呪いが解ける時
「よし、じゃあ今日からは実際に運動してみよー!」
図書館に通うようになってから二週間が過ぎたころ、蒼空が言い放ったのはそんな言葉だった。
「……はぁ」
俺が着いていけていないのを分かっているのか、彼女は矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。
「ルールもざっと分かっただろ?あ、今はまだ何となくでいいよ、やりながら慣れていけばいい!」
「……まぁ、それでいいなら」
「さて、ここまで勉強したのは理論だ。まぁ学び続けるのは当たり前として、本音を言っちゃうと体を動かしてみるのがやっぱり一番勉強になるし、それが出来ないと話にならない! だからさ、今日からは実行の時だ!」
というわけで、やろう! と蒼空がビシッと自分の事を指差す。
野球の本に加えて「足が速くなる」とか「体が柔らかくなるストレッチ法」とかの本を俺に見せてきたのはそういう理由か。
まぁ言っている事には一理ある。
俺は運動面で言えば投げる事以外に関しては健康的な一般男児と変わらない。
だからまずは体作りから始めようというのは理にかなっている。
「運動するったって言っても、何から始めるんだ?」
「ふっふっふ、よく聞いてくれた! 時に輝! スポーツにおいて一番使うのが多い体の位置はどこだと思う?」
「何ってそりゃあ、腕じゃねーの」
「惜しいな! 非常に惜しい! 正解はな、ここだ!」
彼女は足を上げ、そこを指差して見せる。
スカートの中身がほんのちょっとだけ見えたのは内緒だ。
そんなはしたない事するこいつが悪い、うん。
「メジャーなスポーツは、基本足を使う事が多い。というわけで足から鍛えよう! まずは持久走! ここからいつもの公園まで速く着いた方がジュース一本な! それじゃスタート!」
「……は?」
そう言って彼女はランドセルを背負ったかと思うと、駆け足で飛び出した。
まだ意味を理解できていなかった俺だけがポツン教室に残される。
「ちょっ、おい汚ぇぞテメェ!」
「へへーんだ、悔しかったらこっちまでついておいでー!」
言葉の意味をようやく咀嚼し終わった俺も遅れて走り出す。
かなり先の距離では蒼空が挑発的な笑みを浮かべているのが見えた。
あの野郎、絶対追い抜いてやる。
俺の中で小さな闘志が燃えていた。
教師の「廊下を走るんじゃない!!」という怒号すら俺たちの耳には入らない。
二人の長距離追いかけっこは、結局学校を出てからも続いた。
「ぜぇ……ぜぇ……あんなにリードがあったのに追いつかれるってマジかよ……」
「そっちこそ、ぜぇ……女子相手に抜かせないわけ……?」
公園まであと100m。二人の戦いは熾烈を極めていた。
とはいえお互いペース配分を間違った結果、ペースは非常に遅い。
もはや戦いはスピード勝負だけでなく舌戦にまで発展している。
視界に公園の入り口が映った。
デッドヒート、なんて言えたものじゃない。
俺も蒼空も既に体力はすっからかんだし、最早気力と対抗心だけで走っている。
特別、ジュースが欲しいというわけじゃない。
ただこいつには負けたくない、それだけだ。
一歩でも早く、遠く、足を進める。
蒼空も思う所は同じなようで、必死に足を動かしている。
俺と蒼空、公園にたどり着いたのはほぼ同時だった。
二人とも少し歩いた所で大の字になって寝転がった。
息の切れた二人の呼吸音だけがやけに大きく響く。
「……ぜぇ、ぜぇ。それで、今の場合はどうなるんだ」
「そうだね、今回は……けほっけほっ。お互いの健闘を称えてお互いジュースを奢り合うことにしよう」
「お前だけ高いの選ぶとかはなしだからな」
「……ちぇっ、ばれたか」
「ぷっはー! 生き返った~!」
蒼空が缶ジュースを飲み干し、感動するように声を上げる。
まぁ、確かに運動した後のジュースはとても美味い。
一つ注文をつけるとするなら、冬なのに冷たい飲み物は冷えるという事か。
「…それで、次は何をするんだ」
「引き続き足を鍛えるぞ!使うのはこれ!」
そう言って彼女がランドセルから取り出したるは二つのストップウォッチ。
ああ、なるほどそういう事か。
「今度は短距離走だ! ここから向こうまでおよそ50m、その速さを計るぞ!」
「それはいいとして、誰に計ってもらうんだよ」
「あっ……」
嘘だろ、考えてなかったのかよ。
蒼空は少し考え込んだかと思えば、たまたま公園の端っこにいた小学生二人に声をかけた。
何やら話し込んだのち、息を弾ませながら帰ってくる。
「飴ちゃん二つでやってくれるって!」
「お前いつも飴を持ち歩いてるのかよ」
何はともあれ、準備は整った。
スタートラインを木の棒で引いて、そこに一人目が合図をする。
そしてゴールではストップウォッチを持ったもう一人が待機しているというわけだ。
「行くよ? よーい……スタート!!」
先に勢いよくスタートを切ったのは蒼空の方だった。
くそ、負けるか。
足は地面を蹴り飛ばすように、腕は大きく振る。
本で教わった事を頭の中で繰り返し、ひたすらその背中を追いかける。
そうして30mを過ぎたあたりで、ついにその背中を追い抜いた。
そのまま速度を保ったまま、ゴールを駆け抜けた。
カチリ、とタイムを止める音がする。
少し遅れて蒼空がゴールの線にたどり着いた。
「お兄ちゃんは8.1秒! お姉ちゃんは……」
なんだ、やれば結構速く走れるじゃん。
そして蒼空のタイムが言われる前に、彼女の声がそれを遮った。
「待って、ちょっと待って! 見せなくていい!」
「いいだろ、別にタイムくらい」
「何見ようとしてんだこの変態ッ!」
彼女の表情はいつになく必死だ。
そんなに恥ずかしいか?
たかが50m走のタイムを見るだけなのに変態と呼ばれるのはどうなのか。
「へんたっ……いやそれは全く関係ないだろ」
「お姉ちゃんのタイムは9.2秒だよー」
「なっ、こ、このクソガキィ……!」
「やめとけ、大人げないぞ」
スマホのように震える彼女の肩を叩いてやる。
数年こっちの方が早く生まれてるんだから余裕を持ってやれよ。
「……幻滅したか」
ふと、蒼空が呟く。
「はぁ?」
「誘っておいて足が遅いなんて、アタシの事幻滅したか」
足が遅いかどうかは分からないが、多分彼女の速さは平均的だ。
遅くはないが、速いというわけでもない。
だから別にそれでいいと思った。
「それくらいで幻滅するならこんな練習に付き合ってない」
「オマエ……、そうだな! まぁアタシはキャッチャーだし? 多少足が遅いくらいいいよな!」
「それで、これからどうするんだ」
「そうだな。これからは……ひたすら練習する!」
それからは時間が過ぎるまであっという間だった。
キャッチボールやダッシュなどの基礎的な練習を毎日のように繰り返す。
そして図書館で気になる本を探しては実際に試してみる。
その成果が出たのか、六年生の時の50m走のタイムは8秒を切るようになっていた。
「お前、そんなに足速かったっけ……」
「あー……、まぁうん。速くなった」
友人には珍しい物を見るかのようで見られた。
外面では平静を保っているが、内面では嬉しさで飛び跳ねたい気分だ。
だって学年の中でもかなり速い部類に入ったのだから。
けれどその水面下で何かが起こっていることなど、思ってもみなかった。
その日、いつも通りの時間に蒼空が来なかったので、自分から彼女のいる教室に向かおうとしていた。
結論から言えば彼女は廊下にいた。
他の女子たちに囲まれていたのだ。
助けに入ろうかと思ったが、それで大事になるのは避けるべきだ。
「ねぇあんたさ、何で朱星なんかとつるんでるわけ? あんな奴暗いしうじうじしてる奴に。あ、もしかしてさぁ、同情してやってんの?」
「キャハハ、カワイソー!」
(俺の、話……?)
いよいよこれで顔を出せなくなった。
盗み聞きなど到底褒められるような行為ではない。
それは分かっている。
ただ、蒼空が何を答えるのか、その好奇心の方が勝った。
「話ってそれだけか?」
「はぁ?」
「別にアタシは同情なんかしてない、一緒にいたくてそうしてるだけだ。オマエらにはそう見えるのかもしれないが、だとしたら……可哀そうだな」
蒼空の目は絡んでくる女子たちに対する侮蔑でもなく、本当に彼女らを憐れんでいるように見えた。
じゃあ、もういいか? と蒼空は女子たちの間を通り抜けようとする。
それを聞いた女子たちの耳までもが真っ赤に染まっていった。
「はぁ!? 調子乗んなよ! あんたの事いじめ倒してやるから! 二度と学校に来れないように!」
「あっそ、どうぞお好きなように」
手をひらひらと振りながら、蒼空はその捨て台詞を背に受けた。
そして廊下を曲がった所で、俺と視線がかち合った。
「おわっ、何でここにいるんだ輝!? ……まさかとは思うけど、さっきの会話聞いてないよな?」
一瞬、どう答えるべきなのか迷った。
聞かなかった、と言った方が彼女のプライドを傷つけないのかもしれない。
だけど彼女に嘘をつくのは、それはそれで違うんじゃないかと思った。
「……ごめん、聞いてた」
「そっか。そっかぁ……」
だったらもっとガツンと言ってやればよかったなぁ、と彼女は苦笑いを浮かべる。
「何でだよ」
「ん?」
「何で俺に対してそんなに入れ込むんだよ。俺は……お前の思っているほど出来た人間じゃない。いじめられる位なら……俺なんかと付き合うべきじゃ」
「誰と付き合うかなんてアタシが決める事! そこで輝が悩む必要なんてないよ。それに、まぁさっきの質問に強いて答えるなら……まぁオマエが良い投手になる、と思ったから! どう? これじゃダメか?」
『お前はもしかしたら良い投手になるかもな』
その声が、かつての父の低い声と重なった。
目まいがして、足元の様子すらおぼつかなくなる。
俺、どうやって呼吸していたんだっけ。
そんな単純な事さえも思い出せない。
ひたすら息苦しさにもだえ、視界が黒く染まっていく。
「……輝? おい輝!? どうした、しっかりしろ!」
―――お前も、そんな顔するんだな。
その思考を最後に、俺の意識は途切れた。
夢の中で俺は、父とキャッチボールをしていた。
お互い笑顔を浮かべながら、楽しそうに。
でも次第に父の顔からは笑顔が消えてどんどん遠くなっていく。
行かないでよ、父さん。
夢の中だからなのか声すらも出ない。
……俺は、父さんにとって邪魔にしかならなかったのか。
次に目が覚めたのは、保健室のベッドの上だった。
「目が覚めたか輝!……はぁ~、もう、死んでるのかと思った~!」
「んな大げさな。よし、痛い所はないか。目まいは」
「ないです」
「オッケー。目ぇ覚ましたことだし、そんじゃ親御さんに連絡してくるわ」
ちょっと怖い雰囲気の先生が、俺の状態を確認すると保健室を出ていった。
保健室といういつもとはどこか違う空間に、俺と蒼空の二人が残される。
「心配したんだからな!何たって突然倒れたんだから。あっ、まだ起きなくていいぞ!」
「大丈夫だ、問題ない」
「……アタシのせいか? アタシが余計な事を言ったのが良くなかったか?」
「違う、お前のせいじゃない」
「でも! でも輝、今すごく泣きそうな顔してる」
蒼空はじっとその茶色い瞳をこっちに向けていて。
何だか心の奥底を見透かされているような気がした。
「初めて会った時からずっとそう。輝はずっと辛そうな顔してる」
「そんな、事は……」
「無理しなくていい。今ここにいるのは輝とアタシだけだ。アタシじゃ足りないかもしれないけど、ここなら泣いていい」
いくら上手く取りつくろうとしたって、結局子供は子供だ。
多分、ずっと前にもう限界を迎えていたのだと思う。
その言葉で、抑えていた感情が決壊した。
「あ、あああ……うああああああああああああ!! 父さん、父さん……!!」
幼児のように泣きじゃくる俺の事を、蒼空は何も言わずにただそっと抱きしめて背中をさすってくれた。
鼻水や涙で服が濡れてしまう事など全くいとわずに。
ずっと泣いている内に、心にまとわり続けた
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