第25話 厚樫山

 勝蔵が歩くのは盆地の北側を閉ざす山裾を走る道で、その先は奥州街道につながっていた。所々であふれた沢の水が道を分断していたが、身軽な勝蔵の足を妨げることはなかった。


 道の右側の低地には畑が散在しているが、土砂が流れ込んでいて原形をとどめていない。それを元に戻そうと、年寄りや子供までが必死の形相で働いていた。摺上川は畑のさらに向こうにあって、流れは見えなかった。左手の山からは郭公やうぐいす、雉といった鳥の声がした。


 勝蔵は目の前を横切る兎を素早く仕留め、血抜きをして腰に下げた。それは食料を捜す傀儡子を装うためで、以降は何も殺さなかった。獲物を探す風を装って足を運び、年寄りや女を見つけては、山や川、集落の名称を尋ねた。


 やがて道は奥州街道にぶつかる。勝蔵は左に折れて国見峠を目指した。道は上り坂で、徐々に傾斜がきつくなった。坂道の右側、なだらかな傾斜の下に見える大河が逢隈川で、北の峡谷で行き場を失った水が田畑や草原をのみ込み、雑木林にまで氾濫していた。低地を犯した流れが大きなうずを作っている。それは、獲物を仕留めようと身をくねらせる大蛇のようだった。


 半日ほど歩いたところで恐るべきものを眼にした。何十、何百という男たちが鋤や鍬をふるい、長大な堀を穿うがつ光景だ。洪水で壊れた堤を修繕しているのではない。奥州街道が山と大河に挟まれた場所に、戦争用の防塁ぼうるいを造っているのだ。


 鎌倉が攻めてくると知っているのだ。……そう理解した勝蔵は、少し後戻りして畑で働く老婆に声をかけた。


「すこしものを尋ねたい。国見峠は、あの堀の先で間違いないのだろうか?」


 勝蔵は北を指した。


「へぇ、そうだぁ」


 老婆が見慣れない勝蔵を怪しみながらも素直に応じた。


「あの堀が伸びている先の山は何という山だ?」


 防塁の延長線上にある、ひと際高い山を指した。


「へぇ、厚樫山あつかしやまだ」


「そこに登る道を教えてくれないか? これは礼だ」


 腰にぶら下げていた兎を差し出すと老婆は、南と東の道は武士が守っていて登れないが、西側の石母田いしもだの集落を通り抜ければ北西側から登ることができるだろう、と教えてくれた。


 勝蔵は礼を言って厚樫山を目指した。


 獣道を伝って山奥へ分け入る。しばらく西へ進んで小さな丘を回り込むと、右手に厚樫山らしき山頂が見えた。すでに太陽は大きく西に傾き、深い森には獣の気配があった。が、勝蔵は躊躇することなく山頂に登り、松の大木を見つけて、それも登った。


「ヨシッ」


 声は、眼下に防塁の工事現場が見渡せたからだ。夕陽の下、大勢の男たちが奥州街道を横切るように南北に溝を掘り、掘り出した土を東側に積み上げて土塁としていた。


 空堀は幅15メートルほど、――当時の単位では五丈で、後の国史〝吾妻鏡〟には口五丈堀くちごじょうのほりと記されている。勝蔵が見た堀は一重で長さも街道を挟んだ南北一キロ程度のものだったが、後に完成した防塁は長さ約4キロの二重掘りで、街道を大城戸おおきどで守る大規模なものだった。


 勝蔵は懐から油紙に包んだ帳面を取り出し、見たままを描き写す。描き終えたころ、空は紫色に変わっていた。


 ――ウォー……、山奥で狼の遠吠えがする。


「下りるのは危険か……」


 暗闇は獣や魑魅魍魎ちみもうりょうの世界だ。山を下りる前にそれらと出会う可能性があった。木の上で一夜を過ごすことに決め、帯を幹に結んでもたれた。


 木の枝の隙間から覗く星々の輝きが美しい。雉女はどうしているだろう?……木の上で夜を越すのが初めてなら、女のことを考えたのも初めてだった。星のせいだ。……雉女を思う理由をそう決めて目を閉じた。


 僅かに眠った。それを妨げたのは、空から落ちる雨粒だった。木から下りるか?……迷った時、藪をかき分ける音がした。木の下を猪の家族が駆け抜けていく。みんな生きているなぁ。……何とはなしにそう思い、獣の世界に下りることも止めた。


 ほどなく空が白む。雨が止んだわけではない。雲を通してでも光は届くのだ。その不思議さに感謝しながら木を下りた。


 カササササ……。獣の気配に弓矢をつがえる。勝負は一瞬だった。獣道を歩くたぬきを射止めた。


 かまどから煙が上がるころに石母田の集落に着き、一軒の百姓家を訪ねた。


「突然すまない。これで飯を分けてもらえないか?」


 百姓の家族は純朴な者たちで親切だった。狸をやると喜んで粥と焼いた川魚を出してくれた。粥を腹にかき込むと、冷え固まっていた内臓が働きだすのを感じた。


「不思議な身形みなりをしているが、にしゃ、どこから来た?」


 水干を見慣れないのだろう。毛深い主人が訊いた。


「山だ」


 教えると、人の良い主人は勝手に解釈する。


「へぇー、熊野山くまのさんか……。ならば天狗様だな」


 七世紀に役小角えんのおづぬが作り上げた修験道しゅげんどうは全国に広まっていた。一つの山に見える岑越山は羽山はやま羽黒山はぐろさん、熊野山という三つの山が連なったもので、熊野山が修験者の修行場のひとつだった。主人は、山中で修業する修験者を天狗と考えていたのかもしれない。


「そうだ。俺は天狗だ」


 勝蔵は笑って別れを告げた。


 空は相変わらず雲に覆われ、細い雨がしとしと降っていた。勝蔵は泥を跳ねあげながら天狗になったつもりで坂道を駆け下った。奥州街道に出ると南へ向かう。その道が水没している場所まで行ってみるつもりだ。


 左側に氾濫した逢隈川を見ながら坂を下り、石那坂に向かう分かれ道まで来たところで気が変わった。あの防塁のことを詳細に調べる必要があると思ったのだ。そのためには人手がいる。頭の隅では雉女の顔が見たいとも思っていた。


 狩りをしながら戻り、石那坂に着いたのは夕方だった。一晩戻らなかったことで、雉女はひどく心配していた。獣から身を守るために木の上で夜明かししたことを教えると彼女は泣いた。


「これを持っていてください。獣避けです」


 雉女が扇子から鈴を取って差し出した。


「そうしよう」


 勝蔵が受け取ると、雉女がやっと泣くのを止めた。そんな彼女の顔を見ただけで、昨夜の苦労などすっかり忘れた。


 夜遅くに力蔵の小屋を訪ねる。防塁の絵図を見た彼が「うーん」と唸った。


「工事は、まだ途中。出来上がりがどういう形になるのかわかりません。熊蔵に計画を聞き出させてはいかがでしょう。それに、あそこを通らずに北へ行ける間道を捜す必要もあるかと……」


「確かに勝蔵の言う通りだ。熊蔵にはワシから話そう。勝蔵は明日、爽太と蔵之介を連れて防塁の周囲を探れ」


 力蔵の命を受けた勝蔵は雉女の待つ小屋に戻り、彼女を抱いてぐっすり眠った。

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