紫藤流星との対談
劇団あきかぜの所有する劇場。次に行われるという演劇の練習を私は観ている。
『かつてこの歴史なる大舞台――美しく絢爛たる夜空に輝いたかの星々はいずこにおられる?』
『オルレアンの少女、ヴァレンシュタイン、ゴートの王、デア・グローセ、馬上の世界精神! かの人々……』
舞台上にいる彼らは衣装こそ普段着のままだが、その声と表情だけで情念が伝わってくるような凄味があった。
「騒がしい中で呼びつけて……申し訳ありません」
その隣で、今日の会談相手・紫藤流星はそのように話す。
「とんでもない! むしろお邪魔じゃありませんでしたか」
「いいえ! そんなことはありません。確かに時期は良くなかったかもしれませんが、人が死ぬのに良い時期なんて――ありはしないのですから」
紫藤流星。 日本でも有数の劇団の一つとして数えられる劇団あきかぜにおいて、長く舞台女優をやっている。舞台一筋、演劇一筋で芸歴を保っていることで有名で、映画女優としての誘いも断って演劇を続けたという逸話が今も残っている。……過去に宮川春子が演劇に挑戦した時、彼女に演技指導を行ったのが、紫藤流星だった。
「本当に、亡くなってしまったんですね、春子ちゃん……私、あの子がもうこの世には居ないんだ、っていうことが今も信じられないままなんです。もっともあの子は生前から、実在性があやふやで、私は彼女の輪郭を掴み切れていなかったようにも思います」
「紫藤さんは春子さんに演技指導を行ったと聞いています。当時の話をお聞かせ頂ければ」
「……そう、でしたね」
紫藤流星は何か言葉を発するたび、身体のどこかが動く。その話の内容に合わせて、彼女自身の感情の動作そのもののように、身体のどこかが動いた。
今もそうだ。彼女は宮川春子の話をする時、膝の上にのせられた手がぎゅっと服を掴む。かと思えば、開く。
「でも、私があの子に接していた期間というのはそう長いものでもないのです。確かにあの時、私は彼女に演技指導を行い、以降何度か酒の席にご一緒させて頂いたりもしましたが――例えば木崎さんや大泉さん。三人の夫と比較すればほんの些細な、短い時間しか彼女と触れ合っていません。それでも、やはり彼女・宮川春子は印象的な人物で、その時の衝撃を今も私は忘れ去ることができない」
「良くないですね、自分でも感情の整理がついてないみたい……参考にならないかもしれませんが、お話をさせて下さい」
「無論です。今日はそのためにここまで来たのですから」
そうして彼女、紫藤流星は話を始めた。
「あの頃の春子さんはソロ名義でものすごく売れていて、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。本当であれば次に発表するアルバムの準備をしなければならない……そういう時期に彼女は、演劇への挑戦を表明したんです」
「劇団側からすれば、普段演劇を鑑賞する習慣のない層を呼び込むことができる。やはり利益のある話で……問題になるのは彼女の日程調整が上手く行くのかという部分だけでした――奥村さん」
「はい」
「春子さんが演じることになったあの時の演目、奥村さんはご存知でしょうか?」
「チェーホフの『かもめ』でしたね」
「そうなんです! あの頃のあきかぜは商業演劇にシフトしつつあって、チェーホフやシェイクスピアのような古い演目から離れていた時期にあったんです。それでも『かもめ』をやることになったのは彼女の、宮川春子さんの強い希望があってのことでした」
「確か、ニーナ役でしたね」
「そうです、ニーナなんです――当時もそう思いましたが、今もやはり彼女が、宮川春子がニーナをやるのは皮肉だな、と思いますよ」
「だって! 『かもめ』のニーナと言えば、女優を志望して、有名になることに焦がれて、そうして結局全部駄目になる。全てを失う。そういう役柄じゃないですか」
「最初に話を頂いた時点で、彼女はニーナの役をやりたいと言っていたのを覚えています。私はその頃、世間から距離を取っていて、彼女がどんな歌をうたっているのかについてもあまり詳しくなかったので……嫌味だな、と思ったんです。人気の絶頂にあるアーティストが何故ニーナの役なんかやりたがるんだろう? って……」
「日程の調整は結局、上手く行ったのでしょうか?」
「やはり、難航しました。当時の事務所がものすごく頑張ってくれて稽古日を作ってくれはしたのですけれど、それでもやはり――時間が足りない。皆そのように話をしていました。口の悪い若い子なんて……アイツ、今売れてるからって調子に乗ってるんじゃないのか? って言い始めたりして」
「私は怒りましたよ。そういう生意気なことを言うのは、自分が主役を演じて客を呼び込めるようになってからになさい、と。今もよく覚えています。ほら、壇上の子」
「え、あの人が?」
「誰にでも若い頃があり、若い頃というのは向こう見ずで、焦りがあるもので。まあ、もう随分前の話ですから、案外本人も忘れてしまっているのかもしれませんね?」
そう言って彼女、紫藤流星は軽快に笑う。
「でも、実際に稽古日に春子ちゃんが来て全員と会話をすると、そういう声もなくなりました。春子ちゃんが本当に良い子だったから」
「それに、彼女……宮川春子の演技はそう捨てたものでもありませんでした。勿論、始めはズブの素人ですから、基本的な作法がなっていなかったりするのですけれど、じきにそういう部分もなくなってきて。最後には随分、上手くなりました」
「とは言え、素人だと考えると信じられない……というのが彼女の演技に対する感想で、劇団で見てもその時の彼女よりも上手い演技をする女優はいくらでも居たでしょう。ですが、彼女の――宮川春子の演じるニーナには何かとても真剣で、逼迫した内心があるように思えてならなかったんです」
「『かもめ』の第二幕で、宮川春子が演じるニーナが言うんです」
『わたし、ちょいちょいあなたと入れ代わりになってみたいわ』
『すばらしい世界だわ! どんなにわたし羨ましいか、それを分かってくだすったなら!』
『人の運命ってさまざまなのね。退屈な、人目につかない一生をやっとこさ曳きずっている、似たりよったりな……不幸せな人がいるかと思えば、一方にあなたのように、百万人に一人の、面白い、明るい、意義にみちた生活を送るめぐり合わせの人もある』
「あなたは幸せですわ――嫌味でしょう。だって、あの頃の春子ちゃんは、ニーナが憧れる綺羅びやかな栄華そのものの中に居たんですよ? なのに、不思議と彼女は、栄華そのものに憧れるニーナを徹底的に演じることができたんです。それどころか、あの子自身が時おりニーナに重なるような気さえしました」
「第四幕で彼女はこう言います」
『私たちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、私が空想していたものではなくって――実は忍耐力なんだということが、私には分かったの』
『私は信じているから、もう辛いことは何もないし、自分の使命を思うと、人生も怖くはないわ』
「恐ろしい台詞の連続でした――私自身が何度も何度も聞いているはずのニーナの台詞が、これほど切実に感じ取れたことは、他にそうそうありません」
「確かに私は、彼女に演技の指導をしました。けれども大体は基本的な作法に関するもので、演技そのものには殆ど口を挟んでいない」
「他の団員もそうでした――勿論、今までに私たちが見てきたニーナと比べれば、粗いところは沢山あったし、突っ込みどころも多かった……けれども、宮川春子が演じるニーナとしては、あれほど完璧なものはなかったでしょう。彼女が演じるニーナは完璧なニーナではありませんでしたが、宮川春子が演じるニーナとしては、完璧だったのです」
そこまで話をすると、彼女はポーチから水を取り出し、それを飲んだ。
「すいません。一方的に話し倒してしまいましたね」
「いえ、貴重なお話をお伺いすることができて、とても感謝しております」
彼女は言う。宮川春子は、宮川春子が演じるニーナという役柄として完璧なものを演じ切ったのだ、と。しかし同時に、目の前に居る彼女・紫藤流星は、今は亡きアーティスト・宮川春子の話をする紫藤流星という役柄を演じているようにも思えた。その所作は完璧で印象的で、程よい抑揚がつけられていて、そして――完璧すぎるが故に、不自然だった。
「いいえ。私にしても、奥村さんが今まで取材してきた相手と比較すれば、彼女については何も知らないのと同じなんです」
「当時既に春子さんは著名人の一人で、色々な逸話があったものですから、私も彼女と初めて会う時には身構え、覚悟したものです。けれども実際は、とても良い子でした。でも」
「……でも?」
「あの子はきっと、ニーナを演じたかったわけではないんじゃないのかしら」
「と、いうのは?」
「あの頃の春子ちゃんは、一人目の旦那さんとぎくしゃくしていて、作家の芹沢さんに出会った時期でしょう。きっと、芹沢さんが口説きがてらチェーホフの話をして、その話の中に出てくるキャラクターになってみたくなったんじゃないかしら?」
「演じるというのと、なりきるというのは似ているようで違うものなのです。まして、なろうとするのがニーナで――きっと彼女は、あの『かもめ』の内容そのものよりも、ニーナというキャラクター。その概念を教えられて、それになってみたくなった。だから、なってみた……それ以上のことは何もなかったんじゃないでしょうか」
「……難しいですね。私は演劇については殆ど素人ですから」
「ああ、なるほど……すいません。確かに難しい話かもしれませんね。でも、そう。ここまで話してみてやっと私にも分かったことがあるんです」
「もしかしたらあの子、アーティスト宮川春子は、心の底から演じたいものなんて、何一つ持っていなかったんじゃないかな?」
「誰かがこれになってくれと言って、なってくれと言われた何かになって、毎回毎回その中身は変わるのですけれど、手渡されたものにその場その場でなりきって、なり続ける。それが彼女の――宮川春子の、本質だったのではないだろうか?」
その話を聞いて私は、阿久津光輝から話された彼女・宮川春子との馴れ初めを思い出していた。本物になろうとする感情、その作為が宮川春子には存在しないように思われた。彼もまた、そのように話をしていた。
紫藤流星は話を続ける。
「だから、宮川春子は完璧なんです。完璧で居続けることを求められ続けて、それになり続けたから彼女は、完璧なままでいられたんです。けれども、あの子自身には。宮川春子自身には『何もない』んです……そっか、そういうことだったんですねえ」
「私が取材してきた人の中に、似たような話をされる方がいらっしゃいました」
「そうなんですか? そう言われると何か、嬉しいような気もしますね――だって。私あの子と本当に僅かな時間しか一緒に居ることができなかったから」
「奥村さん、私ね――あの子が年老いていく姿が想像できなかったんですよ。だって、あの子はいつも周りから、若く光り輝く一等星であることを求められ続けていたから。そして彼女は、求められた何かになり続けていたから。だから、彼女は夜空に浮かぶ一等星であり続けた。暗い暗い夜の闇の中で、ただその一夜を綺羅びやかなものにするために光り輝いて、またたいて――そうして消えていった。その綺羅びやかな夜も、朝日がのぼれば全て終わり」
「残酷な話だわ。シンデレラの舞踏会のようですけれど、そこでシンデレラが階段で死んでしまったら、それはもう――お伽噺にはならないというのに」
彼女がそこまで話をした直後、劇団員の男が彼女に声をかける。
「紫藤さん、そろそろ」
彼女は劇団員に小さく返事をし、また再度私に向かって声をかける。
「すいません。どうも予定より多く時間を使ってしまったようです」
「でもね。誰かにお話したかったんですよ。春子ちゃんのお話を……何ででしょうね?」
「彼女には、不思議な魅力があるようなんです。私も最近、そういった感覚が彼女の周辺人物にはあるのだということが理解できるようになってきました」
「そうですか……そうなんでしょうね。でも本当に、お話できて楽しかったです。評伝、もし書き上がったら教えて下さいね。何とかして購入して、読む機会を作りますから」
では。……そう言い残して彼女・紫藤流星はその場を去った。
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