勉強会

 確かに俺はまた蒼空とキャッチボールがしたいと思った。

それは事実だし、今さら否定する気もない。

だけど。だけどさぁ。


「おーい、輝ー! 野球の勉強しようぜー!」


 そのすぐ翌日のお昼に自分の教室にまで来るとは、流石に思ってもみなかった。

木曜日、給食や帰りの会を終えて帰ろうとした時には現れた。

ランドセルを背負い、水色の髪を揺らしながら息を荒げて教室のドアを開けたのだ。

驚いて筆箱の中身をぶちまけそうになったのを慌ててキャッチする。

昨日から思っていたが、やっぱりなんなんだこの女は。

これが少女漫画の世界ならば「おもしれー女」となるかもしれないが、現実はそうはいかない。

というか正直な所怖い。


「あれ、いない!? おっかしーなー、このクラスにいるって聞いたはずなんだけど」


  幸いにも机に突っ伏した姿勢になったため、自分がいるとばれていないらしい

どうしよう、最悪このままやり過ごそうか。

ってどうして俺は彼女を避けているんだ。

でもここまでグイグイこられると流石に怖いし、仕方がない。

仕方がないのだ、と心の中で言い訳する。


「あ、なんだいるじゃん! そんな姿勢でどうしたの、何か辛いことでもあった?」


 そんな言い訳も虚しく、あっさりと彼女は俺のことを見つけてみせた。

こうなってしまってはもうごまかしもきかない。

心の中で腹をくくって、ゆっくりと上半身を起こす。

そして席を立ちあがって、彼女の元へと歩き出した。


「……何で俺だとわかった」


「えー聞きたい?ねぇ聞きたい?」


 質問して後悔した。聞くんじゃなかった。

そんなこっちの冷たい視線を知ってか知らずか、彼女は鼻高々と話を続ける。


「それはね、オマエとアタシが心の繋がった魂のバッテリーだから! 相棒のことなんてちょっと探せばすぐに見つかるってもんよ!」


「うさんくさっ」


 そんなクサい台詞でときめくほど俺は、いや現代の小学生は甘くない。

というか昨日ちょっと投げ合っただけだろ。

それよりも早く理由を言えよ、と目で訴える。


「まぁ本当のこと言っちゃうと、赤い短髪をした男子なんてこのクラスじゃオマエしかいないからな!ほら、観察眼もキャッチャーにとっては大事な要素だからさ!」


「分かった、分かった。もういい。……それで何だよ野球の勉強って」


「あ、オッケーそっちの話ね。輝ってさ、キャッチャーミットの事も知らなかったでしょ?だからこれから野球したいなら、まずはそこの勉強からはじめようと思ってさ」


 何の話をしているんだこいつは。

俺は野球がしたいなんて一言も言っていないぞ。


「いい、いらない。野球なんてやるつもりはない」


「え~、でもボールを投げてる時の輝、すごく楽しそうだったぞ? あんまり野球のこと知らないだけで、本当はやってみたいと思ってるんじゃないの?」


 その一言で、思わず言葉に詰まる。

思いもよらぬところから核心を突く発言だったからだ。

俺は野球に関する知識なんて全く持っていない。

せいぜいボールを速く投げる方法を調べたくらいだ。

けれどあの時、ボールを取ってくれた蒼空のあの笑顔が、頭からずっと離れない。

それと同時に心に刺さった不安の棘がチクチクと痛んだ。


「……通用すると思うか?」


「え?」


「俺が野球をやったとして、通用するとお前は思うのか?」


 振り返ってみれば、あの時の自分は相当不安そうな顔をしていたと思う。蒼空は少しの間キョトンとした後、頬を膨らませたかと思うと、耐えきれなくなったのか吹き出した。


「プッ……アッハハハハハ!!」


「何がおかしい」


 俺の質問にも答えず、しばらく彼女は笑い続けた。

目に涙をためながらひとしきり笑った後、彼女はにこやかに話し始めた。


「いや、そうだよな! そう思う人間もいるよな!」


「……?」


「まぁ自分が優れているかどうかは置いといてさ、大事なのはココだぜ」


 そう言って彼女が親指で叩いて見せたのは、自らの左胸。


「オマエはさ、自分に向いてると思ったら何でもやるのか?」


「……そりゃあ、そうとは言い切れないけど」


「だろ?自分に向いてるかも確かに大事だけどさ、やっぱ一番大切なのは自分が何をやりたいか! んで自分に正直にいること! 輝がもし野球に興味持ってんならさ、ちょっとでいいからやってみねーか?やってみて諦めるもよし、続けてみるもよし!全部オマエが決めていいんだぜ、輝!」


 まるで大輪をほころばせるような、眩しい笑顔。

目がくらみそうになるその表情に、心の中で凍り付いていた何かが溶かされていく。


「俺なんかが、野球をやっていいのか?」


「言っただろ? 自分に正直にいる事こそ一番! オマエがやりたいと思うなら、その本能に従えばいい!」


 完全にこちらの根負けだ。

認めるよ、心のどこかで野球をやってみたいと思っている自分がいることに。


「……仕方ない、付き合ってやるよ。その代わり、飽きたらすぐに辞めるからな」


 俺の言葉に彼女は呆気にとられた様子で固まった。

それから言葉をゆっくりと理解したのか、段々と目を輝かせていく。

それから俺の両手をとって、ブンブンと振り回し始めた。


「本当かッ!? 本当の本当に、本当なんだな!?」


「ちょ痛い痛い痛い、本当だから一旦その手を離せ」


「あっ悪ぃ悪ぃ、ちょっと興奮しちゃって。それよりさ、付き合ってくれるんだろ!?んじゃ早速行こうぜ!」


「行くってどこに?」


「決まってんだろ!」


 そう言って彼女は教室の外を指差す。

とはいっても具体的にどこを指しているのかは全く分からない。

乾いた冷たい風が、頬を撫でた。


「……いや、どこだよ」


「図書館だよ!」



 図書館に行くのはこれで4度目くらいか。

夏は冷房、冬は暖房がよく利いているこの場所は、時期によっては学生だけでなく、高齢者たちにも勉強の場、憩いの場として人気がある。

というのは数少ない友人から聞いた話だが、その言葉通り席は老若男女でほとんど埋め尽くされていた。

俺はそこまで本を読むのが好きじゃないから半信半疑だったが、この人の数を見ればそれは本当の事なんだと思い知らされる。


「……埋まってるな」


「そうだな、だいぶ埋まってんね~。あ、でもほらあっち空いてるぞ輝!」


 蒼空の視線の先には確かに二人分だけ空いている席があった。

我先に、と何の遠慮もなく彼女が座った。


「ほら、早く輝も座った座った! 早くしないと誰かにとられちゃうぞ?」


 空いた隣の席をポンポンと叩きながら、彼女が微笑む。

促さるがままに席についた俺に、一つ疑問がわいた。


「野球を教えるって、お前から教わるのじゃダメなのか?」


 彼女は本を探そうとしていたのだろう。

立ち上がった姿勢からピタリと止まり、少し考える仕草を見せた。


「あー、うん。それも考えたんだよ。考えたんだけどさ」


「けど?」


 首を傾げた俺に、彼女はばつが悪そうに頬を搔きながら呟くようにいった。


「アタシが教えるよりもさ、やっぱり専門の人が教えた方がいいのかなって。ほら、本だと写真で分かりやすく説明してくれるしさ」


「……そうか」


 俺は驚いていた。

自分の事を配慮してくれていた彼女にではなく、彼女に教えてもらえないのをどこか残念だと思っている自分がいる事に。


「まぁそれでもさ、分かんない所があったら聞いてくれよ!自慢じゃないけど野球の知識には自信あるからさ!」


 右手をサムズアップして、彼女は一足先にスポーツ雑誌コーナーへと向かっていった。

さて、自分も本を探しに行くか。

ランドセルを目印代わりに置いて、スポーツコーナーへの棚へと足を運んだ。

棚には野球だけじゃなく、サッカーやバスケットボール、しまいにはカバディ? なんて名前すら聞いたことのない本もあった。

カバディ以外は体育の授業で何度かやったことがある。

野球は投手無しの状態だったけれど。

それでもサッカーもバスケットボールも、自分を引き付けるものにはならなかった。

たまにやるならいいかな、程度の認識だ。


 野球の本を手に取って少し中身を確認しては棚に戻していく。

分厚い本はきっと途中で読み疲れてしまうから、できればそこそこの厚さで。

それでいて、野球がざっとどんな競技なのか分かるような本がいい。


「『十五分で分かるベースボール』……これにしよう」


 見たところ、最近の本らしくページ数もそれほどあるわけじゃない。

何より『十五分で分かる』という部分が気に入った、写真もあって分かりやすいし。

席に戻って本を読み始める。

なるほど、野球のグラブはポジションによってそれぞれ違うのか。

前に蒼空が見せてくれたキャッチャーミットに加え、ファースト用のミット。

それに投手や内野手、外野手でも使うグラブは違うらしい。

俺が持ってるのは投手用だと思う。

でもルールは難しいな……結構複雑だし、覚えるのに時間がかかりそうだ。


「ひ、輝ー! 手を貸してくれ!」


 呼ばれて振り返ったその先には、本や雑誌を自分の身長より高く積み上げた人間がいた。

バランスが悪く、今まで落とさなかったのが不思議なくらいだ。

顔は本に隠れて見えないが、話し方や声からして蒼空なのだろう。

というか、こんなところで自分に話しかけてくる人間なんて彼女しかいないか。

ってそんな事を考えている場合じゃなかった。

一番高い所に置いてあったいくつかの本を持ってやると、ようやくバランスを取り戻したのか、彼女はゆっくりと本を机に置いた。


「っぷはー助かった! もうちょっとで大惨事になるところだった! ありがとな輝!」


「そんなに一気に持ってこなくても良かったのに」


「アタシもそのつもりだったんだけどさ、色々探してるうちにあれもいいな、これもいいな、ってなっちゃって」


「……それでこうなったと」


 俺の隣の席に積みあがった本の山を見る。

どの本も野球に関するものだ。

本当に野球が好きなんだな。

それにしたって量が多すぎるが。


「あ、今オマエ、アタシの事馬鹿だと思っただろ! 失礼な! ちゃんと全部読むし!」


「何も言ってないだろ。それにしても、キャッチャーって大変なんだな。グラブ違うし、危ないポジションらしいし。防具も多いから親を説得するのも大変じゃなかったのか?」


 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ彼女の表情が曇った。

けれどもすぐに元通りの笑顔に戻ったので、きっと気のせいなのだろう。


「……まぁな! でも奥が深くて楽しいんだぜ! それより見てくれほら!アタシが今一番好きな鬼怒川竜牙きぬがわりゅうが捕手! この人に憧れてアタシはキャッチャーを始めたんだ!」


 そう言って彼女が指さした雑誌の表紙にいたのは、強面で髭を生やした若い男だった。

もし野球選手という前情報が無ければ暴力団の人間かと間違ってしまうほどだ。

最近の女子はこういう男の方がいいのか?


「この選手は凄いんだぜ! バッティングも上手いし、何より肩が―――」


 興奮気味に語る蒼空の肩を誰かが叩く。

何事かと言われた彼女の顔が、一瞬にして凍り付く。

それに気づいた俺も同様に動けなくなった。


「お嬢ちゃん、ここ図書館だから。ちょっと静かにしようか」


「ハ、ハイ……」


 手の主は恐らく図書館の職員であるおばちゃんだった。

まさに有無を言わせぬ威圧感で、あの蒼空を黙らせてみせた。


「……ごめん、静かにしようか」


「……おう」


 図書館の中で今日は色んな事を学んだ。

その中で一番参考になったのは。

おばちゃんは強い、ということだ。


「ただいま」


 図書館で蒼空と別れて家に帰るころには、既に時計の針は六時を回っていた。

あたりはもう真っ暗だ。

キッチンでは母が夕食の準備をしている。


「お帰りなさい、遅かったわね」


 母の表情は見えない。

その声さえも、どこか無機質に感じた。


「……図書館で友達と勉強しててさ、気づいたらこんな時間に」


 嘘はついていない。

国語や算数の勉強ではないが、確かに勉強はしていたのだから。


「そう」


 母の声に生気が戻っていく。

振り返ったその表情には、にこやかな笑みが浮かんでいた。


「たくさん勉強するのよ。それでいい会社に入って、お母さんのこと支えてね」


 そう言った後、包丁で野菜を切る音だけがリビングに響く。

父と離婚してから、母は二言目にはこう言うようになった。

子供というものは意外と聡い。

この空気で「野球がやりたい」なんて言えるほど、空気を読めないわけがない。


 その日の夕食は、あんまり味がしなかった。











 



 
















 

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