夢中

「クレハちゃん」

 宮川春子は電話口でそう言っている。プリズムが存在していた頃と同じように、親しげに――彼女はそう呼んでくる。

「もう、本名で呼べって言ってるじゃない。事務所も違うんだから」

 その頃、既に宮川春子はトラストからベイトラックスへ行っていた。トラストは嫌味を言うかのようにプリズムのベストアルバムを発売し、宮川春子の一枚目のCDの話題をかき消した。……本当であれば私と宮川春子がこうやって親しげに会話を交わすのもあまり褒められたことではない。舞台はもはや企業間のやり取りの方へ移行していて、私たち同士で決められる枠には収まっていない。

けれども、宮川春子は言う。

「でも私にとって、クレハちゃんはクレハちゃんなんです」

 彼女はいつもそう答える。クレハちゃんは、クレハちゃんだから。他の何者でもない。そう言い続けている。

「で、用件は何? あんたも暇じゃないはずよね」

 その頃、宮川春子はソロ名義での名声を確立し、海外のファンから『ハルコ・ミヤカワ』と呼称されるようになっていた。日本でも、海外でも――誰も彼もが、彼女のことを知っていた。

「それで。その、あの」

 宮川春子は言い淀む。世間の、アイドルとしての彼女を知る人々は、かつてのメンバーとの電話の中で、このように歯切れの悪い感じに話をすることを知りはしないだろう……そう思うと少し、仄暗い快感があるような気がする。彼女の駄目なところを、私だけが知っている……。

「家、来て欲しいんです」

 彼女はそう話す。

「また? 最近行ったばかりじゃない」

「また、こんがらがっちゃったんです」

 こんがらがった。この言い回しを彼女は好んでいた。

「何。また言うわけ? そう、まるでライク・ア・ローリング・ストーン――とでも」

「あはは」

 彼女は笑う。綺麗な声で。楽器のように、高らかに。

「ごー、だうんらいく、あ、りーどばるーん」

「今度はニューヤードバーズね」

「五月くんってドラム上手いし、日本版ジョン・ボーナムみたいですよね」

「縁起でもないことを言うんじゃないの」

 ニューヤードバーズ――一般にはレッド・ツェッペリンとして知られている伝説的なバンドの、そのドラマー……ジョン・ボーナムは酒の飲み過ぎで吐瀉物を喉に詰まらせて死亡している。

「で……いつ家に行けばいいの?」

「そう来なくっちゃ! パーティーの準備しないといけません。ピザとかも頼んで」

「目的が違うでしょ。ホームパーティをやりたいんじゃなくて、散らかった部屋の掃除を手伝って欲しいんでしょうが」

「あはは、そうでした!」

 次の土曜日、家に来て欲しいです。

宮川春子はそう言って電話を切る。

「私も暇じゃ、ないんだけどな――」

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