白石良美との対談
<本当に春子様、死んじゃったらしい>
日本国憲法のアカウントにそのような発言が新しく表出したのは、私がダン・イチワラ氏との会談を終えた数日後のことであった。
私は彼女とやり取りしていた個人チャット欄を確認するが、彼女からの連絡は一つも入ってきていない。
私の心配をよそに、彼女はSNS上で発信を続けている。
<すごいなあ。推し、死ぬんだ>
<すごくないですか?>
<実は嘘なのかな、とか思ってたんですけど>
<親が私を社会に出荷させるためについた嘘>
<でもテレビでやってるもんな>
<それはごまかせないわ>
<皆様、テレビの言うことは信じましょう>
その発言の直後、彼女からようやく私の下へ連絡が入る。
<ごめんなさい>
彼女はそう言った。
<怒っていますか?>
今までの強気な態度とはまるで違う、平素の日本国憲法――白石良美からは想像もできないほど弱気な、私を気遣うような発言。
私は言った。
<とても心配したんですよ>
<一体どうしたと言うんですか>
彼女は私の発言を確認してから、何か発言を書こうとしては消すを何度も繰り返した後に、ようやく言葉を返してくる。
<準備に時間がかかったんです>
<もう大丈夫です>
<心配なことはありません>
私は答える。
<心配するに決まっているだろう>
すると――彼女は、言った。
<優しいんですね>
その文言はあまりに弱々しい。
<私あんまり人に優しくされたことないから>
<想像もしてませんでした>
少しの間、彼女は沈黙する。彼女は言う。
<次の土曜日、大塚駅前でどうか>
彼女は答える。
<いいですよ>
そうして会談の日程を決めて、当日になって私は約束の時間よりもずっと前に現地入りをする。何故そのようなことをするのだろう。相手が早く来るとは限らないのに、私は何故朝の九時なんていう時間に現地に入るのだろう。約束の時間は昼間――十四時だ。
私が彼女に執着しているのか?
そうかもしれない。
彼女が宮川春子に執着するように、私も彼女に執着している。しかし、これは断じて恋でも愛でもない。ただ、この日に彼女と会うことができなければ、私はこれからもう二度と、完全には宮川春子を理解できないままなのではないか? そうした疑問が脳裏に焼き付いて――離れない。
思い出すのは、新大久保駅前で彼女を待ったあの夜。小雨降る駅前、道行く人々の他人行儀な視線。待ち人の来ない様……。
会談場所を大塚に指定したのは、その時の反省があるからだ。屋根もついており、出口も一つ。人の行き来もそれなりで、互いを見つけられないということもない。それでも、彼女は来ない……かも、しれない。
「もしまた来なかったら、どうしようかね」
どうにもならない。
彼女が来なかったこと。資料が手に入らなかったことについてエズラ・ネイスンに何らかの説明をしなければならないだろう。しかし、互いにそこまで恩のある仲でもあるまい。私はそう考えた。
約束の時間の三十分前――私は、大塚駅の改札口で彼女らしき人影を見出した。長い黒髪を持つ女性。病的に細いその女性は黒い大きなキャリーを引きずっている。その髪の重量感、肉体の病的なまでの細さが醸し出す暗さとは反対に、明るい白系の服を着る彼女を見て、私はその人物のセルフプロデュースのミスマッチを察する。
直感で分かった――彼女が、日本国憲法。白石良美なのだろう。
私は彼女に近付く。
彼女は驚いたような、嫌がるような……どちらとも言い難い表情をする。彼女は言った。
「誰ですか?」
私は、この半年の間に幾度となく発された文言を口にする。
「記者の、奥村剛男というものです」
私がそう言うと、彼女は天井を仰ぎ見て、溜息とも舌打ちとも似つかないような声を上げた後、答える。
「あなたが、あの。ああ、そうなんですね」
「どこか喫茶店に行きませんか」
「どこでもいいです。でもできれば、近くがいいです」
私は彼女が引きずってきたその重たげなキャリーに目をやった。
「手伝いましょうか?」
「なら、後ろから押して下さい」
私は彼女にそう言われて、後ろからそのキャリーを押す。私は彼女とそのような不可思議な共同作業の末に、駅構内にあるパン屋に入店する。
「何か食べますか?」
彼女は語気を強めにこう答えた。
「食べません」
「では、飲み物はどうしましょう。頼まないわけにもいきませんから」
「じゃあ、あったらアメリカン。なかったらブラックでお願いします」
「承知しました。では先に、席に座っていて下さい。私が持っていきますので」
「どうも」
私が珈琲を待つ間に、彼女は席に座る。座る直前にタオルを席に敷いて、そこに座る。私は彼女を再度、観察した。
長い、長い黒髪。そればかりが印象に残る女性。とは言え、その黒髪は美しくない。髪先はパサついていて、先の方だけが色んな方向をむいている。肉の印象がない。彼女はあまりに細すぎる。病的なほどに細いその肉体には、然るべき場所についているべき肉がえぐり取られているかのようで、昆虫のナナフシを想起させるものがある。
珈琲が出てきた。私は彼女の席へそれを持ち寄り、考える。もしや……しかし、これは聞けば失礼に値する物事で、積極的に言うべきではないし、相手が言いたがらないのであればそのまま放っておくべき話題だろう。私は、そう考えた。しかし彼女はそうではなかった。彼女は開けっ広げに、私が心中に抱いた心配など無駄なのだと言わんばかりに、その事実を告白する。
「私、拒食症なんです。まあ、私のこれがそうなんだって分かるには時間がかかりましたけど」
言って彼女は珈琲を飲む。
「珈琲とかはいいんですよ。豆を焙煎してお湯でいれて――なんか、無菌っぽい。無菌っぽいっていうのが大事なんで、実態はどうでもいいんです。あんまり興味ない」
想像しているよりもずっと、彼女は雄弁だった。否、多弁と言うべきだろう……その文言にはどこかたどたどしい、喋り慣れていない感じが滲んできている。何より……息継ぎが下手だ。たまに自分で話し続けて、息切れしているように見受けられた。
「例えばオクムラさんは」
「なんでしょう」
「コチニールカイガラムシって、知っていますか?」
「え?」
普通知らないよな。彼女はそう言ってまた話を続ける。
「赤い人工着色料の素になる虫なんです。すごいんですよ、見た目は黒いのに、潰すと血みたいに真っ赤な体液なんです。あれが集合している写真見ると、ああこれってコチニールカイガラムシの赤なんだ、って思うんです。そう思うと赤い食べ物が食べられなくなる。そうなった理由も何となく、分かっているんですよね」
彼女は私の返答を待たず、話を続ける。
「うち、無茶苦茶貧乏で。近所の農家から野菜を貰ってはお婆ちゃんが漬物にするんですけれど、そのせいで来る日も来る日も漬物ばっかり食わされて。ぬか漬けのぬかの臭いってあるじゃないですか。あれ私駄目なんです。お婆ちゃんは良い人だったんですけど、あまり頭が良くなくて、訛りもすごいんです」
「えー、その。白石さん、で宜しいんでしたよね?」
「そうです。その名前で呼ばれるのも久々ですけどね」
「白石さんはあまり訛っていませんよね」
「そうですね。家に居るお婆ちゃんが青森出身で、もうすんごい喋り方をするものだから。親は共働きで家に居ないから、家にはいつも私とお婆ちゃんだけで。私がまだ赤ん坊だった頃にはお爺ちゃんも居たらしいんですけれど、知らないうちに死んじゃってた。お婆ちゃんがいつもテレビで何かつけて見てて、大体時代劇とかなんですけど、ああいうのって子供にはつまらないじゃないですか。でもそれに文句言うと、お婆ちゃんは悲しそうな顔をするから、私は家にあるものを使って何とか遊ぶんです。チラシとか折り紙にしたり、買って貰った絵本を何度も何度も読み返してみたり。でも文字を読めるようになったのは物凄く後だから、やっぱ私頭悪いんだろうな。その割に妄想癖というか、想像力がありすぎるみたいなところがあるから」
「と、いうのは?」
「コチニールカイガラムシじゃないですけど、想像しちゃうんですよ。目の前にある綺麗なケーキがどうやって作られたのかとか。この御飯はどうやって私の目の前まで運ばれてきたのかな、とか。いつもお婆ちゃんがぬか漬け作っているところを見ていたから、食べ物がどうやってここまで作られ、運ばれてきたのかを考えてしまう。だからそれを想像すると気持ち悪くなって入らなくなっちゃうんです。今こうやって飲んでいる珈琲だって、真面目に考えたらもう普通にアウトなんですけど、考えないようにするんです。誰かからお菓子を貰っても、表向きは食べたことにしたりして。給食も食べて、でも休み時間に吐いちゃう。給食はそうやって誤魔化しきくんでいいんですけど、遠足とか課外授業の弁当は地獄だったな。漬物とか入ってたらもう全部アウトで、浅漬でも駄目。弁当全部漬物とプラスチックみたいな臭いがするから」
「プラスチックの臭い?」
「そう。プラスチックの臭い。プラスチック容器にご飯入れて少し時間経つとそういう臭いがするんですよ。でもまあ、木の容器も木の臭いがするから駄目で、一番いいのはカップ麺とかああいうのなんです。工場は無菌だろうし、お湯も入れるから無菌っぽい。だからセーフ。これも真面目に考えたらアウトなんだろうけれど、でもセーフ……あの、すいません。自分で話しておいてなんなんですけど、この話やめて、本題に入りましょう」
「そうですね……そうしましょう」
「私が春子様に初めて出会ったのは、八年前の夏でした。その時、春子様はプリズムの全国ツアーライブの途中で、札幌でライブをしたんです。その時の同級生の子が彼氏と一緒に行くはずだったのに彼が来れなくなったから一緒に行かないかって」
「その頃の白石さんは、宮川春子に対して何か特別な感情を抱いているわけではなかったわけですね?」
「え、あ。ああ、はい。そうです。そうなります。今から考えるとちょっと不思議な感じがしますけど、そのとおりです。別にその時の私はプリズムのライブが観たかったわけでもなくて、ただ札幌には行ってみたいなって。それぐらいの気持ちだったんです。札幌に行けばお泊りになるだろうし、友達と行けばきっと楽しいだろうなって」
「けれども……決して期待して行ったわけではないそのライブで、白石さんは宮川春子のことが好きになったんですよね、きっと」
「はい、もうそれは――例えようもないぐらい、春子様は可憐で切実だったんです。私は当時――いや、今もかな。春子様が人間だっていうことが信じられないでいるんです。よくアイドルファンを馬鹿にする言葉で、アイドルだってウンコすんだぞ! みたいな言い方があるんですけど、でも私はそういう人間としての宮川春子を。春子様を想像することができなかったんです。大抵のものは想像すればするほど気持ち悪い部分が出てくるもので。例えばお米だって、あれもぬかっぽい臭いがするから意識すると駄目なんです。人間関係もそう。男でも女でもおならはするし、どんなに綺麗な女性でも生理はあるし、どんな男も基本的にチンコついてるじゃないですか。でも春子様はそういう人間の汚いところみたいなのが見いだせないんです。実際はどうか知りませんよ? 春子様が結婚していたってことぐらい私も知ってます。でも私は正直、その程度のことで春子様を人間だと理解することはできませんでした。その程度の現実は、宮川春子という圧倒的な虚像が飲み込んでしまうんです」
ここで彼女は大きく息継ぎをする……その後、彼女はまた多弁的に言葉を発し続ける。
「宮川春子。春子様。少女であり続けたあの圧倒的な――カミサマみたいな人。ほら、カミサマって何か毀損があるじゃないですか。イエス・キリストには本当は娘がいたとかそういうの。でも信者は別にそういう話を気にしないでイエス・キリストを崇めるわけじゃないですか。私も似たようなもので、いくら現実の方が私に文句をつけても、私の中の虚像。美しい春子様の方が勝つんです。だから私は――春子様が、好きなんです」
そうして彼女は珈琲の残りを一気に飲み、私を見る。その瞳はつぶらで子犬のようであったが、可憐ではなかった。
「あまり、こういうことは言いたくないんだけれども」
「なんですか?」
「君はたんに、現実を直視していないだけなんじゃないのかな」
長く思い続けてきたこと。彼女と彼女のファン……否。アイドルファン全てに対し、私が考えていたことを、私は彼女に対してぶつけて見せた。
彼女は予想外な答えを返す。
「そうですよ」
あまりすんなりとその言葉が発せられたので、私は何か鼻白むような感じがして、言葉を返すことができなかった。
彼女は私を見る。ただ見ている。彼女は怒っても悲しんでもいないように思えた。
「そりゃ――分かってますよ。実際、現実なんか見ちゃいないんですから」
「そりゃ現実は悲惨ですよ。職場でいじめられたり、恋人と友達が浮気したり、まあなんか色々あるじゃないですか。でも、その現実に何故、宮川春子と。春子様と関係があるなんて言うんですか?」
「仮にあったとして、何故春子様を現実の人間なんだ、と仮定する必要があるんでしょうか? だって、みんなそうですよね」
彼女の話は続く。話の規模が大きくなる。
「一応、日本って国はあるってことになってるし、学校もあるってことになってるし、仕事はしなきゃいけないってことになってるし、でもそれが実際にあるとか、必要なんだっていう根拠ってどこにあるんですかね? いや、多分あるんでしょう。どこかにきっとあるんでしょうけれど、あるんだって言って実際にそれを見せることのできる人って多分ほとんど居ないですよね。現実の話でもそんなもんなのに、何故宮川春子を。春子様を。何故、あれほどまでに美しい何かを現実の側に浸す必要があるんですか?」
だって。彼女は言う。
「彼女は――宮川春子は美しくあろうとし続けたのに、何故それを汚いものにする必要があるんですか?」
「宮川春子が美しくあろうとして、私が宮川春子を美しいと思う。その関係が成立しているなら、それ以上に一体どんな考えや思想が必要なんだって言うんですか?」
彼女は一度強く咳き込み、痛みに顔を歪める。しかし――言葉は発せられ続ける。
「分かりますよ? オクムラさんは記者で、春子様の評伝を書くんだから、色んな人に話を聞かなきゃいけないでしょうね。でも私にとって現実って必要なくないですか。仮に現実がそうだと言って虚像の方が現実に合わせるんじゃ、道理が合わないんですよ。だって春子様って――アイドルでしょ。アーティストでしょ。ミュージシャンでしょ。その美しすぎる虚像の方こそが、春子様の本体なわけですよね? それなら、現実の春子様なんてただのファンとか信者が考える必要、なくないですか?」
彼女はそこで話すことをやめ、ぜえぜえと息をする。息継ぎが下手で、言葉を繋げて繋げて話し続けて、ここでようやく終わりを迎えた。
彼女が息を整えるのを待つ間、私は新しいコップに水を注いで彼女に手渡す。彼女はそれを音もなく飲む。
私は言った。
「もし気にさわったなら申し訳ない」
彼女は答えた。
「いいえ、全然。そういうわけじゃないんですよ。ただ、言っておきたかったんです」
彼女は水を飲み終え、また話をし始める。
「オクムラさんは記者の立場から色んなものを見なきゃいけないでしょうし、そうして色んな話を耳にすると思うんですけれど……ファンにとっての宮川春子は。少なくとも、私にとっての宮川春子はそういう存在なんだって、知っておいて欲しかったんです」
「そうか。そうだったんですか」
「ええ、はい」
そう言って彼女は笑った――ように見えた。気のせいだろうか?
「しかし――それも、残酷な話だな」
「どういうことですか?」
「僕はさ。記者として宮川春子に関する話を確かに色々聞いてきたんだ。そういう話を聞き続けて思ったことなんだが――結局、誰も彼女の本当の部分を見てやれなかったんじゃないかって。そう思えてきたんだ」
「君の言葉を借りるなら、美しい虚構が現実の方に沿う必要は全くないと言う。けれども、そうしたら誰も宮川春子の本当の姿を見ることはできないし、しようともしなかったということになる。そういう風に捉えると、君の話も――他の人々の話も。等しく残酷な行いのように思えてくるんだよ」
それを聞いて彼女は少し考える素振りを見せた。あれだけ多弁であったのに、三分は考え込んで――そうして彼女は私に質問をした。
「逆に質問するんですけど……本当の宮川春子って一体、なんなんですか?」
「それは、どういうことかな」
「そのままの意味ですよ……本当に見て欲しかった宮川春子って、一体何なんですか。だってそれ、宮川春子以外にないじゃないですか。宮川春子、欧米風に言ったらハルコ・ミヤカワ。アイドルが見て欲しい自分って、宮川春子以外にあるんですか?」
仮に。仮にですよ。彼女は言う。
「あり得ない話ですけれど、春子様が仮に、本名・甲斐陽子としての自分を見て貰いたかったとしますよね。もしそうであったとするなら、何故彼女は――アイドルを。ミュージシャンをやめなかったんですか?」
「それは……何故だろうな」
「ぶっちゃけ私にも分かんないですよ。でも誰にも分からない決まってるじゃないですか。だって春子様はもう、もう」
『死んじゃったんだから』
「もうこの世に春子様は居ないんですよ。そうしたら誰も、本当の宮川春子なんて分かるわけないじゃないですか――知りませんけどね。もしかしたらオクムラさんは色んな人に話を聞いて、宮川春子って可哀想な子だなとか思ったかもしれません。だからそういう風に、本当の宮川春子とは何だったのか~とか言うのかもしれません。でもそれって、余計なお世話じゃないんですか? 死んじゃった以上もう分からないとかいう話ではなくて、少なくとも春子様は、自分を宮川春子として見てもらうように努力し続けてきて、そうして最後まで宮川春子であり続けたんですよね。それってすごいことじゃないんですか? 普通人間って、そこまで徹底して何かであり続けることなんてできないじゃないですか」
「仕事をしなきゃご飯が食べられないとか、勉強しないと駄目とか、現実の時間がないとか、何とかかんとか理由付けて、自分が本当にやりたいこととか、使命みたいな、そういうことをろくすっぽ出来ずに死んでいくじゃないですか」
でも。
「宮川春子はそうじゃなかったんですよ。完璧なまんまだったんです。プリズムも、その後のソロ活動も、光り輝き空に瞬き、狭い夜空を縦横無尽に駆け回って――そうやって、27クラブに入った」
「あの人は『クラブハウス・サウンド』を出した時点で27クラブを意識していました。知ってますか? 『僕をクラブに入れてくれ』って曲を書いたんですよ。それ以外にも、色んなところで27という数字を見せつけるような歌を作っています」
彼女はそう言ってまた多弁的になった。
「……もし、誰かが。本当に誰かが。仮定としてですよ? 本当に、本当に宮川春子に長生きして欲しかったと思うのなら。何故その人達は『クラブハウス・サウンド』の時点で春子様を止めなかったんですか? オリンピックのタイアップで作った『ジ・エンド・オブ・ジャパン』なんてもう、死を見据えていなきゃ出てこないようなアルバムじゃないですか。でも結局――誰も、宮川春子を止めなかったんですよね。だから宮川春子は、宮川春子になったんですよね。そうなってしまった以上、もう本当の宮川春子とか彼女の本音とか、その実像とか――全部全部、くだらないじゃないですか。彼女が虚像に殉じて死んでいったのに、何故その虚像を汚す必要があるのか……!」
彼女はそう言ってまた強く咳き込む。ひゅうひゅうと喉に息が通る音がする。
私はまた彼女に、新しいコップに入れた水を差し出した。彼女はそれを一気に飲んだ。
「君が落ち着くまで、僕はいくらでも待つよ」
彼女は言った。
「いつまで待って、くれますか?」
「店が閉まるまで待ったっていい」
「それは……嫌、ですね」
そう言って彼女は力なさげに笑う。私も笑った。
彼女が息を整えるまでたっぷり十分は待った後、彼女は唐突にその黒いキャリーを開く。それと同時に幾つかの服類がキャリーから吐き出され、その一部には下着もあったので私は動揺する。
「えっあっ」
彼女は服をしまおうとする。私もそれを手伝う。片付けの作業はすぐに終わったが、他の客の店員の目が両名に突き刺さる。
彼女は言う。
「すいません。出したいものがあったので」
「言ってくれれば最初から手伝ったよ」
「しっかり整理してたはずなんですけどね」
これです。そう言って彼女はノートを私に手渡す。
「このノートには、春子様が出したCDの売上チャートとか、アルバムが出た日付とかが全部切り抜きで載っています」
「……全部、というのは?」
「全部は全部です。新聞社四つぶんに、雑誌の切り抜きも出来る限り集めました。このへんが新聞切り抜き、このへんはオリコン、このへんは雑誌の特集記事……」
あと、これ。彼女は次にUSBメモリを取り出した。
「これは、ネットにあった春子様に関する記事全部がファイル化してあります」
「……すごいな。これ全部、君だけでやったんだよね?」
「私以外にこんなことする人、居るわけないじゃないですか」
「いや本当に、すごい資料だよ」
そう言いながら私はノートを彼女に返そうとする。しかし彼女は手を伸ばさない。それどころか、きょとんとした顔で一言。
「あげますよ」
と答えた。
「それは――どういうこと?」
「そのまんまですよ、オクムラさん。だってオクムラさんは評伝を書くんでしょ。ああいうのってWe-Pediaだけじゃまずいんじゃないですか?」
「それは確かにそうなんだが、これは君にとっても大事なものなんじゃないのかな?」
「ええ、はい。大事でした。でも今は、私が持っていても仕方のないものです。だって」
『春子様、死んじゃったから』
「私が持っていても、ゴミクズ同然です」
「君がそう言うのであれば、本当に貰ってしまうが……いいんだね?」
「嘘言ってどうするんですか」
「いや! いやいや。本当に助かるよ! では報酬はどのように……」
「報酬なんて! というか、馬鹿にしていませんか。そんな気で東京まで来たわけじゃないんですよ、私。ただ自分で区切りをつけたかっただけですから」
「そうでしたか。いや、本当に良いお話ができました。とても参考になりました!」
「なら――良かったです」
私は最後に残った疑問を、彼女にぶつける。
「ところで」
「……なんでしょう?」
「彼女の最期の言葉……『私は、みんな』って、どういう意味だと思う?」
私がそう質問すると、彼女は晴れやかな笑みを浮かべ――言った。
「ここまで話をしたなら、もう全部分かっているんじゃないですか?」
私は、答えを返すことができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます