エマに造花の花束を

緒賀けゐす

音楽と噓と五〇〇円

 とある地方都市の駅前広場。

 仕事を終えて戻ってきたここで、俺はぐるりと周囲を見渡す。


(いた。いつものところだ)


 お目当ての姿をベンチに見つけ、俺は歩き出す。

 その先には亜麻色の髪を風になびかせる、線の細い女性がいた。

 毎週水曜と金曜、夕方になると、一人の女性がギターケースを背負ってこの広場に現れる。通路脇のベンチに腰を下ろし、彼女はアコースティックギターをケースから取り出す。ギターはボディの塗装が一部剥げるほどに使い込まれている。しかし汚れているというわけでなく、張り替えられたばかりの弦や埃一つないネックから、彼女がそれを大事に扱っているのだということが分かる。

 ギターケースから、彼女はさらにA4のスケッチブックを取り出す。数ページめくり、それを開いたギターケースの前に立てかけた。


木五倍子きぶしエマ』


 それが、ストリートミュージシャンとしての彼女の名前だった。名前の下には、各種SNSのアカウントIDも記されている。一度だけ覗いてみたが、毎日のように弾き語りのショート動画を投稿しているようだった。

 けれど、俺が見たいのは今この場にいる彼女だった。

 エマがチューニングを終えるタイミングで、俺は通路の反対側に陣取る。顔を上げた彼女は俺を見て、少しだけ笑みを浮かべた。毎週通い詰める俺のことを、彼女の方でも認識していた。

 彼女がここで路上ライブを始めたのは、今から二年前のことだ。いつもの帰路に聞きなれない、それでいてどこか安心感を覚える歌声が聞こえてきたことが最初だった。自分よりも二回りも若い彼女のパフォーマンスを、俺はいつもこの場所で見ていた。

 今日はカバー曲がメインだった。俺が若い頃聞いていたようなひと昔前の曲から、最近のヒットチャートまで幅広く彼女は歌った。曲によって彼女に目を向ける年齢層が変わるのを見るのも、俺は好きだ。

 エマの歌は、プロになるには少し技術が伴っていない。しかし曲によってはまるで別人と思えるほど感情を乗せるのが上手かった。ギターの演奏にいたっては、同年代でエマより上手い子を探す方が難しいのではないかと俺は思っている。何より、彼女は楽しそうに歌う。それがとても愛おしかった。

 ギターのインスト曲も含め八曲ほど披露したエマは、最後にオリジナルの曲を歌った。

 曲名は『花束』。一人の少女が想い人に渡す花束に入れる花の種類について悩み、考えていく中で自分の感情を確かめていく、そんなストーリーのあるバラード曲だ。この曲を聴くのは、何も今回が初めてではない。けれど彼女のこの歌を聴くたびに毎回、俺自身も自分の想いについて考えさせられ、胸が締め付けられるような気持ちになるのだ。

 ――いったい俺は、彼女に何の花を渡せばいいのだろうか。

 一礼をする彼女に、俺を含め足を停めていた数人が拍手を送る。

 結局答えは出せないまま、俺は演奏を終えた彼女のギターケースに五〇〇円を入れる。


「今日もすごいよかったよ」

「ホントですか? それなら何よりです」


 街灯に照らされた彼女が笑う。


「でも、寒くなってきたのもあって指が中々動かなくて。最後のほうなんか、弦を押さえるのに必死で歌の方が疎かになってしまいました」

「そんなことなかったよ、すごくいい歌だった。けど……確かに、もうそんな季節か」


 暦は十月になっていた。これ以上寒くなっては、屋外でアコギの演奏というのも難しい。そうなると年内で彼女の演奏を聴けるのはせいぜいあと一ヶ月、八回程度ということになる。


「どこかライブハウスで演奏するとかは?」

「んー、あくまで趣味ですので、そこまでは考えてないですね……それに、駅前広場ここじゃないと不特定多数に届きませんから」

「不特定多数、か」


 以前会話したときも、エマはそう言っていた。

 その理由についても、彼女は記憶の通りに話す。


「前にも話しましたけど、歌を届けたい相手がいるんです。けれどその人がどこにいるのか、今の私には分かりません。だからこうして、歩いていく人達の中にその人がいてくれることを願って、歌っているんです。それが今の私にできる、唯一のことですから」


 ぎゅっ、と、エマはピックを握りしめ、胸に手をあてがう。その手に、俺は色とりどりな花を集めた花束を見た気がした。


「きっと、届くよ。君の歌声なら」


 もう届いてる、とは言えなかった。


  *  *  *


 木五倍子きぶしエマ――彼女の母親から再婚したという知らせは聞いていないから、そうなれば本名は高梨たかなし恵麻えまだろう。彼女の名乗る木五倍子という苗字は、俺のものだった。うちの家系以外で聞いたこともない苗字なので、単なる偶然ではないだろう。彼女はパフォーマンスのための名前として俺の――自分と母親を見捨てた男の苗字を名乗っていた。

 いい歳してのデキ婚だった。恵麻の母とは浅い付き合いのまま同棲し、案の定不和が生じた。俺自身も努力はしたつもりだったが、多くが育児に明け暮れる彼女の神経を逆撫でする結果となり、終いに出ていけと言われた。俺も休まる場がなく疲れ切っていたので、離婚届にサインした。養育費等についての調停で何度か会ったきり、恵麻の母とは二十年近く会っていないことになる。そしてそれは、娘である恵麻も同様だった。

 それ以来、俺は夜な夜な一人でギターを弾いて暮らしていた。学生の頃から友人とバンドを組んだり、大学でもサークルでギターを弾いていた。最初はエレキギターを弾いていたが、ある日とあるアコースティックギター奏者のCDを聴いて衝撃を受け、それ以来アコギのインスト曲ばかり弾いていた。恵麻の母とも、そのギタリストの来日ライブで知り合ったのがきっかけだった。そして何より、恵麻という名前も、その人の名から取ったものだった。

 幼い恵麻に、俺はよくギターを弾いて聴かせていた。大人しく聴いているときもあれば、曲に合わせてギターのボディを叩くときもあった。そんな恵麻の笑顔を見ていると、俺は幸せだった。だからあの時の幸せを手放さないように、忘れないように、すがりつくように、俺はギターを弾いていた。

 だからこそ、大きくなった恵麻がエマとして現れたときは夢ではないかと思った。大学生となり大人となった彼女の見た目だけでは、俺はきっとエマが恵麻であると気付かなかっただろう。しかし俺の苗字を名乗っていたこと、そして何より――俺が置いていったアコギを携えていたことが確信を与えてくれた。憧れの人に近づきたいと購入した、オーストラリアのギターメーカー製の、硬質な音を奏でられるアコギだった。俺の付けた傷はそのままに、使用感を増したそれを、エマは自分の一部であるかのように奏でた。

 涙を流すなという方が無理な話だった。

 それと同時、彼女にどう向き合えばいいのか分からずに吐きそうになった。

 養育費こそ、これまでずっと出してきた。けど、それだけだった。俺は恵麻の入学式も、授業参観も、運動会も、それどころか制服姿すら見ていないのだ。金銭面でしか父親としての役割を果たさないまま、ここまで来てしまったのだ。なのに今更、彼女に父親面して近づいていくのはあまりに薄情で、父親どころか人間失格であるような気がしてならなくて、話すことが躊躇われた。

 だけど、目を離すこともできなかった。美人に育った娘が自分の置き土産であるギターを弾いて歌う姿に、否応なく心を奪われた。

 そうして悩みに悩んだ末、俺はただの観客であることを決めた。ストリートミュージシャンのパフォーマンスを見た観客として、俺は五〇〇円をギターケースに入れる。今まで、彼女の母親の預金口座に養育費を振り込んできたように。恵麻の父親でなく、木五倍子エマのファンとして。

 俺が恵麻に渡せる花束は、お金でできた造花だけだった。


  *  *  *


「ありがとうございました」


 演奏を終え、エマが一礼をする。

 俺はいつもの位置で拍手をしてから、いつも通り五〇〇円をギターケースに入れる。


「佐藤さんも、聴いてくれてありがとうございました」


 咄嗟に名乗って以来そのままの偽名を呼びながら、エマが俺に微笑みかける。俺も彼女に微笑み返す。


「今日もすごくよかったよ。最初聴いたときから上手かったけど、さらに上手くなったんじゃないかな」

「そうだと、嬉しいですね……」

「今年はこれで最後かぁ。寂しいけど、来年も聴けるのを楽しみにしているよ」


 気温もすっかり低くなり、エマは今日が今年最後だと演奏前に教えてくれていた。だから俺はいつも以上に彼女の歌に、ギターに耳を傾け、集中して聴いてしまった。


「来年……」


 白い息を吐きながら、エマは悲しげに俯く。


「どうしたんだい?」

「ああいえ、なんでもなくて……」


 口ごもって逡巡したのち、「やっぱり、佐藤さんには言わなきゃ」とエマは顔をあげた。


「今年で終わりにするつもりなんです、路上で弾くの」

「――えっ」


 驚きに言葉が詰まる。俺とエマの、娘との唯一の繋がり。路上での演奏を止めるということは、その繋がりが消えるということだった。


「いったい、どうして」

「就職、決まってるんです。東京に」

「それはおめでとう……って、ああ、そっか」


 それはつまり、来年の春にはもうここにはいないということ。


「じゃあ、今日が最後だったのか」

「すみません、最初に言えなくて」

「いや、君が謝ることじゃないんだ。でも、そっか……就職かぁ」


 大きくなったなぁ、恵麻。

 素直にそう言ってあげられたら、どれだけよかっただろう。

 でも、それはできない。嘘は嘘のまま、造花を造花のままに、この関係を終わらせなくてはならない。これ以上、彼女の人生を振り回してはいけない。

 エマの横に腰を下ろす。

 するとギターケースの中に、さっき投げ入れた五〇〇円硬貨がきらりと輝いていた。


「就職祝いにしては、少し寂しい金額だね」


 財布から一万円札を取り出す。

 結局、金だけしか与えられないのか。

 薄情な父親でごめん、恵麻。

 エマは受け取りを拒否するため、俺の手を押さえる。


「だめです、受け取れません」

「でも、俺にはこれくらいしか」

「だったら、他のものが欲しいです、私」


 他のもの?

 バッグや服だろうか。そういうものならどんなものでも――。

 そう思った俺の前に、エマは自分の抱えていたものを差し出した。


「一曲、弾いてくれませんか」


 アコギを渡され、俺はきょとんとする。


「どうして?」

「佐藤さん、私が弾いてるのを見てるとき、よく左手の指が動いているじゃないですか。今日なんかは特に」


 確かに、知っている曲では聴いているうちに手が勝手に動いてしまうときがあった。今日はいつも以上に集中して聴いていたが、そのせいで無意識に動かしていたのだろう。


「見てれば分かります、上手い人の運指です。それに前から、ずっと聴きたいと思ってたんです」


 そう言って、エマは、恵麻は、空を見上げる。


「私が探しているの、お父さんなんです。物心つく前に親が離婚して、写真も残ってないので、顔は分からないんですけど。でも、ギターを弾いて聴かせてくれたことは朧気に覚えているんです。このギターで。だからこのギターに触れていると、お父さんと繋がっていられる気がするんです」

「自分を見捨てた、父親とかい?」

「確かに、見捨てたかもしれないですけど……それでも、私の父親なんです。私に音楽の楽しさを教えてくれた、たった一人の肉親なんです。だから、会って話したい。あなたは今でも私の父親であると、面と向かって言ってあげたいんです」

「そっ、か」


 必死に、泣かないように堪えた。今の俺は、身の上話を聞いているいるファンでしかない。絶対にそうであるのだと、二年前のあの日に決めたはずだった。

 でも、言ってやりたかった。

 俺の宝物を大事にしてくれてありがとう。

 綺麗に育ってくれてありがとう。

 俺をまだ、父親だと思っていてくれてありがとう。


「大丈夫だよ。きっとその人も――エマちゃんのお父さんも、君を愛しているよ」


 二十年ぶりに手にしたそのギターは、年月を感じないほどに手になじんだ。

 カポを付け、少しかじかむ手でピックを持つ。


(そうだ……こういう気持ちで弾く曲だった)


 そして、俺はギターを弾く。

 曲はトミー・エマニュエル『Angelinaアンジェリーナ』。

 アコギの神様と憧れ続けている人が、自身の娘の名を付けた曲だった。


「……っ」


 弾き始めてすぐ、隣の恵麻がぴくりと震えた気がした。でももう俺は、自分の世界でギターを弾いていた。

 目を瞑れば、そこに幼い恵麻がいた。ギターを弾いている俺にハイハイで近付いてきて、楽しそうに笑っている。その笑顔に気分をよくしつつ、だけど曲の穏やかな愛情を急かして失わないように、丁寧に丁寧に弾く。

 追うように、夢想してきた情景が目の前に現れる。

 幼稚園に入学した恵麻。

 授業参観で元気に手を挙げる恵麻。

 初めての制服に喜ぶ恵麻。

 高校生となり、友人と楽しく遊ぶ恵麻。

 全部嘘だ。寂しさから生まれた、意味のない妄想でしかない。俺が知るのは小さい恵麻と、エマとして現れた恵麻だけだった。だからそれらは、虚ろな空白でしかない。

 でも、やっと分かったのだ。恵麻の人生の中で俺は、音楽として意味を持ち続けていたのだ。

 世間一般からすれば、父親として失格であろう。

 けれど、それでも、父親だったのだ。


 弾き終わり、俺は目を開ける。

 手の甲にぽつりと、白い輝きが落ちてきていた。


「雪か……」


 例年よりずいぶん早い、今年の初雪だった。

 隣を見やる。

 恵麻は俺を見ながら、拭うこともなく涙を流していた。

 演奏が終わったことに遅れて気づき、恵麻は自分の状態をやっと確認する。


「あれ、いつの間に……ごめんなさい……」


 袖で涙を拭う彼女を、俺はただ静かに待つ。

 少しして泣き止んだ彼女に、俺はギターを返した。


「東京に行っても、弾いていてほしいな。そうすれば、きっと繋がっていられる」

「はい……そうですね」


 恵麻は、いったい何を感じたのだろう。

 もしかすると、俺の嘘を見抜かれてしまったのかもしれない。

 音楽にだけは、嘘は乗せられない。


「『花束』、また聴きたいな」

「もしかして、アンコールですか?」

「五〇〇円でどうだい?」

「っ……ふふっ、あはははっ」


 降り始めた雪の中で、元気に笑う恵麻。

 愛しい、俺の娘。


「それでは、お客様の要望に応えまして」


 ギターを持ち、彼女は歌いだす。

 いつか、彼女に本物の花束を渡してあげよう。

 ちゃんと、自分が父親であると伝えてあげよう。

 その日まで俺はきっと、この歌のように花選びを悩んでおくのだ。

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