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笑門みら


 また……か。

 心の中でつぶやいた。

 これで何度目だろうか。

 ようやく窮屈な場所から開放され、またこの世に生まれてしまったことが悔しくて泣いた。

「頑張ったね」

 そんな言葉を声かけられながら、すぐに手厚くぬるま湯で洗われる。それが終わると、目がまだ開かない私を柔らかい布で包み込んだ。

「女の子ですよ、抱かれますか」

「いいわ、疲れたから寝る」

 やっぱりね。

一語一句も間違えずに同じ台詞を言う彼女に、そっと心の中で苦笑いして、私も疲れたから眠りについた。

 私はお金をもらう為に、産みおとされた子供。

 先の見える人生が待っている。

それにもがけず一日がすぎ、一生が過ぎていく。

この世は生き地獄。

 これからの14年、変わりばえのない14年がまた始まろうとしていた。


「行ってきます」

 返事が返ってくるはずがないことを分かっているのに、習慣のように出る言葉。いい加減言わなくていいと思うのだが、勝手に口から出てくる。

 嫌味なぐらい蒼い空の下、重い足取りで学校へと向かった。

 同じ制服を着た学生が楽しそうに横切っていく住宅地。そこからは「行ってきます」と言いながら家を出る子供に「いってらっしゃい」と返す母親の声があちらこちらから聞こえる。

そんないつもと変わらない道を、一人俯きながら進む。

 まるで、私がこの世にいないかのように。一層のこと消えてしまえたら、どれだけ楽なのだろうか。しかし、いくらこの世から消えようとしても、生き続ける。

ずっと、同じことの繰り返し。

長くない通学路を長く感じながら学校にたどり着き、下駄箱を開ける。画鋲がギッシリ詰まった靴が入っていた。ご丁寧に中島蘭と書かいてる部分に、画鋲が刺さっている。

「中島さん、どうしたの」

 笑いながら話しかけてくる人を無視して、運動靴を袋に入れ、ソックスのまま教室へ向かった。慣れてはいるけど、足が冷たい。

 俯きながら階段を上っていると、埃やゴミのくずが隅に溜まっていた。掃除するふりして、ゴミを脇に寄せてるだけなのがよくわかる。

 なのに、大人である先生は気づいていないのだろうか。きっと気づいてはいるが、知らないふりしえいるだけなのだろう。

「うわ。雑巾女が来たぞ」

 待っていたかのように教室の前に居た男子に、指を差されながら言われた。

 こいつらは、ネタが尽きて同じことしていることに気付いてないのか。

 いつまでも馬鹿笑いしている男子を無視して、教室のドアを開けたら、同じように教室中笑いの渦だった。

「中島さん、雑巾好きなんだね」

 机の上には雑巾がどっさりのっていた。中に入れていた物は散らばり、代わりに雑巾が押し込まれていた。

「いくら好きでも、こんなに雑巾盗んじゃダメだよ」

 誰かが言うと余計に周りは笑った。

 無視して机の中に入っていた雑巾を引っ張り出すと、奥から桜色した紙屑が出てきた。

 教室の後ろを見れば、クラス全員の絵の作品があるところに、一枚分だけすっぽりなくなっていた。私の描いた絵が貼ってあったところだった。

 紙屑になってしまった絵のカケラをゴミ箱に捨て、雑巾を持って耳に響く笑い声がうるさい教室から出た。

 きっといつものところから雑巾を持ってきたのだろう。

離れた人通りの少ない廊下の突き当たりにある掃除用具棚を開けた。

 やはりそこには、山住みに置いてある雑巾がない。全部、私の机にあるようだ。

 こんな事、いつものことだ。

 昔は、なんでこんなことになってしまったのか考えていた。でも、今では考えていない。原因が分かっても、この世界から抜けだすことも、解放されることもないのだから。

もう心はなにも感じない。

「蘭、おはよう」

 その声に振り向くと、真由がいた。

「また、あいつらなんかしたの」

 怒った顔して言う真由。本当は知ってるくせに。

「大丈夫だから」

 そう言い残し、机にまだある雑巾をとりに行こうとすると、また呼び止められる。

「大丈夫じゃないだろ」

 その声に、反応したかのように心臓がドキドキした。振り向かなくても分かる。

「あ、誠先輩」

 目をキラキラさせながら話しかける真由。

「また、あいつらか。ここらでガツンと言わねぇとな」

 信じちゃいけない。

「誠先輩、頼もしいぃ」

「蘭も蘭だろ。少しは俺たちのこと頼れよ」

「そうよ。昔からの仲じゃないの」

 その言葉は偽りだと分かっているのに。

 心の中では、喜んでいるもう一人の私がいた。

「大丈夫、俺らがついてるから。耐えれなくなったら言うんだぞ」

 頭をそっと撫ぜながら言う先輩。その手と言葉があまりにも心地よくて、泣きそうになる。

「いいよ、放って置けばいいことだから」

 今度の誠先輩は信じてもいいんじゃないかと、馬鹿なことを言っているもう一人の私を無視して、机にまだ残っている雑巾を取りに行った。

 今度は、私の机で何かをしている。

 誠先輩の弟、智だ。

「おはよ」

 私に声を掛け、教室を出て行った。

 机の上にも中にも雑巾があったのに、そこにはもうなにもなく、散らばっていた教科書やノートが机の上にまとめて置いてあった。

「おーい、席に着けよ」

この状況を知りながらも、知らぬ顔する大人のお能天気な声が教室に響く。

それはまるで、階段の隅に溜まるゴミのように追いやられる気分にさせられた。


 明日は十四歳の誕生日。

それまでの辛抱だ。

 長く生きている気もするが、これでまた楽になれる。今度こそ、魂ごとこの世から消えてしまいたい。でも、見放されている私には、そんな小さな願いも叶えてくれない。

後ろから夕日が私を照らし、黒い私の影を作り出す。その周りを真っ赤に染める。

 一層のこと、血で真っ赤にしてほしい。

私という存在を、二度と生まれて来れないようにしてほしい。

 綺麗な夕日をこんなな気持ちで見るのは、私ぐらいなのだろうか。未来を見ることが出来ない目で見る世界は、人も何もかもが黒ずんで見える。

「おねぇちゃん、おかえりなさい」

 でも、この声の主だけは違う。ホッとした気持ちになりながら振り返る。

「さくらちゃん、ただいま」

 優しい笑顔で私に近づいて来たさくらちゃんに、つられて私も笑顔で返す。

「あのね、私明日誕生日なんだ」

 私と、さくらちゃんは同じ誕生日。

 なのに、こんなにも運命が違うと思うと、少し複雑な気分になる。

「おめでとう、何買ってもらうの」

 分かってはいたが、知らない振りをして聞いた。

「あのね、新しいタロットカード買ってもらうんだ。

明日の朝、パパがくれるから一番にお姉ちゃんに占ってあげるね」

将来占い師になりたいと言っているさくらちゃんらしいプレゼントだ。

そういえば、あの時は私にも夢があったのだろうか。

なにかあった気がするけど「お金にならない」その母親の一言で、あっさり諦めてしまった気がする。

 さくらちゃんの親と大違い。きっとここでも運命が違うのだろう。

「ありがとう、明日楽しみにしてるね」

 私には明日なんて未来はない。

 それは、占い師に見てもらわなくても分かる自分の運命。

「来て来て、占いしてあげる」

 さくらちゃんに手を引っ張られるようにして、いつもの公園に入っていった。

 夕日に照らされた公園。その地面には、遊具のシルエットが浮かんでいた。そこには、元気に飛び回る小さな影とそれについていく一つの影。影があることに、少し安堵していると、「早く早く」急かされてまだ桜が咲いていない、寒そうな木の下のベンチに座る。

いつも通り、ここに座って、いつもの手順でさくらちゃんがカードを混ぜていく。そのカードは、さくらちゃんがいつも肌身外さずポケットの中に入れているせいで、ボロボロになっていた。

 でも、そのカードで占ってもらう結果は、焼け石に水程度だが、私に小さな幸せをもたらしてくれる。

例えば、今日は小遣い運がいいと言えば、酒に酔って上機嫌の母親から一万円札をもらったり。恋愛運がいいと言われれば、誠先輩と二人っきりで帰れたり。

子供用のタロットカードでも馬鹿にはできないんだなと、感心してしまうほどの的中率だ。

 でも、このときの占いの結果だけは違っていた。それは分かってるのに、いつもさくらちゃんに占いをしてもらう。

もしかしたら、今度は違うかも。

そんな馬鹿らしい期待してしまうもう一人の自分がいてる。

 さくらはニコニコしながら、ベンチの上でタロットカードが落ちないようにかき混ぜ、七枚のカードを並べた。

その途端、その顔からは笑顔が消え、黙りこんでしまった。

 やっぱり…。

 並べたカードは、どれも知ってるカードばかり。綺麗で幸せそうな絵柄は逆さま。不吉な絵は私を嘲笑うようにこっちを見ていた。

 子供らしい可愛い絵で誤魔化しているが、カードの意味も、配列も。いつも変わらず出る結果だから、分かってたはずなのに息苦しい。

 さくらちゃんは、絵柄を見ながらじっと考え込んでいる。まだ小学三年生、なのによく気が利く子だから。

 年下に気を使われている自分が情けなくなって、用事もないのに時計を見て慌てるふりをした。

「あっ、もうこんな時間。私帰らなきゃ」

 さくらちゃんはほっとした顔をして、慌ててタロットカードをポケットにしまいこんだ。

「じゃーね」

 片手で手を振りながら、公園を出ようとしたとき。

「おねぇちゃん」

 呼び止められる声に振り向く。

「またね」

 少し寂しそうな笑顔で、手を振るさくらちゃん。

 もう、またとは言えない。

未来は変えられない。

「またね」

 それでも、口が勝手にまたねと言った。


 月の光をシャットアウトするかのようにカーテンを閉め、電気も点けずに真っ暗な部屋のベットに横たわる。頭の中では、さっきのカードが頭の中をぐるぐる回っていた。

 心の中のもう一人の私は叫び続ける。

もう少し生きてみたら何かが変わるかも。

 そんな夢物語。

信じられるはずがない。

決められたシナリオ通りに、生きたほうがいい。きっと後で、あの時死んどけばよかったと後悔するに決まっている。そしてまた繰り返す、それだけだ。

 本当は、今ここででも手首を切れたなら、どんなに楽なのだろうか。

 でも、この体は言うことを効かない。

 未来があったあの頃のまま、馬鹿みたいに信じていたあのときの気持ちのまま、勝手に体が動く。

 壁に掛けてある飾り気のないカレンダーに目が止まり、3月10日のところを吸い込まれるように見詰めた。

今回も、同じ日、同じ時間、同じ場所から一歩踏み出せばいい。

怖くなんかない。

ただ、もう一人の私がうるさいだけ。

震えている手をグッと握り締めた。

私にはなにもないのだから。

人も、居場所も、未来も。

皆が持っているものを何も持ってない。

ガチャ、戸の開く音がする。

重い体を起こし、部屋を出て行く。香水とアルコールの混ざった悪臭にしかめっ面をしながら、玄関で座り込む姿に近づいた。

「あら、珍しい。お出迎えに来てくれたのぉ?」

 白く塗った肌が、酒のせいで真っ赤なっている顔を私に向け、甘えた声で聞いてきた。

「今月の分、まだ貰ってないから。取りに来ただけ」

 この人との最後の会話はこれが一番お似合いだ。

「可愛げのない子ねぇ」

 あんたに似たんだよと言いたいのをグッと堪えて、財布から出された万札三枚を受け取る。なにも言わずに階段をあがろうとしたら

「明日から三日間泊まりに行くから。朝早くに出るわね」

 ヒールにねじ込んだ足をようようで脱ぎ、千鳥足で寝室に向かう。

 やっぱり、あんたは明日がなんの日かも忘れて、今回も旅行に行くんだね。分かってたことなのに、心が締め付けられるのはなんだろう。

 所詮、私なんてお金の道具にすぎないのだから無理もないか。

 娘の誕生日も忘れて、旅行に行く母親の背中をジッと見ながら、心の中で呟いた。

さよならと・・・。

階段を一段一段、踏みしめるように登っていく。部屋に入ると、朝が来るのをベットの上でひたすら待っていた。


 カーテンからはみ出た光が眩しくて、顔をゆがませる。見なくても分かるぐらいの好天気。

 こういうシチュエーションのときは、雨の画面がお似合いなのに。せめて、この日の天気ぐらいは雨がいいのに。

 少しため息つきながらも、壁に掛けられた制服に着替える。

 もう既に死んでいるような目で、鏡に映るもう一人の自分を睨み付けた。鏡越しの私も睨み付けてくる。

当たり前のことだけど、いつかは鏡にすら自分が映らなくなるのではないかと、内心怖くなってる自分にとっては、まだ生きているんだなと確信持てるのだ。

 朝一で出かけると言っていた、母親とかち合うのを避けるため、この日はいつもより一時間早く家を出る事にしている。

 それに、この日はあの人に会えるから。

「蘭、おはよ」

 後ろから頭をポンと叩きながら、声をかけられた。

心臓がドキッとする。

 先輩は、そんなこと知らずに横に並んで一緒に歩き始めて、口の中に一つガムを放り込む。

薄荷の香りが鼻を通っていく。

「いつもより早いな、何かあったのか」

 朝一番の日差しと好きな人の笑顔に目眩しそうになるのを、グッと我慢した。

「昨日、宿題のドリル忘れちゃって」

 顔を合わせないようにうつむいたまま、嘘をついた。

「蘭は、真面目だなぁ。俺なら、家に忘れたって嘘つくけど」

誠先輩はそんなつもりはないんだろうけれど、褒められているようで気がして、うれしくなる。

「蘭、最近いじめが一段とエスカレートしてないか?あの絵が破られてたみたいだし。いくらなんでも酷すぎる」

 いつものことなのに、わかってるのに。心臓がドキドキして、止まらない。

「無視してれば大丈夫だよ。ただの絵なんだし」

「俺、あの写生大会の時の絵すごく好きだったんだぜ。蘭もあの絵描いてるとき楽しそうだった気がするけど」

 破かれるの分かっていても、やっぱりさくらちゃんの花だから。楽しくって、いつもより丁寧に描いていたのは確かだ。

「あの絵だけじゃない。俺、蘭の絵が好きなんだ。なのに、破かれて。

 許せない」

 手を握りこんで怒りを露わにしている先輩に心は揺れそうになる。

「いつも学校に張り出されている絵を見てて蘭の絵みたいに綺麗な世界描きたいって憧れて。でも、俺は絵だけはどうしても苦手で上手く描けなくてさ」

 先輩は、頭も良くて、スポーツも万能。だけど、どうしても絵だけは苦手らしい。

 私にしたら、先輩のほうが羨ましい。絵以外なら、なんでも持ってるから。

 やっぱり先輩のこと信じてあげようよ。

 そんなことをもう一人の私が言ってる。騙されちゃって、ホント馬鹿みたい。

 なにも言わずに歩く私の肩を、先輩は両手で止めて言った。

「なんならさ、俺の彼女になれば俺も助けやすくなると思うんだ。蘭が辛いの見てられないし。なんていうか、守ってやりたいというか」

 心がドクンと跳ねる。それは、偽りの言葉なのに。

「だから、その・・・俺の彼女になってくれ。守ってやりたいんだ」

「キャプテ~ン。早く行かねぇとコーチに怒られるッスよ」

 遠くから、先輩を呼ぶ声が響いている。その声に、先輩は振り返って返事をした。

「ああ、今行くよ。先に行っといてくれ」

「分かりました」

 そう言って学校の方向へ消えて行く。

 先輩はもう一度私に向き直り、真剣な顔にほんのり顔を赤くしながら言った。

「それじゃ、俺、先行くな。さっきの話考えといてくれ」

 そう言い残すと走っていってしまった。

分かってるのに、顔が熱い。

今回こそは先輩を信じていいのではないかともう一人の自分が叫ぶ。毎回信じてしまう自分がアホらしい。

 それは真実をまだ知らない頃の、もう一人の自分。

 騙されてはダメ。

 平常心ではいられなくなるから。

 この輪廻は変わりもしない。

止まりもしない。

そして、終わりもしない。

 分かっているはずなのに。

さっき言った先輩の言葉を思い出しては、一人ニヤついてしまった。

 学校に到着して、下駄箱を開ける。その瞬間、何かの香りが鼻を通っていった。

 周りではクスクス笑い声が聞こえてくる。

 目の前が真っ白になるのを堪えて、下駄箱を覗く。噛んだ後のガムが、靴に擦り付けられていた。

 薄荷の臭いが、鼻を通っていった。

 こんなこと分かってたはずなのに、心が重くなるのはなんでなんだろう。

 薄荷の香りなんて、どこにもある。なんて誠先輩のことを信じてみるけれど、分かってる。あのガムは先輩が付けたものだと。

 グランドを見たが、サッカー部の朝練なんて結局してはいなかった。

 心の中にいる、馬鹿みたいに先輩を信じてる私が叫ぶ。

 それでも、信じようよ・・・と。

 でもそれは、こっそり見に来たサッカー部の更衣室の窓から聞こえてきた会話で、あさっさり裏切られた。

「もうそろそろ、カミングアウトしょうと思うんだ。いい人ぶるのも疲れてきたし」

「それがいいっすよ。今まで庇ってくれてた人が、実はいじめの張本人だったなんて、面白いドッキリじゃないですか」

「あの子、どんな顔するだろうね。今から想像しただけで笑えるんだけど」

手を叩きながら、笑う声が聞こえてきた。

壁にもたれてしゃがみこんで、耳を塞ぎたくなる。

こんな先輩、信じたくない。逃げ出したかった。でも、足がすくんで動けない。

私が窓越しに聞いてるなんて知らずに、三人はまだ話続ける。

「真由もいい子ぶるの疲れてきちゃったし、一緒にカミングアウトしょうかな」

 かわいい子ぶってる真由のオクターブ高い声が頭にジンジン響く。

「いや、お前はまだ駄目だ。そのほうが楽しみが増えていい」

 楽しみってなによ。私の気持ちも分からずに。

「そうっすね。あ、いけねぇ。まだ仕掛けてねぇや。今日は机にボンドでも厚く塗ってみようかなって思っているんですがね」

「残念ながら、もう学校には着いてると思うぜ。お前が呼んだとき、あいつと一緒だったから」

「なんだ、面白くない。とりあえず、私はまだいい子ぶっておきますか」

 そういうと先輩を残して、二人はロッカールームを出て行った。

 一人になると、先輩はまたガムを食べ始めた。いつもはそんなこと思わないのに、嫌味なぐらいガムの噛む音が耳に届く。

ようやく、立ち上がることができた。

今回もすべてを知ってしまった今、信じろと心の中で叫び続けていたもう一人の声は聞こえない。それと同時に、ようやく自分で体が動くようになった。

 あの場所へ行こう。

もう今日この先を、見たくないから。

「蘭、どうした?」

 振り返ると、やはり智がいた。

「なんでもない」

 そう言って、その場から逃げる。

「おい、待てって」

 追いかけて来たから、全力で逃げて智を巻いた。

 もう放っておいてよ。追いかけないで。


 私はまたここへ来てしまった。

この場所に。

 タイミングがいいのか、いつもこの日に限って、屋上への扉は開かれていた。

 墨絵のような、この地上を見下ろす。

 校門では登校してくるどの生徒も、悩みなんかなく、笑い声で溢れている。まるで、今の私をあざ笑うように。

屋上にいる私のことなんか気づいない、きっとここから叫んでも分からないだろう。

なにも感じないふりして、本当は傷ついてる私を見て、笑って何が楽しいのだろうか。私に構わず放って置いてほしいのに。ただ、それだけでいいのに。私がなにをしたの?

 向い風が、私の髪の毛をなびかせる。

「この輪廻はいつ終わるのだろうか」

 そんな私のつぶやきは、突風によって消されていった。

 その風に背を向ける。

 それは、怖いからじゃない。

この世界に背を向けたいから。

空では、青い空に白い雲が、風に押されるようにして走っている。それは、運命に背を押されている私のようだ。

いや、もしかしたら、この雲たちは風に押されるだけじゃなく、きっとどこかで抵抗しているのかもしれない。

雨が降りそうなとき、白い体を黒くして雨が降りそうなことを訴える。

辛くて泣きそうなんだと。

 それを地上の人間が受け止めてくれる。

 辛いときには辛いと分かってくれる人たちがいる雲。

 私には、そんな人がいないから羨ましく想う。

 もしも、今ここで素直に辛いと言えば、どれだけの人が分かってくれるのだろうか。

 そんなことを思いながら、どこまでも続く海のように青い空を見上げたまま、後ろに一歩踏み出した。

どんどん落下してゆく。

青空がどんどん遠くなる。

最後に見た青空を目を閉じて、まぶたの奥に刻み込む。

 屋上から地上までは早いようでゆっくり。

 まるで、私の人生のようだ。私にとっての十四年は長かった。

「蘭」

 誰かの叫び声。一体、誰なんだろうか。たぶん、これは私の空耳。この運命を止めてくれる人はいないから。

そんなことを思いながら嫌な音とともに、何回目かの同じ人生に幕を閉じた。


 気づけば、やはり真っ暗で窮屈な海。苦しい場所に閉じ込められていた。

 なんでこんなに苦しんで生まれて、苦しんで生きなければいけないのかと考える。

 生きるのに疲れ、いくら死を選んでも、結局またここに戻ってくる。

 何度も同じ場所から飛び降りて、何度も同じ母親から生まれてくる。この運命は、どこで断ち切れるのだろうか。

 まだ、言葉を知らないはずの胎児の私は、心の中で苦笑いをした。

「金は払う、だから頼む。妻には言わないでくれ」

 外の声が聞こえてきた。これはきっと、声しか聞いたことにない私の父親。

「分かったわ、毎月お金さえ口座に振り込んでくれてたら、もうあなたの前には現れないから。早く出て行って、眠たいんだけど」

 そう言われ父親は、病室から出て行く足音を残して行った。

 その足音が完全に消えてから、母親の笑い声が私に重く響いた。

「これで、毎月一定の金は入ってくる。子供の養育費を含めてもお釣りがくる額だし、遊べる金は手に入るわ」

 お腹を抱えて笑う母親のお腹で圧迫されて苦しい私は、ドンと中から蹴った。


 この世界は生き地獄。

 馬鹿みたいに信じたい心だけを残して、この輪廻の世界に閉じ込められた。

 せめて、なにも感じなかったら楽なのに。

それはきっと、自ら命を絶った私への神からのいたずら。

 きっとあの日、あのとき、あの場所から引き返していれば、違う未来があるはず。

 でも、あの先の未来を、まだ見る勇気が私にはない。


 これで何度目だろうか。

 ようやく窮屈な場所から開放され、すぐに手厚くぬるま湯で洗われる。

それが終わると、目がまだ開かない私は柔らかい布で包まれた。

「女の子ですよ。抱かれますか」

「いいわ。疲れたから寝る」

 また……か。

 心の中でつぶやいた。


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