第31話 志
三郎太の屋敷は石那坂の下林という土地にあった。雉女に与えられた離れは客用に造られたもので、十畳ほどの板の間と六畳ほどの控えの間があった。部屋は池のある庭に面していて、季節の変化を楽しむことが出来た。西行もそこに滞在したという。
雉女は龍蔵を育て、好きな伊勢物語を読み、週に1度は勝蔵の眠る場所を訪ねて時を過ごした。巨石にぼんやり寄り添っていると、逢隈川のせせらぎが勝蔵の声で、水面を流れる風の匂いが勝蔵のそれと感じるようになった。――あかずして 別れし人のすむ里は沢湖の見ゆる 山の彼方か――無意識のうちに和歌が口をつき、勝蔵に守られているような安堵を覚えた。
時折、三郎太に呼ばれて酒と話の相手をしたが、彼が身体を求めてくることはなかった。いつしか三郎太の屋敷に弁才天が住んでいるという噂が広がり、武士や町人、百姓が覗きに来るようになった。彼女は日に二度三度、塀の外にも届くように笛を吹き、今様を詠って彼らの期待に応えた。
10月の秋も深まった頃、雉女は元気な女の子を産んだ。取り上げたのは佐藤一族が使っているお
「かわいい女の子だねぇ。父さまも端整な顔立ちなのだろうねぇ」
お玉は産湯をつかいながら話した。雉女は久しぶりに義経の顔を思い出した。
「名前はどうするんだい? 父親に決めてもらわないとねぇ……。あっ、傀儡女には父親が分からないのか……」
その声には春を売る女に対する侮蔑があった。
「父親は傀儡子の勝蔵です」
脳裏の義経を追い払い、キッパリ応える。
「さすが弁才天さまだぁ。あまたの男と寝ても、誰が父親かわかるものなんだねぇ。早く名前を決めてもらわないとねぇ」
お玉は生まれたばかりの赤子に言った。その皮肉が雉女の反骨心に火をつけた。
「名前は
勝蔵なしで生きていく。そう覚悟した雉女の口調は、お玉が目を点にするほど強烈だった。
「父親に無断で決めるというのかい?」
彼女は、勝蔵がすでにこの世にいないと知らない。
「あの人が……、勝蔵さまが決めた名前です。産婆さま、傀儡女の産む子供は、みな傀儡子の……、一族の子供なのです。父親が誰かと迷ったり案じたりする必要はありません」
雉女の話を受け入れられないのか、それとも雉女の気がふれているとでも考えたのか、それからお玉は口を利かず、そそくさと仕事を済ませて帰った。
「俺が父親になろう」
隣の部屋で全てを聞いていた勝之介が申し出た。
「沢子の父親は勝蔵さまです」
雉女は、愛くるしい沢子を見つめて応じた。
「俺にまで産婆と同じことを言うな。兄者は、もう死んだのだぞ。親父殿もそのために俺を置いて行ったに違いない」
「長者は、勝之介さまの弓の腕とおおらかさを認め、落ち込んでいた私を託して行かれたのだと思います」
「それって、道化だってことか?」
「弓の腕も認めていますよ」
「あぁー、そうかい、そうかい。なら、好きにしてくれ」
勝之介は龍蔵を抱いてどこかに遊びに行った。
年が明けて1月。雪の中をひとりの武士が訪れた。義経の家臣、
雉女の前に立った重清は、彼女の顔を懐かしむように目を細めた。
「いらっしゃいませ。亀井さま」
雉女は、薄明りの中で正座していた。
「他人行儀は無用です。ここに剣を手に舞い謡う弁才天がいると聞き、もしやと思って来たのです。……やはり静殿だ。最後に会ったのは越後だったが……。昨年、入水したと噂を聞いて案じていたのだ」
「さて、静とはどなたのことでしょう。私は雉女という傀儡女でございます」
雉女は重清の親しさを拒絶し、囲炉裏に炭を足して火を強くした。
「2人きりなのだ。隠し事は無用」
「2人ではありません」
布団では沢子が寝ていて、庭では勝之介と龍蔵が遊んでいる。板戸は閉まっているが、遊ぶ声は室内でも良く聞こえた。
室内の話を、誰かが耳を澄まして盗み聞きしていないとも限らない、と重清は考えたようだ。声を潜めた。
「あの男は静殿のことを知らないのですか?」
「静は死んだのです」
静は普段通りの声で応じた。
「どうしても自分が傀儡女だというのなら、ワシに抱かれなされ」
彼が片膝立てて詰め寄った。
「喜んで」
雉女はスッと立って寝床を敷いた。帯を解くと、小袖が肩を滑り落ちる。雪のような白い肌が現れると、心なしか室内が明るくなった。その肌の眩しさに重清が目を細めた。戸惑いの色が浮かんだが、たわわな乳房と豊かな臀部から視線を逸らすことはなかった。
雉女が夜具に入ると闇が濃くなる。
「おいでなさいませ」
「本当によいのだな」
重清が寝床の端に移動する。が、横にはならなかった。正座し、手を膝に置いて身を固くしている。その手は、小刻みに震えてさえいた。
「さあ、いかがしました」
彼が動かないので、上半身を起こして誘った。
「お召し物を、私がとらなければなりませんか?」
重清の直垂の胸紐に手をかけようとすると、彼はそれを払って後ずさった。
「静殿は主が愛した女子。それをワシが抱けるものか」
「だからこそ、……出会った女は傀儡女だと知ってほしいのです」
雉女は身体を伸ばして亀井の手を握った。白い乳房が揺れた。
「さあ、おいでなさいませ」
紅梅のような唇から漏れる声に重清の理性が制御を失う。若い男が雉女の誘惑に勝てるはずがなかった。彼は取り込まれた。囲炉裏の赤い火の横で、男女が秘め事に燃えた。
翌朝、寝床を出た重清が板戸を開けると軒先から雪の固まりが落ちた。見渡す限り、この世は新雪に覆われていた。白銀一色の世界に、沢子に乳を含ませる雉女の目もくらんだ。
「なんとも清らかな雪景色です」
彼が庭を覆う白雪と、雉女の肌とを見比べた。
「はい……。ひと時でも荒れた世の中が清められて見えるのには救われます」
「荒れていますか?」
「誰もが権力と欲望の奴婢と化し、世界と他人を傷つけている。これを荒れていると言わず、荒れたものなどあるでしょうか?」
「ならば、ワシも心の荒れたひとりなのでしょうなぁ」
「大方の人間はそうなのです。恥じることではありません。ですが、多くの民の犠牲の上に武士の幸せがあることを自覚すべきです」
雉女は亡き勝蔵の姿を思い浮かべていた。
「雉女殿も犠牲になられたか?」
「いいえ、私などは……。こうして皆様のおかげで生きている。幸せでございます」
隣の部屋に通じる板戸が開き、龍蔵が顔を見せた。寝ぼけ眼の龍蔵はよちよち歩き、雉女の肩にすがった。
「よしよし、龍蔵。怖い夢でも見ましたか?」
まだ言葉を話せない龍蔵が目をぱちくりさせる。
「なるほど。こうして見ると、雉女殿は幸せそうだ」
「はい。亀井さまも幸せの道をお探しください」
「道なぁ……」
重清が霞んだ空を見上げる。ほどなく旅支度を済ませた彼は、新雪に足跡を残して平泉に帰った。
その日、雉女は勝之介と並んで三郎太を訪ね、屋敷を出ると申し出た。
「出る? 出てどうする?」
三郎太は賛成しない。
「お陰様で子供たちはすくすく育ち、私の身体も元の通りに戻りました。約束通りにここを出て、傀儡女の生活に戻ります」
「勝之介と旅に出るというのか? まだ雪の季節。凍えてしまうぞ」
「いいえ。すぐに義父、力蔵たちが戻ります。それまではこの信夫庄のどこかで、細々と過ごしてまいります」
三郎太が両手を組み、「うーん」と唸って目を閉じた。その様子は、力蔵とよく似ていた。
しばらくすると彼は「よかろう」と瞼を開けた。
「ところで折り入って頼みがある。佐原平祐を葬った土地を少しやろう。あやつを思うのは嫌だろうが、そこをあえて頼む。あやつを
三郎太の申し出に勝之介が不服そうに頰を膨らませる。これまで彼は、武士にしてくれと何度も三郎太に頼んだが認められなかった。そのことに対するわだかまりがあるのだ。
「あそこは五十辺集落からも遠い。人が来なくては雉女に客は付かないし、俺たちが芸を見せて暮らすのも難しい」
勝之介がぶっきらぼうに言った。
「佐藤さまは、私が春を売らなくて済むように、配慮されているのです」
雉女は、三郎太の心中を察しない勝之介に教えた。
「なるほど、それはわかる。……しかし、それでは尚更、ワシらの生活が成り立たない」
「祈祷料を出すと言っているではないか。……勝之介。お前も男なら、雉女の稼ぎなど当てにするな」
三郎太が叱るように言った。
「そういわれましてもなぁ」
勝之介が顔を曇らせてポリポリと頭を搔いた。
「佐藤さま。傀儡子の世界では男も女もないのです。それぞれの仕事に違いはありますが、平等に稼ぎ、稼ぎの多い者は少ない者の面倒を見る。それが当たり前のことなのです」
雉女が説明すると、「そういうものか」と三郎太が納得した。
「いずれにしても雉女の美貌だ。石那坂から離れていても通う武士はいるだろう。もしいないなら、ワシが毎日でも通ってやる」
「それなら安心です」
勝之介が破顔した。子供のような笑顔だ。
「現金な奴だ」
三郎太がつられて笑った。
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