第19話 生と死

 雉女たちは、猪苗代湖いなわしろこの北岸を回って奥州街道を目指していた。奥羽おうう山脈を越えたのは3月初めで、雪国でも春は目の前だった。雪の下では草木が芽吹き、小川がせせらぎの音を奏で始めている。


 4人は道端の道祖神の隣に掛けて休息していた。


「春ですねぇ」


 おぼろ雲を見上げる雉女の顔は雪焼けで浅黒かったが、龍蔵が吸いつく乳房は空を写したように青かった。龍蔵の乳を吸う力は強まっていて、今では痛いほどだ。


「あぁ、確かにな。春になるのは嬉しいが、これはどうだ。足元がぬかるみ、まるで泥田だ」


 伊之介が泥だらけの足を持上げた。


「泥が嫌なら道を引き返せ。吹きさらしの峠なら愚痴も凍るぞ」


「それがいい。なんなら会津の寺に戻って出家するといい」


 勝蔵と白女が伊之介をからかった。龍蔵が乳房から離れてゲップをする。雉女は着物を直した。


「解けた雪が田畑をうるおしてくれるのです。文句を言っては罰が当たります」


「なんだぁ、雉女まで……。説教とは、まるで僧侶だな……」伊之介が口を尖らす。「……それにしても、春になるとあそこがうずく。ふきとう土筆つくしの気持ちが分かるなぁ」


「伊之介は煩悩の塊だねぇ」


 呆れ顔の白女が伊之介の頭を杖で叩き、「ヨイッショ」と立った。


 雉女は荷物を背負い、肩から下げた帯に龍蔵を入れて抱きかかえた。産まれて半年に満たないが、ずっしりと重みを増している。最近ではじっとしているのを嫌がり、歩いている時も手足をじたばたさせることがある。


「傀儡子だからなぁ」


 とぼける伊之介を横目に、勝蔵が大きな荷物を背負って立ち上がった。そうして雉女の準備が整うのを待って坂を下り始めた。伊之介が慌てて彼を追いかける。


 雉女が伊之介に続こうとすると、白女が肩を押さえた。難しい顔をしている。


「白女さん、なにか?」


「雉女。具合が悪いんじゃないのかい?」


「え、いえ……」言葉を探した。


「隠すことはないよ。身ごもったんだね?」


「月のモノがないのはそうなのですが、よく分かりません」


 昨年子供を産んでから、ずっと生理がなかった。出産後はそんなものだろうと考えていたのだが、それにしては長すぎると疑問に思っていたところだった。


「そうかい。しばらく無理をしない方がいいよ。さあ、先にお行き」


 命じられて歩き出す。白女の言葉は、ぼんやりしていた不安を確信に変えた。それならば、父親は誰なのだろう?……義経や田舎の宮司の顔が脳裏を過る。そして3人の猟師の顔を思い出して背筋が震えた。


 先を歩いていた勝蔵が立ち止まっている。


「どうかしたのか?」


「なんでもないよ」


 白女が杖を振って応じた。


 あの人は、どうして私を抱こうとしないのだろう?……雉女は気を取り直して勝蔵を追った。


 安積の八幡神社は深い鎮守の森の中にあった。八世紀、征夷大将軍として奥州に入った大伴家持おおとものやかもちが祀ったのが始まりと伝わる社だ。境内の梅の木が白い花をつけていた。笛や太鼓の音がする。


「神楽をやっているようだな」


 鳥居の前で足を止めた勝蔵が懐かしそうに目を細めた。そこには雉女を犯した熊蔵もいるはずだが、すでに彼を殺したいと考えたことも忘れていた。


「神楽殿だろうねぇ。ワシは裏に回るよ。長者がいたら来るように言っておくれ」


 白女が傀儡女の小屋のある裏手に向かう。雉女は彼女に続いた。


 鎮守の森の一角に傀儡子の小屋が点在していた。


「ひさしぶり。無事で良かったわ」


 雉女の姿を見つけたフジと早乙女がやってきて子供のようにはしゃいだ。すると声を聞きつけた年寄りや子供も集まった。


「ありがとう。皆さんもご無事でなによりです。……桔梗さんは?」


 荷物を降ろしながら、いつも賑やかな桔梗の声がしないので捜した。


「あ、……客のようです」


 フジが、出入り口の幕が下りた小屋のひとつを指した。


「よぉ、みんな。元気だったか? 荷物を降ろすのを手伝ってくれ」


 少し遅れてやって来た伊之介が、目じりを下げて女たちを見回した。


「伊之介さん……」


 早乙女は15歳になり、胸も尻も膨らんで女らしさを増していた。身体だけでなく心もそのようで、雪焼けした伊之介に見とれて頰を染めた。


 フジが伊之介の荷物を支える。彼女は、伊之介とは兄妹のように育っていた。


「伊之介、すっかり男らしくなったね」


「あぁ。大変な旅だったからな……。お前たちはどうだった?」


「あれから石橋にひと月いたね。夢香さんの土まんじゅうが平らになってから、宇都宮、那須なすと巡った。雪が降ってからは、男たちは狼狩りで、私たちは相変わらずさ」


 荷物を置いたフジが自分の下腹部をポンポンと叩き、話を続ける。


「どこに行っても静を捜しているという武士がやって来てねぇ。相手をするのが面倒くさいったらなかったよ。それでかどうか知らないけれど、正月が過ぎるとすぐに関を越えて、白河、棚倉たなくらとまわってね。三日前に、ここに着いたばかりだ」


「なんだ。もっと早くに着いたのかと思ったが、それじゃぁ俺たちと変わらんなぁ。あー、楽になったぞ」


 旅支度を解いた伊之介が背筋を伸ばした。


「長者は、しばらくここにいると言ったよ」


「出立は俺たち次第ということだろうな。誰か俺と付き合え。久しぶりに精を抜きたい」


 彼の視線が向いていることに気づいたが、雉女は知らないふりをした。すると彼は早乙女の手を取って小屋に潜りこんだ。


「まったく、盛りの付いた猫だね」


 呆れたようにこぼす白女に合せて女たちが笑う。


「勝蔵さんはどうしたんだい?」


 春日かすがという中年女が訊いた。


「長者の所に行ってるよ。神楽殿だろう」


「あら、長者ならいませんよ。相変わらず馬でどこかに行ってますから」


「そうなのかい。奇妙だね」


「静御前と関わってから奇妙なことばかりですよ」


「止めないか。静は死んだんだよ」


 珍しく白女が声を荒げた。


「あら、そうですか……」


「伊之介じゃあるまいし。口が軽すぎるよ」


「ここは奥州……。関東じゃないんだもの、いいじゃないですか」


 春日は口答えし、雉女の隣にしゃがむと龍蔵をあやす。「ベロベロベー」赤い舌を出すと、「ホギャー」と龍蔵が泣き始めた。


「暇なら足を揉んでおくれ。もう、雪道はこりごりだよ」


 白女が毛皮の上に身体を横たえる。


「静でもフジでも……、白女さんが揉んでほしいそうだよ」


 春日はそう言うと、フンと鼻を鳴らして自分の小屋に帰った。


「それじゃ、私が……」


 フジが白女の横に座り、ふくらはぎを揉んだ。


「越後はどうでした?」


「大変な旅だったよ。雪が10尺も20尺も積もっていてね。もう、こりごりだ」


「20シャクー……」フジが素っ頓狂な声を上げた。


 桔梗が小屋から姿を見せた。


「白女さん、お帰り」


 彼女は相変わらず陽気だった。ニコニコしながら「ほら……」と白女たちを顎で指し、後から出てきた武士に意味ありげに微笑んだ。武士は、フジの顔に鋭い視線を走らせたが、何も見なかった素振りで通り過ぎた。


「また、おいでよー」


 桔梗が白女の小屋の前で手を振る。


「おう」


 武士は太い声を残して鎮守の森に消えた。


§  §  §


 神楽殿では、熊蔵と勝之介が獅子頭を操って吉野舞よしのまいを演じていた。勝蔵が自分の番を待つ力太郎たちに声をかけると、彼らは勝蔵の無事を喜び、長者は勝蔵の弟の蔵之介くらのすけと、馬でどこかへ行ったと話した。


 忙しく地勢を調べているらしい。……勝蔵は頭の隅で考えた後、仲間に山越えの苦労を短く話し、女たちのいる森に移動した。


 居並ぶ仲間に挨拶をして自分の小屋を張り始めると、春日がやってきて愚痴にも似たつまらない話を聞かされた。どうやら妻を亡くした自分の気を引こうとしているものらしい。そうわかるので、適当に相槌を打って聞き流した。


「大変だー」


 遠くから声がした。見れば太助たすけという年寄りが足をふらつかせながらやってくる。


「こ、小六がやられた……」


 太助がゼェゼェと肩で息をする。


「野盗でも出たのか?」


 勝蔵は剣を取った。


「いや……」太助は、山菜取りに近くの山に入り、熊に襲われたと話した。


 太助の後に数人の老人と女もやって来た。中には梅香もいて蒼い顔をしていた。


「小六は、私らを守ろうとしたんだよ」


 年寄りとはいえ、男たちは山刀を持っていた。小六は、それを頼りに熊に立ち向かったらしい。


 勝蔵は弓矢を取り、爽太に馬を引かせると太助を乗せて走った。山裾に着いてからは爽太に馬を預け、太助に案内させて山林に入った。


 現場に着いてみるとすでに熊の姿はなく、鋭い爪で切り裂かれた小六の遺体だけがあった。必死で戦ったのだろう。周囲は踏み荒らされ、山刀には熊のものらしい血がべったりと着いていた。


「小六、すまなかったなぁ……」


 太助が泣いた。


「運命だ。みなで立ち向かったところでどうなったか……」


 勝蔵は太助を慰めて遺体を背負った。爽太の待つ場所まで下りると、日当たりのよい場所を選んで小六の亡骸なきがらを寝かせた。


「ここに葬ろう。爽太は長者に知らせてくれ。それから鍬を持ってきてくれ」


 爽太は「オウ」と言って馬に乗った。


 勝蔵は小六の遺体の隣に腰を下ろし、あれこれと思い出に浸っていた。しばらくしてから大勢の傀儡子たちがやって来た。力太郎が浅い穴を掘り、白女が紙人形を小六の懐に抱かせた。ほどなく力蔵もやって来た。


「4人が返って来たと思ったら、ひとりが去った……」


 無表情な力蔵が、小六を葬った土饅頭に向かって手を合わせた。


「生き死には人の宿命。でも、できることなら穏やかに死なせてやりたかったねぇ」


 白女が声を殺して泣いた。


「小六よ。極楽に行け。ワシもすぐに逝くからなぁ」


 熊蔵が拳で涙をふいた。


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