大野啓司との対談
<あの一件以来、生理不順が続いている>
<いつものことかもしれない>
この発言は例のアカウント、日本国憲法がSNS上で発したものだ。つまり、私が相手にしているあのアカウントの持ち主は女性だったということになる。
彼女――日本国憲法との交流は今も続いている。語調は荒く、三回に一回は何かしらの罵倒を受ける。だが彼女はそれでも、宮川春子に関する何か、言語化しようのない情念のようなものを持っていて、その行き場のなさに苦しんでいるのではないか、と私には感じ取れる。
私は最近……彼女。ハンドルネーム・日本国憲法の実態を、何となくではあるが察しつつある。
彼女には信仰がある。それも、狂信的な信仰が彼女には、ある。
彼女が崇拝する対象は神ではなく、宮川春子という個人なのだ。畏敬の対象、かつて生きていた神の具現――それが彼女、日本国憲法にとっての宮川春子だ。
もし仮に、現実としての宮川春子に何か誤謬が生じていたとしても、彼女は宮川春子を神と考えているが故に、その誤謬さえも計算された過ちである、という神学的な神の構造の下に回収され、彼女の中にある宮川春子の像は全く曇ることを知らない。汚れなき無謬の神たる宮川春子。それが彼女にとっての宮川春子なのだろう。
そこまで考えて、私はようやく今日の会談相手のことを思い出す。
大野啓司。
大手男性アイドル事務所出身の元アイドル。現在は映画俳優に転身し、幾つかのヒット作で主演を務めた、目下売出し中の映画俳優。この話の時点では、彼と宮川春子に接点は何一つ生じないように思う。しかし業界では、宮川春子の最初の夫だったことで知られている――いわゆる公然の秘密というもので、業界人であれば皆知っているが口には出さないし、それ故に世間一般には知られていない。きっと例の日本国憲法に彼の話をしたら、ものすごくショックを受けるか、或いは怒るかするのだろう。とは言え、そのようなことをわざわざしようとも思わない。
私は赤坂にある大野啓司が所属する事務所本社に呼び出され、約束の時間十分前に現地入りする。
しかし、約束の時間が三十分を過ぎ、一時間を超えても彼は現れない。すっぽかしたということもないだろう。きっと前の現場の仕事で押しているんだ。私はそう考える。結局、彼は約束の時間を一時間と三十四分過ぎた頃になって、ようやく現れた。
「遅れてすいません!」
開口一番、彼はそう言った。
シンプルな服装。白のYシャツにジーンズという、服装だけならどこにでもありふれているような組み合わせなのに、何故か彼にはそれらしい雰囲気があった。
「実際、あまり時間は取れません。申し訳ないですが――あ、名刺も要らないです!」
彼はそう言って、慌ただしく着席する。
「宮川春子の話ですよね? とは言っても僕、一年間結婚してただけなんですけど」
世間にとっての重大事。そして恐らく彼女にとっても重大であったであろう結婚とその生活を彼は事も無げに、いかにも軽々しく形容して見せる。一年間結婚してただけ……。
「彼女、宮川春子と大野さんの馴れ初めについて、何か聞くことができれば」
「あの、ほら。宮川春子のソロの三枚目。無茶苦茶売れたやつ、あるじゃないですか。あれのPVを撮る時に、共演したんです。まあ、あの時の僕はバックダンサーの一人でしかなかったんですけれど……実際、予算が余っていたから僕らが箔付けのために呼ばれたってだけで、本当は誰が後ろで踊っても良かったはずなんですよね……きっと事務所もあやかりたかったんでしょう。世界的アーティストの誕生、その勢いに便乗したかった。それが最初のことです」
「そこから先は、僕の方が彼女にアプローチをかけました。一応これでも僕は当時、それなりに売れていたアイドルの一人でしたし、勝てはしませんが少なくとも名前負けするような立場ではなかったと思います」
「なるほど。大野さんの方から彼女に接近していったわけですね」
「まあ、それはそうなんですけど――実態としては、異性経験のない彼女を大人の僕がお手付きして、悪い言い方をすれば、僕が宮川春子をコマしたんですよ」
「コマした……?」
「ええ、はい。それが本当のところです――今考えても、かなり小狡いやり方をしたように思うぐらい」
「……ですが、大野さんからそのように接近を図るぐらいには、彼女・宮川春子は魅力的だと感じていたんですよね?」
私がそう質問すると、彼はいかにも答えづらそうな感じで言葉を返してくる。
「まあ、その、はい。そうなんでしょうね。そうなんです、きっと……僕にとっては彼女がとにかく眩しく見えてなりませんでした」
「それは宮川春子が当時、世界的アーティストになりつつあったから……ですか?」
「それもありましたけど、核心ではありません――ほら。僕も一応アイドルでしたから。男性アイドルと女性アイドルには色々な文化の違いがありますけれど、どちらにせよアイドルはアイドルじゃないですか」
「分かるといいんですが――アイドルって、輝かしい若さの結晶みたいな、そういう綺羅びやかさそのものを売るビジネスなんです」
「勿論それが全部ではないでしょうけれど、僕もアイドルをやっていたので、何となくそういうものなんだと言うことだけが分かるんです……例えば僕がアラフォーになったとして、僕がアイドルだった時代のファンが継続して今の僕を応援してくれていたとしても、そのファンが見ているのはきっと今の僕ではなくて、過去の輝かしい時代の、あの若い頃の僕の幻影。その面影を、アラフォーの僕から見出すんじゃないかなって思うんです……それを前提において考えると、アイドルというのはやはり『輝かしい若さ』を売るものなんだなって」
「そうした観点からみると彼女・宮川春子は当時アイドルだった大野さんにとってみても、眩しい存在だったわけですか?」
「そうです――人間誰しも、老いには勝てないじゃないですか。時間だけは平等に過ぎていくし、どんなにお金があっても時間を買うことは誰にも出来ない。どんな権力者も大富豪も、美男美女もいずれは老いて死んでいく」
「アイドルの賞味期限なんて特別短いもので、ぶっちゃけ僕ももうその判定なんだと思います……でも、あの子だけは。宮川春子だけは、もしかしたら――そうじゃないんじゃないか。そんな気がしてしまったんです。いつまでも若々しくて、美少女で、アイドルで、綺羅びやかな存在で。宮川春子、ハルコ・ミヤカワであり続けるんじゃないか? ……通じてますかね、この話」
「ええ、何となくは」
「本当に綺麗な子でしたよ、宮川春子は。色素が薄くて、どこまでいっても少女的で、早熟なのに未熟で。自分の足りないところも全部自分自身で選び取ったようなフリをしていて、だから僕は――宮川春子を。心の底から愛していました」
「ですがその言葉はあくまで過去形なんですね。かつては愛していた。そのように大野さんは仰っている……」
「そうですね。正直今は、少し後悔もしてるんです。何であの子に近付いたんだろう……確かに僕はあの子に興味を持って、自分から近付いていきました。そして本当にあの子のことを愛おしいと思っていました。けれど、あの子のその輝かしさ、明るさ、若さは多大な犠牲が払われていたのだということを、僕は理解したんです」
「犠牲、ですか?」
「だって――あの子には。宮川春子には、それ以外に何もないんですよ」
「それ――とは?」
「アイドルです。アイドル足ること、それ以外に彼女には何も持っていないんです。アイドルという要素以外、彼女は何一つ持っていないんです。ただアイドルであるということ。孤高であるということ。美しい虚像であるということ……それ以外のものを彼女は何一つ持ち合わせてはいなかったんです」
「美しいに決まっています。眩しいに決まっています。ものすごく透明な、栄養のない水みたいに、綺麗なんです。でもその水の中で生きていける人間は一人も居ないんです」
「別れたのも、それが理由だと?」
「――半年ですよ。半年。それぐらいで僕と陽子との間には冷たい風が吹くようになりました。なのに彼女――やたらと明るいんですよ。無闇矢鱈に明るくて、必死に何か明るく振る舞おうとし続けて……」
「だから僕は、耐えられませんでした。結局別れを切り出したのも、僕からです……離婚してから僕と彼女との間には、一切交流がありません」
話しているうちに彼、大野啓司の顔は徐々に暗くなっていく。その反応こそが、宮川春子と彼との間にあった一年間の生活の結果なのだと、私は考えた。
「――今、僕は。芸能界とかそういうのに一切興味がないような、普通の……普通の女の人と付き合っています。結局僕には、あの子。宮川春子は手に余る存在だったのでしょう。でも……今も言い切ることができます。少なくともあの頃の僕は、宮川春子のことを、心の底から愛していたんだ、って」
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