愛するきみへ、愛を込めて

花咲マーチ

愛する君へ、愛を込めて

 忘れもしない。大雨の夏の日、僕は母さんを目の前で失った。車で轢かれて、赤い血がたくさん出ていた。

 家代わりの段ボールは、ぐにゃぐにゃになり頼りないものになってしまった。誰でもいいから助けて欲しかった。

「大丈夫?」

 女神様だと思った。透明な傘をさして、短い髪に大きな目の女の子。彼女だけだ。こうして足を止めてくれたのは。

「あれはお母さんかな?よく似ているわ。でも、うちにはどうすることもできないから、専門の人に電話するわね。あ、もしもしー」

 ポケットから四角い小さな機械をだすと、女の子は耳に当てて何か話していた。しばらくすると、数人の人がやってきて母さんを連れて行ってしまった。行かないでって鳴こうと思ったけれど、声が出なかった。そういえば、何日も水を飲んでいなかったっけ。

「あなたのお母さん、あのままじゃ可哀想でしょう?だから、ちゃんと埋葬してくれる人に頼んだの。不安がらなくてもいいのよ。安らかに眠れる場所に行っただけなんだから。さ、あなたも行こうか。今日から私の家族よ」

 空に太陽は浮かんでいないけど、僕の目の前だけ、夏空にふさわしいくらい晴れていた。


 僕を助けてくれたのは鬼灯陽毬ちゃん《ほおずきひまり》という名の女の子だった。陽毬ちゃんの家も僕と同じで、お母さんと二人で暮らしていた。

「ねえ母さん!洗って乾かしたら、ふわふわの真っ白になったの。すごくない?」

「そうね。あ、名前は?なんて言うの?」

「ドランってつけたの。本当はドラゴンってつけたら強くなりそうだと思ったんだけど、さすがに恥ずいから」

「いい名前じゃない。大事にしなさいよ。陽毬はもう、ドランのお母さんなんだからね」

「大丈夫!私だって来年は高校生よ?一人で動物の世話くらいできるわよ」

 陽毬ちゃんは、自信満々に言うと、胸をポンと自分で叩いて見せた。陽毬ちゃんのお母さんこと、鈴蘭ママは、困ったような笑顔を浮かべた。


 夜になると、僕を悪夢が襲う。あの日の、母さんが死んでしまった光景がフラッシュバックする。流れる赤色。止まらない紅色。たまらなくなって泣き出してしまう。人間はこれを夜泣きと呼ぶ。

「もー!またなの!?」

 暗い部屋に灯りをつけて陽毬ちゃんが入ってきた。初めの頃は、優しく抱きしめてくれた。そしたら、僕は安心して眠れた。甘えていたわけではないけれど、毎日抱きしめて、大丈夫って言って欲しかった。でも、この日は違った。陽毬ちゃんは、目尻を吊り上げて睨み、そして、僕の頭を思い切り叩いたのだった。鈍い痛みが頭全体に走った。

「いい加減にしてよ!あんたが鳴くと、私は寝られないの!このバカ犬!」

 二発、三発と陽毬ちゃんは僕を叩いた。頭が振動しておかしくなりそうだった。

「ちょっと陽毬!何しているの!」

 そこへ鈴蘭ママが慌ててやってきた。はしってきたせいか、肩が忙しく上下していた。

「何って躾にきまってるじゃん!ネットに書いてあったわ!犬は最初が肝心で、上下関係をはっきりさせておかないと調子に乗るんだって。初めに甘やかしたからいけないのよ。だからこうして、厳しくしてるの。邪魔しないで!」

「またネットの情報を鵜呑みにして……。陽毬、ネットには正しいこともあるけど、間違っていることもたくさんあるの。だから百パーセント信じたらダメだって言っているじゃない。それに、陽毬だってママに怒られるようなことしたりするけど、叩いたりしていないでしょう?」

「私が人間だからでしょ?ドランは犬なの!人間の常識を当てはめていたら、ダメな子になるの!」

 陽毬ちゃんと鈴蘭ママは、強い口調で言い合っていた。僕は止めたかったから、ワンと鳴いてみせた。でも、言葉を理解できても使うことはできないらしく、僕の鳴き声は二人の大きな声にかき消されてしまったのだった。

 二人は言い合いをやめると、僕だけを部屋に残して去って行ってしまった。悲しいけど、ここで泣いたらまた迷惑をかけてしまう。僕は寝るのをやめ、朝まで懸命に起きていた。


 翌日、毎朝の散歩の時間になった。しかし、陽毬ちゃんは、布団をかぶったまま起きる様子がない。

「陽毬!そろそろ起きないとドランの散歩していけないじゃない!早く起きなさい!」

「うるさいな……ふわぁ……ママやっておいてよ」

「はあ!?何言ってるのよ!ドランはあなたの……」

「子供みたいなものでしょ?聞き飽きたって。そう思うならさ、代わりにやってよ。昨日ので、私向いてないってわかったし。じゃ、今日日直だから着替えたらすぐ学校行くね」

「陽毬……!」

 鈴蘭ママの必死の訴えは、陽毬ちゃんには全く届いていなかった。

「はあ……ごめんねドラン。陽毬との散歩はまた今度ね。今日は私とドッグランにでも行きましょうか」

 眉毛は下がっているのに、鈴蘭ママの口元は上がっていた。


 僕は鈴蘭ママに連れられて、ドッグランというところに来ていた。そこには、僕と同じがたくさん走り回っていた。

「ここなら、友達も作れるし、思い切り走れるわ。待っているから、好きなだけ遊んできなさい」

「ワン!」

 僕は元気よく返事をして、広い芝生の上を全力で駆けた。心地いい風が僕の体を包み込んだ。曇り空の心は晴れに変わっていた。

 鈴蘭ママは、毎日のようにドッグランに連れて行ってくれた。というのも、陽毬ちゃんが散歩を完全にしなくなってしまったからだ。初めは寂しかったけれど、毎日好きなだけ遊ばせてくれるので、その気持ちも、さらには悪夢も消えて行った。拾ってもらった恩があるから、陽毬ちゃんのことは嫌いになれないけど、どちらが好きかと言われれば、迷いなく鈴蘭ママと答えるだろう。それくらい、僕に優しく接してくれる。陽毬ちゃんが眩しい太陽なら、鈴蘭ママは、温かい陽だまりのような人だ。

 

 悪夢を見なくなるということは、夜泣きがなくなるということ。鈴蘭ママのお陰なのだが、なぜか陽毬ちゃんが得意そうな顔をしていた。

「やっぱり私の言った通りじゃん。しっかり躾れば直るんじゃない」

「躾って……最近全然面倒みていないじゃないの。それなのに……」

「でも、躾したのは私!ママはドランの世話をしたに過ぎないの。きっと、世話係は向いてないけど、躾には向いているんだわ」

「いい加減にしなさい!来年は高校生だから世話ができるって言ったのは陽毬よ?!それなのにママにばっかり押しつけて……」

「だからできないんだってば。私、自分のことで手一杯なの。今年受験だし、忙しいの。怒るなら、明日にでもドランを保健所にでも連れて行くわ」

「なんてこと……もういいわ。確かにそうね。陽毬には、勉強しなさいって言っても、部屋の掃除をしなさいって言っても全部無理だったわね。信じたママが馬鹿だったわ」

「何それ。私なにもできない奴みたいじゃん」

「そうよ。そう言っているの。じゃあ、明日から面倒見なさいって言わないから。後、躾もいらないわ。ドランはいい子だもの」

 陽だまりは、一瞬にして雪景色へと変貌した。僕は鈴蘭ママと一緒に陽毬ちゃんの部屋を出た。

「くそムカつく!」

 閉めた扉に何かものを投げつけたのか、あるいは思い切り蹴ったのか、大きな物音と、鈴蘭ママに対する暴言が聞こえた。ああ。助けてくれたあの日に戻りたいと思わずにはいられなかった。


 陽毬ちゃんは僕を一切見なくなった。鈴蘭ママの部屋にいるというのもあるが、それは寝るときだけ。それまでは、リビングの片隅にあるケージの中にいる。ケージといっても、天井はないので、上からならいくらでも触れられる。だけど、陽毬ちゃんが僕に触ることはない。受験が終わっても、入学式が終わって一段落しても、彼女が僕に構うことはなかった。ごはんもくれない。名前を呼んでもくれない。微笑みかけてもくれない。散歩ももちろんなしだ。それでも、いつかは僕を見てくれるって信じていた。あの日の太陽のような笑顔が噓だったなんて、僕にはどうしても思えなかった。きっと、今は忙しいんだと言い聞かせ、悲しい気持ちをなかったことにした。それなのに、どれだけ月日が流れようとも、陽毬ちゃんが僕を見ることはなかった。


 時間の流れはあっという間で、鬼灯家に来てから数年経った。陽毬ちゃんは、すっかり大人の女性の顔をしていた。相変わらず陽毬ちゃんも鈴蘭ママも口を聞かない。家に帰ると陽毬ちゃんは部屋に引きこもって出てこないし、リビングに来る時と言ったら食事の時だけ。鈴蘭ママも、それを咎めることはなかった。二人にには以前のように仲良くして欲しいのだが、難しそうだ。

「ドラン、ご飯だよ」

 鈴蘭ママが夜ご飯を持ってきてくれた。ちょうどお腹も空いていたから、すぐに食べようと伏せの状態から立ち上がろうとしたその時、異変は起きた。

 僕の後ろ足は言うことを聞かなくなっていたのだ。昨日まで何ともなかったのに……

「どうしたの?大丈夫?」

 何とか立ててもふらふらして、うまくご飯の所まで歩けない。

「ドラン!どうしたのかしら……と、とりあえず病院に……」

 鈴蘭ママは、電話をどこかに掛けた後、僕を抱えて車に乗った。微かに、鈴蘭ママの手は震えていた。


 着いたのは病院だった。先生は僕の診察を終えると、鈴蘭ママを呼んだ。

「あの、ドランは……」

「変性性脊髄症だと考えられます」

「そ、それはどんな病気なんですか?」

「背中の脊髄あたりから始まり、発症時、つまり今の段階ですね。後ろ足のふらつきなどの症状がみられます。それが、徐々に動かせなくなります。進行すると前の方の脊髄まで病変が広がるため、前足にも同じ症状が出て、最終的には首のあたりの脊髄まで病変が広がり、呼吸ができなくなるという病気です。通常、ウェルシュコーギーでの発生が多いのです」

「でも、ドランは雑種です」

「最近では、様々な犬種でも報告があるので、雑種だから発生しないという保証はありません」

「そんな……じゃ、じゃあ、どうしたら治るんですか?」

「残念ですがら完全に治る治療法は、今のところありません。進行を遅らせることは可能ですが……」

「なんで……」

 鈴蘭ママは、泣きながら僕を見た。二人の会話の内容は難しくてよくわからなかったけれど、僕は、どうやらよくない状態らしい。でも、痛みもないし、生きれるだけ、鈴蘭ママと陽毬ちゃんと一緒にいたいと思った。もし余命がないのなら、あの日のように笑い合う中で死にたい。僕は別に、死ぬことに恐怖はない。それより、誰か目の前で死んでしまうことや、大好きな人が笑ってくれなくなることの方が怖いし、寂しいんだ。

「うぅ……」

 そんなに泣かないでよ。僕は、鈴蘭ママの頬に伝う涙を舌で拭った。そしたら、余計に泣いてしまったのだけれど。

 先生は申し訳なさそうに鈴蘭ママを見ていた。気がすむまで泣いたら、進行を遅らせる薬をもらい病院を後にした。


 翌日から、僕は苦い薬を飲むようになった。嫌だったけれど、鈴蘭ママに泣いて欲しくなくて我慢した。でも、ふらついた後ろ足は、徐々に感覚を失っていった。気がついたら僕は歩けなくなっていた。進行の速さに少し動揺したけど、それは僕だけの秘密。


「ねえ、私、将来歌手になりたいんだけど」

 あれだけ口を聞かなかった陽毬ちゃんが、鈴蘭ママに話かけていた。進路を決める時期らしい。

「SNSで知り合った人がさ、歌声がいいから、歌手になったらって行ってくれたの。だから、今度オーディション受けることにした」

「そう。陽毬が決めたことなら別に構わないよ。歌手になったら活動は都心なの?」

「オーディションに受かったらね」

「なら、一人暮らしになるんだ」

「まあ……」

「頑張ってね」

 鈴蘭ママは無表情で会話をしていた。陽毬ちゃんは、気まずそうに話しかけてはいたものの、将来への憧れを抱いた、キラキラして瞳をしていた。僕は、確信した。陽毬ちゃんは、二度と僕を見ないと。いつかは、なんて思っていたけど、彼女には、僕よりも、家族よりも大切なものができたのだ。


 歌手になると宣言した翌日、陽毬ちゃんは、僕しかいないリビングに来て、歌を歌い出した。甘く優しい歌声が響き渡る。心優しいのは、あの笑顔は嘘じゃなかったんだと思った。ただ、向けられるのが僕ではないというだけ。その歌なら、きっとみんなに届くよ。動かなくなる体を少し起こして、エールを送った。君は気がつかないけれど。


 僕の体はだんだん不自由になってきた。ほぼ寝たきりだ。先生の薬を飲んでいれば、まだ頑張れると思っていたのに。ご飯も水も自分では食べれないし飲めない。鈴蘭ママは、何とかして、僕が摂取できるように工夫してくれたが、やがて難しくなってきた。僕はもうすぐ死ぬのかもしれない。

「ねえ聞いて!この間受けるって言ったオーディション、最終審査まで行ったの!これが通ったら晴れてデビューよ!」

 弱る僕に付きっきりの鈴蘭ママを横目に、陽毬ちゃんは誇らしげに報告してきた。

「そう。よかったわね」

「もっと喜んでくれないわけ?」

「嬉しいわよ。このまま最終審査も通るといいわね」

「まあね」

 オーディションか。これが通ったら陽毬ちゃんはきっと喜んでくれる。最期に笑った顔が見られるならそれもいいな。そうだ。二人にプレゼントをしよう。神様、僕の命と引き換えにお願いします。陽毬ちゃんには、オーディションの合格、鈴蘭ママには何か綺麗なもの。どうか叶えてください。僕ができる唯一の恩返しをさせてください。僕は一生懸命願った。その結果かはわからないけれど、鈴蘭ママは、花火が見えたと僕に報告して泣いていた。陽毬ちゃんはオーディションが受かったとハイテンション。大好きな二人へのプレゼントは届けられたのだ。よかった。

 翌日、僕はこの世を去った。


 僕からのプレゼント。今だから言うけど、二つとも鈴蘭ママに贈ったものなんだ。結果的に彼女は喜んでいたけど、違うんだ。陽毬ちゃんが歌手になると言った日、一人暮らしをするのかと確認した鈴蘭ママの顔が、少し笑ったように見えたんだ。この時思った。鈴蘭ママは、陽毬ちゃんが一人暮らしをするのを望んでいるのだと。僕はそれを叶えるために、陽毬ちゃんにはオーディションを合格してもらった。僕が死んで数日後には、きっと一人暮らしをしているだろう。誰もいない都心で。

 鈴蘭ママが手を焼くほどだらしない彼女のことだ。きっと生活には苦労する。でもそれでいい。これが、愛する君に、愛を込めて贈る最初で最後の地獄プレゼントなのだから。

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