さよなら小学校

「……悪い、情けないところをみせた」


「いいんだってこれくらい。むしろ、もっと早くにこうしてあげればよかったな」


 ひとしきり泣いて、ようやく落ち着きを取り戻した俺は恥ずかしさでどうにかなりそうだった。

蒼空は何てことないと笑顔を見せているが、やはり男としてかっこ悪い。


「おーい朱星、連絡したら母親が迎えに来るって……ってどうしたお前ら」


「い……いえ、別に、何も?」


 そんな事を思っている内に、保健室の先生が帰ってきた。

蒼空がごまかそうとするが、きっと今の状況でそれは悪手だった。

乱れた俺の服、涙と鼻水でぐしょぐしょになった蒼空の胸元。

それらに目を向けたかと思えば、大きく首をかしげた。


「……はぁー、最近のガキってのはそこまで発展してんのか。やだやだ、全くもって嫌だねぇ」


「ちょ、違います! きっと先生の考えてることとは違いますから!」


 何故か顔を真っ赤にして否定する蒼空。

こういう話は確かにそっち系の本で見た事がある。

父さんが机の下にこっそりと持っていたから知っている。

傍から見るとそういう状況に見えたのだろう、死にたい。


「まぁお前らがどんだけマセガキだろうと構わねぇけどそこら辺しっかりしとけよ」


「だから違いますって!!」


 両手で顔を覆う俺の横で、蒼空の声が虚しく響いた。


 二十分ほどして、母が車で迎えに来てくれた。

軽く状況を説明する先生の隣で、蒼空が俺に話しかけてきた。


「じゃあ今日は中止になっちゃったけど、また野球やろうな!」


 彼女は車に乗った俺の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれていた。

蒼空はずっと優しいままだ、それが何だか嬉しく思えた。


「ねぇ、さっきの子は輝の友達?」


 二人きりになった車内で、母が口を開く。

それは単なる好奇心の中に何かこちらを試すような、そんな何かを含んでいた。


「……うん、友達だよ」


 本当だ。本当に蒼空の事は友達だと思っている。

自分の弱みを見せたのが彼女だけ、という意味では他の友達とは違う、何か特別なものではあるけど。


「そ、なら良かった」


 良かった、というのはどういう事なのだろうか。

俺の人生は、きっと母にとっては二週目の人生だ。

だから余計な所を省いて、捨てて、無かった事にして。

そうして尖る事ことなど無く、丸く綺麗におさめていれば立派な人生になると信じて疑わないのだろう。

父の呪縛から解き放たれても、結局母からは逃れられない。

首につけられた輪は、相も変わらず俺に自由な呼吸をすることを許しはしないのだ。


(……ごめん、蒼空。俺は無力だ)


 決められたレールに従って走るだけの人生。

そんなものがいいだなんてみじんも思わない、思ってなんていないけど。

それを打ち破ってしまうと、母まで俺をおいてどこかへ行ってしまいそうで。

だからこうしてどうしようもない現実にすがったまま生きている。

灰色に染まった空からはちらほらと雨が降り始めていた。


 次の日も、蒼空は俺の教室に来なかった。

風邪でもひいたのかと思ったけれど、確かに昼休憩に彼女の姿を見た覚えがある。

だからまた、彼女の教室へと迎えに行くことにした。

教室には確かに蒼空がいた。何やら机をふいているのが見える。


「ふう……これで大分綺麗になったかな」


「何がだ」


「うおっ、びっくりした! なんだ輝か! ……あー、ごめんな。ちょっと用事があってオマエんとこ行くのが遅れちゃって。大した事は無いよ? だからもうちょっと待ってくれるか?」


 そう言って蒼空は俺の視線からかばうかのように机を手で隠した。

ちらりと見えた机の端っこには、かすかに絵の具で何かが書かれているのが見えた。

蒼空が止めようとするのも気にせずに、その手をどけてみた先には。

絵の具で『死ねブス!!』と書かれた跡が残っていた。


「……これは」


 明らかにこれはいじめの痕跡だ。

彼女のクラスの担任は良く言えば穏健派、悪く言えば事なかれ主義だ。

だからいじめがある事を触れないようにしたのだろう。

ごまかしきれないと踏んだのか、蒼空が力なく笑顔をみせる。


「ははっ、女子ってくだらねーよな。わざわざこんな事の為なんかに朝早く来たってんだから」


「俺の、せいか」


 思い当たるのは、昨日の出来事。

あいつらは確かに「いじめ倒してやる」と言っていた。

まさかすぐに行動に起こしてくるとは思わなかったが、彼女らの仕業に違いない。


「違うよ」


「違わねーだろ。これは俺の責任だ。お前が望むなら、俺はあいつらを……」


「そんな事望んでない」


「ッでも! これは……」


「ありがとな。アタシの為に怒ってくれて」


 蒼空は変わらず笑顔のままだ。

……違うだろ。お前には俺に怒るだけの理由がある。

なのに何で、お前は笑っていられるんだよ。


「気持ちは嬉しいよ。でも手を出しちゃダメだ。どんな理由があっても、それだけはダメなんだよ。輝を悪者にしたくない」


 理解が出来ない。

なんでだ。なんでお前は、そう平然としていられるんだ。


「分かんねーよ……」


「ん?」


「何でお前はそんなに優しいんだよッ! 普通こんな事されたら怒って当然だろうが! やってきた奴らにも、その原因を作った俺に対しても!」


「いいんだよ、こんなもの屁でもないし。それにオマエは何も悪くないだろ? それで怒るほどアタシも子供じゃねーって」


 蒼空が手を伸ばして、俺の頭を撫でる。

その手の小ささが、温もりが俺を包み込んだ。

彼女は、まるで小さな子供をあやすかのように優しく微笑んだ。


「……ごめんな?」


「何でお前が謝るんだよ……もういい」


 お前がその気なら、俺だって勝手にやらせてもらう。

教室から雑巾を取り出して手洗い場で水を絞る。

そしてその雑巾で蒼空のいる机をふき始める。


「ちょ、いいって! これはアタシの問題だから、オマエが関わる必要は―――」


「……うるせぇ、お前だって勝手に俺のスペースに入り込んできただろうが。だったら、これは、あくまで俺が好きでやっている事だ」


「それはっ、まぁそうなんだけど」


「だったらお前に文句を言われる筋合いはないな」


「あっ……もう、ずるいなぁ」


 そんな彼女の呟きを無視して、黙々と机にこびりついた汚れを落としていく。

きっと俺は無力だ、無力だけど。

無力なりにもせめて、お前のそばにいる事だけは許してほしい。

お前がひとりぼっちだった俺をすくい上げてくれた時と同じように。


「……これが終わったら、また野球の練習をしよう」


「うん、そうだな」


 そして、季節は過ぎていき―――。


「あちぃ~、アイス食べてぇ~」


「……金ねーって言ってただろ」


「おごってくれよ輝」


「やだね」


 夏休みが終わって秋にさしかかるころには、反応しない蒼空に飽きたのか女子のいじめもめっきりなくなっていた。

それどころかいじめの主犯格とも仲良くなっていたのを見た時は自分の目を疑った。


「は? お前が打席に立つの?」


「そ! コーンを打者に見たてるのも飽きてきただろ? だからさ、今度はアタシが打席に立つよ」


「お前打てるのかよ、というか怪我してもしらないからな」


「心配しなくても、アタシ結構バッティングには自信あるんだぜ? さぁ来い! かっ飛ばしてやらぁ!」


 そしてそのまま冬が過ぎて、蒼空と出会って二度目の春が近づいてきた時。


「朱星輝!」


「はい」


 六年生で三月を迎えるということはつまり、卒業のシーズンだ。

といっても私立の中学に行かない限りはほとんどが同じ中学に進むことになる。

だから寂しさもそれほどないし、儀式の一種程度にしか思っていなかった。

受け取った卒業証書を片脇に収めて友人たちと思い出話に花を咲かせる。

思い起こせば色々あったような、そうでもなかったような。

でも、蒼空と出会ってからは忙しかったけど楽しかった。

こんなことを本人が知るとからかわれそうだから言わないけれど。


「輝、せっかくだから写真撮ってもらいましょ」


 母親に促されるまま、『卒業式』と書かれた札の前で写真を撮ってもらった。

笑顔でカメラに映る母と違って、俺はあまり上手く笑顔を作れなかった。

いつ俺は、自由になれる?

ママ友と楽しそうに会話を交わす母親の姿が、自分には疎ましく思えた。


「ひ―――か―――る―――!!」


 沈んだままの俺の背中に抱き着いてくるやつがいる。

振り返らずともその声と行動でそれが誰かなんて簡単に分かる。

抱き着いてくるのも、ある程度慣れた。

そんな事をしてくるのは、一人しかいない。


「蒼空か。相変わらずテンション高いな」


「へへっ、そう見える? まぁ卒業だからな! そりゃあテンションの一つや二つ上がって当然だろ?」


「そんなものか……?」


「って違う、そうじゃなかった写真! 写真撮らないと!」


「いや、別にいいだろ……俺たち同じ中学に進むんだし」


「だとしても記念は大事だろ! おーい父ちゃん、写真撮ってくれー!」


 蒼空が父ちゃん、と呼んだ先にいたのは熊と見間違えるように大きな男だった。

主に腹が。ずんぐりむっくりとした体型から、おう、と低い声が漏れる。

そして肩に下げたいかにも高そうなカメラをこちらに向けてきた。


「じゃあ撮るぞー、はいチーズ」


「いぇーい!」


「い……いぇーい」


 蒼空は俺に肩を寄せながら満面の笑みでピースサインをする。

後で写真を見たところ、俺の顔は少しばかり引きつっていた。

けれど母と撮ったあの写真よりは、ずっと楽しそうな顔をしているように思えた。


「サンキューな輝! じゃあアタシ他の子に写真撮れないか聞いてくるー!」


「気を付けていって来いよ。転ばないようにな」


「分かってるって父ちゃん! じゃあ行ってくる!」


 母はまだ他の母親たちと話しているようだ。

女性の立ち話は長いと言うが、それは俺にとってはありがたい事だった。

ぽつん、と俺と蒼空の父親だけが二人残される。

知人の知り合い同士がいる中ほど気まずい空間もそうない。

何を言うべきか、いやあえて何も言わないのが正解なのか。

そんな空気を察したのか、蒼空の父親は優しい声で話しかけてくれた。


「君の事は晴から聞いてるよ。何でも将来有望なピッチャーなんだって?」


「え、そんな事言われてるんですか。……別に、ちょっとキャッチボールしてただけですよ」


「はっはっは。晴は家でいつも君の話をしているからなぁ」


 それはなんだか、むずがゆい感じがする。

俺の話なんかでそんなに盛り上がる事もないだろうに。


「あの子は度を超えて優しい。人のせいにする事なんか滅多にないし、他の誰かを守ろうとする子だ」


「……」


「だけど、いや、だからこそか。あの子の父親としては心配なんだよ。人に対しては優しい癖して自分の事は後回しで、鈍感だ」


「それは、知ってます」


「晴は人に助けを求めようとしないだろ? 見ていて危なっかしいんだよああいう子は。いつか何もかも全て自分のせいにして、どこかへ消えてしまいそうで」


 その通りだ。蒼空はいつだって他人の事を尊重していた。

俺が泣いたあの時も、いじめられていた時だってそうだ。

でもそれは、彼女自身の犠牲の上に成り立っている話だ。


「君には感謝している。君の話をする時の晴はいつも楽しそうだ。だからどうか、中学生になってもあの子と仲良くしてやってほしい」


「……はい」


 うなずく俺を見て、蒼空の父親は満足そうに微笑んで俺の頭を撫でた。


「そう言ってくれて嬉しいよ」


 その後丁度タイミングを見計らったかのように蒼空が友達を連れてきた。

聞かれていたか? いや、そうじゃないと信じたい。


「おーい父ちゃーん、写真……って二人で何話してたんだ?」


「別に、大した話じゃねーよ」


「そういう時は大体重要な事話してるってどっかのドラマで聞いたような……」


「あーもううるっせえ! それよりも写真撮るんだろうが」


「ってそうだ写真! 頼む父ちゃん!」


「ああ」


 じゃあまたどこかで、と話す蒼空の父親に会釈して歩き出す。

春からまた忙しくなりそうだな、なんて呟きを暖かな空に残しながら。











 





 












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