4章 大地 ――魂の住むところ――
第24話 城下の湯
石那坂は信夫庄の奥座敷のような場所で、土地が高く洪水の被害は少なかった。集落を取り囲むように流れる小川はあふれていたが、土地をえぐった場所を流れる
温泉が湧く石那坂には大小いくつかの湯溜まりがあり、武士も百姓も一緒に浸かっていた。宿屋のようなものはないので、遠くから湯治に来た者は百姓の家や物置小屋の一部を借りて逗留している。
力蔵は温泉を管理している
「この辺りで西行法師にも追いつきそうなものだが……」
「あの
熊蔵の顔から笑みが消える。
「どうした、熊蔵。突然、関心をなくしたようだが?」
「その人は、死人を生き返らせたという西行が怖くなったのさ」
梅香が笑った。
「ワシは幽霊と化け物が嫌いなのだ」
「それは知らなかった。まぁ、これまでの足取りを見ると、もっと山奥の湯を探して逗留しているかもしれないが……」
小屋の設営後、力蔵は熊蔵と勝蔵、爽太など、数人の男を集めた。他の傀儡子は水干を脱ぎ、小袖ひとつになって温泉に繰り出した。雉女も桔梗やフジと風呂に足を運んだ。
日暮れの湯には老若男女の頭が並んでいた。
「私どもも入ってよろしいでしょうか?」
雉女は、湯から上がって赤い顔をしている老人に尋ねた。
「湯は誰のもんでもない。天からの授かりもんや。自由に入りぃ」
それは懐かしい関西訛りだった。老人は禿げ頭に乗せていた
温泉は全て露天で脱衣所などもない。脱いだ衣類は周囲に立木に引掛ける。湯は熱めだが、慣れると全身から疲れが溶けて流れた。
「うーん……」
気持が良くて他に言葉がない。ただ、龍蔵には熱すぎるらしく、激しく泣いた。雉女は龍蔵を湯につけないように縁に寝かせ、時折、湯をすくって掛けた。
あまりの気持ちよさに言葉を失っていた傀儡女たちも、やがて口が軽くなって世間話に花を咲かせた。地元の者たちとも言葉を交わし、興行の宣伝もした。
その夜、雉女は勝蔵に抱かれた。黒川神社で抱かれて以来、2度目の事だ。
「嬉しい……」雉女は心底そう思った。
「どうしてだ?」
「あれから抱いていただけなかったので、嫌われたかと思っていました」
「雉女は、つまらないことを気にするのだな」
「私にとっては、大切なことです」
「そうか……。それほど俺を好いていてくれるということだな」
「いえ、勝蔵さまが、どれほど私を好いているのか……。そちらが大事です」
「抱いた数で愛の深さが分かるというのか……。ならば、越後の山小屋でお前が壊れるほど……」
「止めてください」
雉女は勝蔵の口を両手でふさいだ。自分が間違っているとは思わない。愛し合っているならば、肌を合わせる数も多いはず。……ただ、あの猟師たちは違う。彼らは飢えた獣だからだ。どうして勝蔵は、彼らのことなど持ち出すのだろう?
彼の瞳がじっと雉女を見つめている。
「勝蔵さまは意地悪です」
雉女の手のひらの中で、勝蔵の唇がモゴモゴ動いた。謝っているのかもしれないが、手はどけなかった。
「あのころから、私は勝蔵さまを慕っておりました。……でも、よくわかりませんでした。勝蔵さまの気持も、傀儡女になった私が、どう人を愛したらよいのかも……。それまでは、慕いあっての交わりと信じておりましたから……。あれから何人の殿方と交わったのか、数えることも出来ません。でも、慕っているのは勝蔵さまだけです」
その時、自分の中に噓があるのに気づいた。白女に問われ、夫を勝蔵にするか、伊之介にするかで迷ったではないか……。燃えていた身体が一気に冷えた。
雉女は勝蔵の口から手をどけて唇を重ねた。勝蔵をまとう匂いで、自分の噓を包み隠した。
勝蔵の瞳はとても優しい。そう思った。いつまでもそうしていたいと思ったが、目眩を覚えて身体を離し、背を向けて丸くなった。
「寂しい思いをさせて悪かった」
勝蔵の太い指が、雉女の洗いざらしの髪を
「俺はいつもお前の中にいる。雉女が他の男といる時もだ」
声と同時に、勝蔵が潤った体内に滑り込んでくる。「ウ、ゥ……」身体のどこからともなく熱いものが湧き上がり、自然に
「苦しいか?」
勝蔵に見つめられていた。
「はい……。いえ、嬉しいのです」
「俺は苦しい」
「え?」
「雉女の中には九郎殿がいる。……越後の小屋でのことだ。あんな思いをしたのは初めてだった」
雉女は驚いた。勝蔵が義経に嫉妬していたことに。
「あれは……」それほど嫌なら、止めてほしかった……。そう言おうとして胸が詰まった。
「いや、良いのだ。雉女から九郎殿を除いては、雉女でなくなってしまうだろう」
「どういうことです?」
「何と言ったらよいか……」
しばらく勝蔵は黙り、やがて話を継いだ。
「雉女は九郎殿によって女になったのだ。彼の印が身にも心にも刻まれている。それらを除いたら、別な女になるだろう」
「そんなことは……。勝蔵さまの好みの女にしてください」
「いや、俺は雉女を妻にする。そして、母にする」
勝蔵の大きな手のひらが、わずかに膨らんだ下腹部にあてられた。
翌日、力蔵が選んだ思慮深い男が数人、狩りの出で立ちで石那坂を離れた。信夫庄の地勢を調べるためだ。勝蔵もその中のひとりだった。熊蔵は力太郎を連れて、湯で親しくなった地侍、
力蔵は残った傀儡子たちを率いて温泉の周囲に旗を立てて興行を開いた。雉女は笛を吹き、時に舞った。昨夜、勝蔵と交わったので客を取る気はなかった。しばらく勝蔵の余韻を味わうつもりだ。
笛や太鼓の音に魅かれて子供たちが集まってくる。しばらくすると、武士や仕事を終えた百姓も集まった。
夕方、力蔵が地面を突く長い杖を持ち、早乙女が
「……水の舞やな」
老人はニコニコ笑って2人の舞に興じている。
「はい。信夫庄は大層な水害ですので……。水の舞をご存じなのですか?」
「当然や。伊勢の国に
水の舞が傀儡子たち独自の舞ではないと知り、少しだけ驚いた。伊勢から来たのなら、彼が西行法師かもしれない。そう推測して様子を窺うことにした。
「そうなのですか……。伊勢とは、また遠くから」
関心して見せると、老人の目が笑う。それでなくても皺の多い顔が、皺だらけになった。
「
「えっ、わかるのですか?」
「姿は変えられても、染みついた言葉やしぐさは容易には変えられないものや」
「そうでございますね」
雉女の脳裏を、静として生きてきた時代が光のように過った。
「しばらく前に、静御前は他界したと聞いたが……」
「……私は、……雉女と申します」
「そうかぁ。で、京の雉女が、何ゆえ傀儡女になられたのや?」
「欲に目がくらんだ罰でございます」
義経に惚れ、頼朝に傀儡女にされたことをそう表した。
「罰を受けているようには見えないが……」
「今は、幸せです」
勝蔵を思うと、笑みが浮かぶ。
「そうか、そうであろう。そのような顔をしている」
音曲が止み、力蔵と早乙女が頭を下げた。ぱらぱらと拍手が起きる。
「どなたか存じませんが、徳の高い方とお見受けいたします。ちょうど舞も終わりました。良かったら、私どもの長者に会っていただけませんか?」
雉女が頼むと彼は、「自分はただの旅の坊主だ」と拒んで風のように去った。
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