香の声で、力蔵たちの話は中断した。
焚火を囲み、酒宴が始まる。そこここで思い出話が語られ、今様が謡われた。白女は沢子を抱いて、楽しそうにしている。
「雉女、踊れ」
熊蔵が声を上げた。
命じられるまでもなかった。仲間との再会が嬉しく、舞わずにいられない。太刀を借りて舞った。白女、梅香、フジ、早乙女、爽太、伊之介……、踊りながら仲間に視線を巡らせた。どれも笑顔なのだが、胸にしっくりこない。
昇った月に勝蔵の眼差しを感じて舞う手を止めた。自分には、彼が必要なのだと悟った。
「話があります」
「なんだ、なんだ……」酔った男たちが声を上げる。
「静かにおしよ」
白女が制すると場は静まったが、雉女を見る顔はどれも笑っていた。何か、良い知らせがあるものと期待しているのだ。
雉女は、並ぶ顔をぐるりと見回してから口を開いた。
「私は……、ここに残ります。信夫庄に……」
その宣言に皆が絶句した。「本気か?」と訊く熊蔵の顔は怒っていた。
「はい。皆さんには、とてもお世話になりました。ここに残るのは裏切るようで辛い。それでも私は勝蔵さまとここに居たいのです。ここで子供たちを育てたいのです」
「九郎殿の所に行くつもりか?」
蔵之助が猜疑の眼を向けてくる。それに対して、「いいえ」と返した。
「あの家をもらって、旅が嫌になっただけじゃないのか?」
「それは関係ありません。私は、ただ勝蔵さんが忘れられないのです。忘れようとしても、どんなに多くの男に抱かれても……。だから、ここに残りたい」
その時、雉女の頭の中に勝之介はいなかった。
「旅をしていても、勝蔵の魂と共にいることは可能だろう」
熊蔵が指摘した。
「匂いが……」
「匂い?」
「信夫庄の土の匂いが勝蔵さんの匂い、逢隈川のせせらぎがあの人の声なのです」
雉女は愛しい男を抱くように自分の身体に腕を回した。その頰を、ツーと涙の粒がこぼれ落ちた。
顔を強張らせた勝之介が立ち上がる。一年間も一緒にいながら、勝蔵のことを言った自分を、彼は怒っているのだろうと雉女は思った。
「……お、俺も残る!」
彼の発言は意外だった。熊蔵も驚いたのだろう。眼を大きく見開いていた。
「どういうことだ?」
「雉女は俺の女房だ。俺が守る」
「本気なのだな?」
力蔵の野太い声が覚悟を訊いた。息子の決意を測るように、瞳をじっと見つめている。
「はい。今までそうして来た。これからも……。雉女と一緒にいることが、俺の幸せだ」
勝之介の表情は真剣だった。握った拳が震えている。雉女には彼が震えているのか、自分の胸が震えているのか、よくわからなかった。
「いいだろう。雉女と勝之介とはここで分かれる」
力蔵が気持ちよく承認した。
「あんたぁ」
白女の狼狽えた瞳が力蔵と勝之介の間を行き来する。彼女は息子と別れたくないのに違いなかった。突然、沢子が泣いた。
「そうしたら、これが別れの盃かぁ」
熊蔵の間延びした声で、その場にざわめきが戻った。方々で二人との別れを惜しむ声と、納得できないと悲しむ声がわいては消えた。
翌日から三日間、傀儡子たちは何事もなかった体を装って人形芝居や神楽を演じた。その間、雉女も共にした。力蔵の一党が旅だった後、雉女と勝之介は三郎太の屋敷を訪ねて五十辺の家に残ると告げた。三郎太は「そうか、そうか」と、目じりを下げて子供のように喜んだ。
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