いずみ・ワンハンドレッド

IZUMI 100%

 この空間に閉じ込められてもう何年の月日が経ったことだろう。

 僕がこの場にいることを誰も知らない。

 ここは街だ。人もまばらではないほど周囲には歩いている。付近には薄く汚れが染みついたビル群。その間を通る若干広めの道路。さらにそこを行き交う多種多様な車の数々。白が滲み込んだ太陽の光がそれらを照りつける様を現実世界に住む人々が見たとすると、おそらくこの街が二進法により制御された電脳の街であるとは誰も想像しないはずだ。

 終わってしまったことを嘆いても仕方がない。そもそも始まってもないのだから。

 いつもそんなパラドックスな言葉がその街の囚われた住人である僕の頭を埋め尽くす。今日も同じ。明日も同じ。何もかもがプログラミングされた世界の通りに動いていく。彼らは何者なのだろうか。現実世界の者ではないはずなのに、生気を帯びた彼らの頬を横目で確認しながら、このような日は決まってそんなことを考える。どのように始まりどのように終わるのか。いつかこの世界が終わってくれるのだろうか。いや、始まってくれるのだろうか。何もかもが動いているが止まっている世界、社会。

 路地裏に入る。少し暗がりの場所だ。双方とも燻んだ色の大ぶりなビルとビルの間に僕は入ったのだから、多少の闇に身を包まれるのは当然だ。人は誰もいない。ここなら安全だろう。

 ほっと一息ついた。あのAI風情の連中とやっと距離がおけた。彼らは僕を異質なものとして認識している。ゆえに何か事が起きるたびに僕を痛めつけ排除しようとする。僕が彼らではない存在だと意識したその瞬間に。

 危害を加える対象から距離を取り少し落ち着いたせいか、腹からこの世の終わりのような断末魔の音が鳴る。

「クソ、なんでゲームの世界のはずなのに腹が減るんだ」

 僕は唇を噛み締めた。どうにもならない世界だ、現実だってそうだった。だが、現実では何かしらの努力でご飯くらいは食べることができた。しかしこの世界では――彼らの世界で働ける可能性がない僕には、たった一杯のかけそばさえ手に入れることが難しい。金はとうの昔に尽きている。かといって、現実世界とは違い僕にはなんら保護のような資格を与えられることはない。だから当然家だってない。その家なき子である僕がこの世界で餓死してしまったらどうなるのだろうか、ふとそんな答えのない疑問が頭を過る。

「もしかすると、餓死したら元の世界に戻れたりして……」

 ヘラヘラと心にもない笑いを頬に携え僕はそう言った。

「戻れるわけないじゃない。15%完了」

 そこで、突然そのような女の声が路地に鳴り響いた。

 不審に思い周囲を見渡したが、誰の姿も僕の目には入らない。

「とうとう腹が減り過ぎて、頭がおかしくなってしまったのか。僕ってやつは……」

 目をゴシゴシと擦りながら、僕は空へと視線を送った。太陽はビルの陰に隠れその輝きを若干失っている。古びた鉄の梯子の錆が上の方で見えた。ゆえに視界は何も問題はなさそうだ。耳がおかしいのかとも思ったが、大通りを走る車のクラクションの音は遠くの方からでもよく聞こえる。ということは聴力も問題ない。

「35%――どうしようもない男、続きがそうであるのであれば正解ね」

 と、また女の声。これは本当に末期症状かもしれない。すべてが問題ないのにもかかわらず幻聴が聞こえる。始まりだとか終わりだとか考えていたから、脳がショートしかけてしまっているのだろうか。いや、この世界の僕の頭の脳は実際には脳ではないのだから、脳がこんなところでショートするはずがない。ショートするような脳がここに存在するのであれば、僕はこんなところで地獄のような苦しみを味わっていないはずだ。

 そのような意味不明なことを考えていたが、少しの間もなく空間が歪んだ。

 やはり目までおかしくなっているのか。

 黒みを帯びたブラックホールのような穴を見つめながら、僕は絶望の淵に心が追いやられるような気持ちになった。

「よくこの世界で生き抜いてこれたわね、そんな体たらくで。今のところだけれど――50%」

 紺色のパーカーのフードに黒髪がたなびく様子が目に入った。とはいえ、まるでそれは幽霊が現れたかのように透けていた。

「まさか、幽霊――いや、ゴーストか。ここは元々ゲームの世界だから、幽霊よりゴースト……」

「どっちもゲームに出てくるでしょ、馬鹿ね。70%――それに幽霊なわけないでしょ」

 薄いカーキ色のTシャツを大きな胸に張りつかせた女が、僕の言葉を遮りそう述べた。今は透過が濃くなっており、彼女の全体像が先ほどよりはっきりと視認できる。鎖骨辺りを微妙に巻いて覆うようなシルク調の黒髪。Tシャツの上には単純に羽織っただけの青みを帯びた紺を基調としたパーカージャケット。下は少し丈の短い黒のショートパンツ。スラリとした足には軍隊が履いているようなオーソドックスとはかけ離れた黒のブーツ。整った顔立ち、大きな目、そして少しライトブルー気味な瞳が特徴的だった。

 彼女は黒い空間の中を浮くような体勢で、僕が立ちすくむ方へと寄ってきた。それはかなりの勢いで、風圧でぴったりと彼女の太腿に張り付いたショートパンツが、裾の部分だけスカートのようにめくり上がりそうになっている。

 何だ? 何かが見える。彼女の背後にあるその黒い空間には、モニターに映し出されたような複数の世界が走馬灯のように流れていた。何か見たことがあるものもその中にはまじっているように思える。当然、不思議に思った僕は、ジェットコースターのように後ろへと過ぎ去っていくそれらを目を凝らしながら見ようとした。

「いや、黒いと思っていたが、これはさらに黒の世界……」

 僕は呟いた。が、首をすぐに捻る。黒い何かの両端に透き通るような白い肌の内腿も見える。これはさすがに何かがおかしい。その黒い何かはどんどん大きくなっている。何だ? この漆黒の魔物は、というかこのままでは――僕はしどろもどろになってその場を右往左往した。

「IZUMI、100%ロード完了」

 そんな中、何やら決め台詞のような女の声が僕の身体の近くで聞こえた。

「――って邪魔よ。何で今そんなところにいるの! どきなさい」

 と、次の瞬間には荒がった声。

 そして、大股を開けてその女が僕の顔目がけて落ちてきたことに気がついたのは、倒れ込んだ地面において、女の両太腿で僕がマウントされた後のことだった。

「あれ? 何もない」

 為す術もなくその女の両股に顔を挟まれた僕はそうぼそりと呟いた。


「私は真橋いずみ。天才ハッカーよ。よろしく」

 女は立ち上がると同時に、軽く手をはたきながら挨拶をしてきた。

「何でもいいよ、そんなの……」

 僕は涙目になりながらそう返した。両方の頬が赤く腫れ上がっていることは鏡を見ずともわかる。自ら僕の顔に突っ込んできたくせに……何で僕がこんな目にあわなければならないんだ。それに何が天才だ、こいつ。

「助けに来てあげたのよ。何? その態度」

 薄く息を吐きながら、いずみと名乗ったその女はそう述べる。

「で?」

「……扇原孝介」

 助けに来たのか危害を加えに来たのかよくわからないことが若干不服だが、隠しだてする必要もないので僕の本名をそのまま伝えた。

「あなたの名前を言って欲しいんじゃないの、お礼を言って欲しいの。馬鹿なの? まあ、いいわ。それにしても、それでよく私に会うまで生き残れたわね。念を押すようだけれど」

 と、いずみ。

「な、何なんだおまえは……」

 僕は心の痛みと頬の痛みに耐えながら薄い苛立ちの声を漏らした。とはいえ次の瞬間には、突然現れたこの神経を逆撫でるする女の正体を一刻も早く導き出さなければならないと思う。

「……そう馬鹿なのね。必要もないのに天才ハッカーとわざわざ身分を明かしてあげたのにもかかわらず、それさえも耳に入っていないとは――そう、かわいそうな子なのね」

 いずみは首を振りながら、呆れ声を出した。

 これを聞いた僕は、彼女にすぐさま反論の声をかけようとしたが、彼女は人差し指を前に突き出し僕のその行動を制止する。

「話は後よ。存在に気がつかれた」

 短くそう告げるいずみ。彼女の手の中には、先ほど見た黒いブラックホールのような穴があった。とはいえ、前回のブラックホールと同系統のものに思えるがかなり小型だ。

「まさか……あいつらが」

 胸の鼓動の逼迫を抑えながら、僕は辺りを確認した。

「メタサイバーテクノロジー社が設計、この世界に送り出したユーザー駆除型NPC、通称カルメン。もう予想はついているだろうけれど、この街のすべてのNPCがカルメンなの。当たり前だけれど、メタサバイバーのユーザーじゃないわ」

 いずみがビルの上部に目をやりながらそう述べた。

「カルメン……? ユーザーじゃないなんてのはとっくの昔にわかってたけど、あいつらってただのNPCじゃないのか?」

 その上部の階段付近で隊列を組んだ街人たちを見つめながら、そう声を漏らす僕。それを合図にしたわけではないだろうが、一斉にその付近から僕たち目がけて飛びかかってくる彼ら。問答無用といった感じで、間接的にとはいえ長年共に過ごしてきた彼らの今まで見たこともない動きに僕は戸惑いを隠せなかった。

「ロード70%、先に準備を始めていて良かったわ。ベレッタきなさい」

 ショートパンツからはみ出る細い足を肩幅に広げ、僕の手前で仁王立ちするいずみの手の中に、黒光りを放つ銃身らしきものが現れる。

 ベレッタってまさか……そう思った僕がそれにさらなる意識を向けようとしたその瞬間、ぐしゃりと鈍い音が横から聞こえてきた。

 勢いをつけるためだろうビルの壁を蹴った彼らが、近くにいた僕の顔目がけて飛びついてきたのだ。主婦の格好をした女、杖を手に持つ着物を身につけた老人、シルバーの小ぶりなアタッシュケースを手にするスーツ姿のサラリーマン。三方向からそれぞれ僕に迫ってくる。

 この鬼気迫った彼らの姿に、僕は今まで感じたことのない恐怖を感じた。通常仕様であれば彼らは拳で僕を痛めつけるだけで、ある程度の攻撃を加えたら殺そうとまではせず放置する。しかし、今回は様子がまったく違った。全員が見たこともない大口を開けて僕の首元を狙って噛みついてきたのだ。

「100。間に合ったわ」

 必死にその場を逃れようと身を翻した僕の耳元で、いずみの薄い声音が鳴る。

 すぐに3発の銃声音。

 粉雪のような血飛沫が僕の目の前で飛び散った。

 そして、彼らは三者三様にその場に倒れ込んだ。

「逃げるわよ」

 動きを失った彼らを飛び越えながら、いずみが走り出す。

「に、逃げるってどこへ?」

 そう訊きながらも僕は彼女の背中へと続いた。

「そうね。棚元がいる通り――二番街。そこまで行けば別ルートに行けるわ」

 再びベレッタを前へと構えながら、いずみが言う。

「別ルート? どういう意味なんだ?」

 と、訊く僕。ビル同士の間にできた狭い通路の壁に身を寄せる。いずみ曰く、カルメンと呼ばれるこの街の住人たちに僕たちの姿を視認させないため、こうして隠密活動のような真似をしなければならないそうだ。B級スパイ映画のようでかなり恥ずかしい気がするが、現状そのような状態に追い込まれているので、そんなことは言っていられるはずもない。

「このゲームはメタサバイバー、メタサイバーテクノロジー社によって創生された電脳空間。それはあなたも知っているわね」

 そう僕に確認しながらいずみは前へと身をやった。と同時に、彼女の履いた厚いブーツの底が、薄くコンクリートを踏みしめる音をさせる。

「ああ、そうさ。そいつらのゲームのせいで僕はこんな目に合うハメになったんだからな。そりゃよく知っているさ」

 僕は鼻息をビルの壁に吹き付けながら言った。

 少し先には人の喧騒のような音がする。大通りを越えた先に二番街があり、その奥にはおそらくいずみが述べた棚元とかいう奴が待っている場所があるはずだ。

「私は現実世界にいる人間。あなたたちのようなエリアやルートに取り残された人間を救うためにこのゲームをハックしているの」

 そう短く述べると、いずみはビルの階段へと足を踏み入れた。どうやら上へと向かうつもりらしい。何をする気なのかはまったく不明だが、とりあえずカルメンたちから身を潜める算段なのだろう。

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