赤と青のバッテリー

砂糖醤油

プロローグ

 昔から、キャッチボールが好きだった。

ボールをグラブに収める音、互いが互いの事を考えながら投げるその行為は、普段希薄だった人との繋がりをはっきりさせてくれるものだったと思っていたからだ。

それに、父が唯一褒めてくれた。


「お前はもしかしたら、将来いいピッチャーになれるかもしれないな」


 始まりは気まぐれで父が買ってきたグローブとボールだった。

それはほんの冗談だったのかもしれない。

しかし、言葉はまじないになる。

誰かに褒められるという事は思った以上に人を突き動かすものだ。

勉強は得意ではないし、これといった長所もなかった自分にとってその一言は天啓にさえ思えた。


 父にもっと褒めてもらいたかった。頭を撫でて欲しかった。

だから、その一心で練習した。父がいない日は壁に向かってボールを投げ込んだ。

それだけじゃない。図書室に通っては、投げ方のコツを勉強した。

「一人でずっと壁打ちするなんて変なヤツ」なんて周りで遊ぶ子供たちに言われてもちっとも気に留めなかった。

だって休日になれば、父がキャッチボールに付き合ってくれるから。


 練習を続けるようになって半年後、少しだけボールを速く投げられるようになった。

だけどそのころには、父の表情からは笑顔が消えていった。

キャッチボールをしようと言っても、3回に1回くらいしか付き合ってくれなくなった。

その代わり、家で母と喧嘩する事が増えた。

時には夜遅くに父の怒鳴り声で目が覚める日もあった。

不思議で仕方がなかった。父も母もあんなに仲が良かったのに。

でも、仲がいいからこそ喧嘩をするのだと思っていた。

だからきっと今は少し風向きが悪いだけ。然るべき時が来れば仲直りして元通りになる。

そう思ってベットの中で布団にくるまって願った。早くその時がきますようにと。


 そんな淡い幻想は、儚く散った。

いや、正しく言えばもう既に終わっていたのかもしれない。

本当は傷つきたくなくて、気づかないふりをしていたのだ。

父からする、母ではない誰かの香水の匂いに。

父の首の後ろについた、唇の痕跡に。

隠す気などないに、まだ子供ながら吐き気がしたのを覚えている。


 ある日、いつものように壁当てを終えて帰ってきた俺を迎えたのは両親の怒号だった。

それだけなら慣れた事だったし、まだ良かった。

二人の間にぽつんと置かれた白紙に目が届くまでは。

『離婚届』と黒い太字でプリントされた文字の下には、確かに二人の名前が書かれていた。

その意味が分かった途端、全身に寒気が走った。


「アンタ、ひかるの事はどうすんのよ!!」


 半狂乱で母が父に叫んだ。

父の顔は隠れて見えなかったが、ため息をついていたらしく肩が大きく上下したのが見えた。


「お前に任せる。好きに育てればいいさ」


「好きに育てればって、そんな無責任な……!」


「もうお前らにはウンッザリなんだよ!!」


 父が頭を掻きむしって叫ぶその姿は、今まで見た事が無かった。


「十分付き合ってやったろ! お前にも!輝にもだ! お前の小言だってずっと我慢して聞いてやってたし、休日は休みたいのに輝のキャッチボールも相手してやった! これ以上俺から何を奪おうっていうんだよ、なぁ! もういいだろ!好きに生きさせてくれよ! ……養育費は払ってやるよ。それで勘弁してくれ」


 振り返った父と目が合った。父は先ほどまでの感情が嘘だったかのように優しい笑みを浮かべる。

しかしその目は、おおよそこの世のモノとは思えないほど冷たかった。


「なんだ、帰ってきてたんなら言えよ輝。まぁ丁度いいや。父さんな、離婚することにしたんだ」


「離婚って……」


 待ってよ。

そう言いたいはずなのに言葉が出ないのは、父の心がもう離れているのを知っていたからなのだろう。


「父さんはお前と離れ離れになる。これからは母さんの事を聞いていい子にしてるんだぞ」


「……もう父さんとキャッチボール、出来ないの?」


「……うるせぇんだよ」


「え?」


「うるっせえんだよ! どいつもこいつも人の事情を考えもせずに好き勝手言いやがってよぉ! 大体キャッチボールなんて何の面白みもないモンにいつまでも付き合わされるこっちの身にもなれよクソが!」


「アンタ、もうやめてよ! この子は何も悪くないじゃない!」


 その言葉で、自分の中の何かが音を立てて壊れた。

キャッチボールが好きだった。

その間は、相手との心を繋ぎとめる事ができると思っていたから。

でも、それはとんだ間違いだったのだ。

だってずっと一緒にいて、キャッチボールをしてくれた父の心すら離れていくのだから。

その後の事はよく覚えていない。

ただ、気づいた頃には父の姿はもうなかった。


 それから母は、俺に勉強ばかりやらせるようになった。

「あなたは公務員になって、安定して働くのよ。間違ってもお父さんみたいにならないでね」を口癖に、俺の事を操ろうとしていた。

あの時自分は、どうすれば良かったのだろう。

ただ何も考えずに従うのが正解だったのだろうか。


 そう言われても、合間を縫って壁当てだけは続けていた。

こんな事をする意味など何もないのかもしれない。

だけど、もう一度だけでいいから父とまたキャッチボールをしたくて。

父が褒めてくれたという事実にすがるようにひたすら投げ続けた。

言葉はまじないとなり、そしていつしかのろいとなっていた。


 その頃は、はっきり言って地獄だった。

常に誰かに縛られ、自分の人生を歩んでいる気なんてちっともしなかった。

まるで出口の見えないトンネルに、鎖を繋がれて歩かされているような感覚。

このまま母の言いなりになったまま、一生を終えるものだと思っていた。

そんな俺に光が差し込んだのは、ある雪が降る日の事だ。


「なぁ、オマエ。ずっと一人で壁に向かって投げてるよな」


 最初にかけられたのは、確かそんな言葉だったと思う。

壁当てをしようと公園で準備をしていた俺に声をかけてきたのは、見知らぬ少女だった。

さらさらとした水色のポニーテールに、丸くて青い瞳。年は自分と同じくらいか。

身長は自分よりも少し低め。白くて細長い手がよく映える少女だった。

快活さを漂わせるその風貌に少しだけ見とれたのを覚えている。


「良かったらさ、アタシとキャッチボールしね? この間引っ越してきたばっかでさ、まだ友達がいねーんだ。……あ、心配はいらないぜ! ちゃんとグラブも持ってるからさ!」


 そう言って彼女はカバンからグラブを取り出した。

その時の彼女の笑顔は、何と表現すればいいのだろうか。

とにかくその時の俺にとっては、直視できないほどに眩しかった。


「……相手なら俺以外にもいるだろ」


 それでも抵抗を覚えたのは、やはり父の件があったからだ。

どれだけ繋がっているつもりでも、結局人と人は相成れない。

だから断ろうとした。

後で痛みを知るのなら、最初から拒絶した方が傷は浅い。


「なぁなぁ頼むよ~! 公園にいる奴らみんなサッカーに夢中だしさ!オマエしかいないんだよ!」


「うるさい、俺に構わないでくれ」


「何だよ強情だな~。ほら、飴ちゃんやるからさ。これで何とかなんない?」


「しつこい」


「ちぇっ、じゃあアタシも壁当てすっかなー」


 彼女はポケットから取り出した飴を口に放り込むと、俺と同じように壁当てを始めた。

投げて、取って、そしてまたすぐ投げる。

そのスムーズな動きに思わず自分の動きも忘れ、夢中になっていた。


「おっと、どうした? ひょっとしてアタシの動きに見惚れちゃったか?」


「……そんなんじゃない」


「にひひ、もーう照れちゃってさぁ。正直に言っちゃってもいいのよ?」


 きっと何かの気の迷いだ。

邪念を振り払うかのように腕を振る。

その様子を横から彼女がニヤニヤしながら眺めていた。


「オマエ、サウスポーなんだな。ひょっとして投手希望?」


「……別に。そういうのには、興味ないから」


「うんうん、そういう我が強い所、ピッチャーに向いてると思うぜ!あっ、そうだ。どうせなら受けさせてくれよ」


「受ける?」


「そーそー。アタシ捕手やってっからさー、ちょっと待ってな」


 そう言うと彼女はまたカバンの中からグラブを取り出した。

でも今度のグラブはさっきまでのものとは違う。

横に長くて、丸い形をしたものだった。


「それ、何だ?」


「あ、知らない? これはキャッチャーミット。キャッチャーしか使わない特別なグローブだ。どうだ、恐れ入ったか!」


「いや、恐れ入ったりはしないが。……というか、俺は一人で投げたいんだ。邪魔しないでくれるか」


「邪魔はしないよ。オマエが勝手に投げて、壁の代わりに勝手にアタシが取るだけ。な?邪魔にはならないだろ?」


「屁理屈だな」


「屁理屈上等!なんたってアタシは扇の要、キャッチャーだからな!さぁ来い!」


 彼女はしゃがみこんで、真っすぐにキャッチャーミットをこちらへと構えた。


「……はぁ、怪我しても知らないからな」


 どうやら話しても無駄らしい。

いっその事無視して帰ろうかとも思ったが、ほんの気まぐれで付き合ってやる事にした。


「一球だけだ。それだけ投げてやる」


「いいねぇ。そういうの嫌いじゃないよ!」


 もう怪我しても知らねえ。全力で投げてやる。

大きくワインドアップして右足を上げる。

こんなものは見よう見まねだけど、ないよりはマシだ。

体重を前に移動させ、腕を伸ばして全身の力を左の手に伝える。

そうして放たれた全力投球を、彼女は難なく取って見せた。

キャッチャーミットの乾いた音が、公園中に響き渡る。

その瞬間、何とも言い難い快感が体中を支配した。


「おー、いい球投げるじゃん!さっすが、男子は違うねぇ」


 彼女は相変わらずヘラヘラとした笑みを浮かべたまま、ボールを投げ返した。

投げ返したそのボールは、とても相手の事を考えているようで、何だか自分の事が恥ずかしくなった。

そして、同時に思った。


「……もう一球、投げてもいいか」


「ひょっとしてノッてきた? いいよいいよ、何球でも付き合ってあげる!」


 次の球も、その次の球も、彼女は捕球してみせた。

そして必ず笑顔を浮かべ、こう言うのだ。

「ナイスボール!」と。

お互いにボールを投げる瞬間は、確かに心が通っているような気がした。

気が付けばもうすっかり辺りは暗くなり、サッカーをしていた子供たちもまばらになっていた。


「やっべ、もうこんな時間だ! あ、そういえば名前を聞いてなかったな。アタシは蒼空晴あおぞらはる。オマエ、名前は何ていうの?」


「……朱星あけほし朱星輝あけほしひかるだ」


「オッケー覚えた。輝な! んじゃまた学校で会おうぜ!」


「お、おう」


 蒼空、蒼空か。忙しいやつだったな。

というか、そろそろ自分も帰らなくてはならない。

急いで荷物をまとめ、帰る準備をする。


(また、あいつに向けてボールを投げてみたい)


 帰路につきながら思い浮かんだのは、あの少女の笑顔だ。

……また、ボールを受けてくれるのだろうか。

彼女は学校で、と言っていた。

ならばまた、会えるのだろう。

そう思うと、自然と笑みがこぼれてきた。














 









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