ダン・イチワラとの対談

あの日から日本国憲法のアカウント上でも発言は一切ない。無論、私へのメッセージも一切ない。きっと――何か事情があったのだろう。私はそう考える。こうしている間にも次の仕事をしなければならない。時間は有限だ。どのような問題が起きたにせよ、余程のことがない限り、次の予定をこなさなければなるまい。

その日の私は六本木の喫茶店でダン・イチワラ氏と会談をする予定になっていた。

ダン・イチワラ。

 宮川春子が宮川春子ではなく、ハルコ・ミヤカワになった後――通訳兼護衛兼世話人として雇用された日系人男性。宮川春子の最後の結婚相手でもある――一人目は大野啓司。二人目は芹沢嗣治。三人目が彼、ダン・イチワラだ。

彼は約束の時間に数分遅れて来る。彼は躊躇せず、とくに悪びれるでもなく、私の顔を見て一言。

「今日は、宜しくお願いします」

 と言って、握手を求めてきた。

「どうも、記者の奥村剛男というものです」

「はじめまして。ミスター・オクムラ。お噂はかねがね」

 彼はそのように答えた。

「噂――ですか?」

「ええ、ハルコさんについて調査している記者が居ると聞かされていたものですから。じきに君のところにも来るだろうと言われていたんです」

「なるほど。そういうことでしたか」

 私が今まで出会った人間の一人に、口の軽い人間が居たのだなと思う。どのように話をされていたのかと思うと、少し憂鬱な気もしてくるが……考える価値はあまりなさそうだ。

彼は答える。

「はい――今日は、良いお話ができるといいですね」

 そう言って彼は微笑む。

 しかし……良い話、とは? 全く不思議な言い回しだと私は思う。まるで私と彼が会話を交わすことによって、何か事態が好転するかのような、そんな言い回しだ。そこまで考えて私は気付く。この男はきっとネゴシエイターが本職なのだろう。会話と交渉がイコールで結ばれていて離れない。そして恐らく、彼は過去に数多の交渉を成功裏に終わらせてきた、腕の良いネゴシエイターだったのだろう。

 だから彼はこう話す――良い話ができるとよいですね、と。彼は椅子に静かに座る。所作の一つ一つに不快さがない。だが、その無欠さ。欠点のない、不快な部分が一切生じないということそれ自体が既に嫌味で、不快な感じがする。

 そこまで考えて、私は疑問に思う。

もしかすれば私自身が多数の人々と会談し、自分の手で文学的な何かを紡ぎ出そうとするその過程の中で、いつの間にかどこか感傷的な、感じやすい気質を持ち合わせるようになってしまったのだろうか?

「では、改めまして。記者の奥村剛男と言います。既にご存知かと思いますが、宮川春子さんの情報を集めています」

 私は彼に名刺を差し出す。彼は自然な所作で名刺を懐にしまう。

彼は答える。

「宜しくお願いします」

 こうして会談は始まった。

「ではまず、宮川春子さんとダン・イチワラ氏の馴れ初めについて」

「ああ、それはシンプルですよ。彼女がミセスからミスになった頃に、事務所を経由して私が雇用されたのです……ご存知かと思いますが、私は芸能界で長く通訳を務めてきました。丁度あの頃のハルコさんは彼女名義での七枚目のアルバムを出し、世界的に有名になりつつありました。海外での巡業のために私が専属の通訳として雇用されたわけです」

「なるほど。つまり春子さんとダン・イチワラ氏の関係はビジネスから始まったんですね」

「というより――結局、私と彼女の関係性は最初から最後までビジネスライクなものであり続けました。私的な領域など何一つない」

「最後まで、ですか?」

「はい……私は後にハルコさんと結婚しますが、いわゆる夫婦の営みと呼べるものは私と彼女との間には何一つありませんでした」

「セリザワ氏が彼女と離婚して、彼女が海外へ行く場面が多くなると、何かと向こうで手伝いをする人間が必要になる。しかし、たんに通訳だと答えてしまうと問題が起こる。例えば彼女が急病にかかった等の差し迫った状況で通訳だと言うと向こうでは殆ど何もできない。そうした手間を省くため。仕事のために私と彼女は戸籍上の夫婦となったのです」

「――そうだったんですね」

「正直、私は彼女と結婚することそれ自体にあまり賛同的ではなかったのですが、彼女の方が半ば無理やりそのような手続きを踏んでしまったのです」

「とは言え、彼女との生活が面白みに欠けたものだったと言えば、それは嘘になります。彼女は非常に明るい人物で、どんな場所に居ても常に話題の中心に居ました。彼女は海外での活動が増えていくに連れ、少しずつ英語を覚えていったのですが、最後までその英語は片言の、何か不器用な感じのするままで、しかしそうした不器用な英語もまた、英語圏の人間には受けが良かったんです」

「彼女の周囲ではほぼ毎日のようにパーティがあり、そこでも中心に居るのは彼女でした。彼女は自ずから客に酒を注ぐような細やかな気遣いを見せる場面は一切ありませんでしたが、それでも参加者は彼女に惹かれてパーティに姿を現すのです」

「例えば。あるパーティが終わった直後に私は一人のマダムから声をかけられました。そのマダムは当時のフランスで売出し中の作家で、由緒正しい家柄に生まれた名士でした。そんな彼女が私に言うのです」

『折角パーティに参加したのに、ハルコ・ミヤカワとは一度も会話ができていない。それを私はとても寂しく思う』

「彼女は流暢な英語でそう言いました。そうして次の場面には」

『日本語で話しかけるのであれば、どのような言葉を用いれば良いのでしょう? コンバワ? スイマセン?』

「と彼女は私に質問をしたのです――私は困惑しました。名士である彼女が社交の場でこのような子供じみたことを言い始めたのです。私は回答に窮してしまい、頭を悩ませました」

「ですが途中で、私がそのように悩んでいるのに気が付いたハルコさんが、彼女に向かって一言」

『寂しい思いをさせて申し訳ありません、お嬢様。本日の来訪に感謝します』

「と言うようなフランス語を堂々と言ってのけて、恭しく礼をしました。それで、全てが終わったのです」

「無論、英語も片言で話すような彼女がどこかで聞きかじったフランス語を真似て言っただけのものですから、決して上手ではありません。しかし、そのフランス人女性はハルコさんのその言葉を聴いただけで納得し、満足顔でその場を去ったのです」

「彼女の言葉には、そのように何か人を納得させてしまうだけの力があるように思えてなりません。しかし、その力の正体が一体何なのかは、最後まで理解できませんでした」

「彼女――宮川春子は社交的な人物だったのでしょうか?」

「その回答は難しいです……確かに彼女は華やかで、人を乗せ、人を楽しませるということについて、或る種の天性があった。けれども彼女自身が社交的で、他人と触れ合うことができる人間だったのか? と聞かれれば、その回答は難しいと答えざるを得ません」

「確かに彼女の周囲は華やかです。毎日の酒宴の中心には彼女がいました……ですが、彼女が一人だけになった時。彼女と私の二人だけになった時、彼女が光り輝いていたとはとても言えないでしょう」

「彼女は人が居なくなると、まるでスイッチが切り替わるように、あらゆる物事に対して無関心になります」

「身の回りの最低限のこと以外は何もせず、用件がなければ一人で眼鏡をつけて本を読むのです」

「彼女はどのような本を読んでいましたか」

「すいません、覚えていません。私は書物に通じていないので……けれども、少なくとも。眼鏡をつけて本を読んでいる彼女は、普段のハルコ・ミヤカワを知る私にとってはまず間違いなく『知らない人』であり、どこか他人のような気さえしました」

「不思議ですよね。顔立ちや声そのものはあの世界のハルコ・ミヤカワだと言うのに、眼鏡をつけて本を読んでいる間は、あの息が詰まるような華やかさや美しさとは無縁でした。ですが、それでも……その状態の彼女に、彼女を知る私以外の第三者が彼女に声をかけると、彼女はすぐさま眼鏡を外して、あのフランスの名士にしたように言葉を返すのです」

「今思えば、眼鏡をつけて本を読んでいる時こそが、彼女の持つ本来の姿だったのかもしれません……もっとも、今となっては分からないことではありますが」

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