記者・奥村剛男の回想
その日の一連の作業を終え、私は新着メールを確認する。複数の業務メールの間に一つ、妙なメールが混ざっている。
〈【重要】情報管理に関して【注意喚起】
〈 各位
〈お疲れさまです。夕日新聞システム部の唐川です。
〈最近デスク上に名刺等の個人情報関連書類が放置されている事例が散見されます。
社内であったとしても個人情報の管理は厳重に行って頂くよう、改めて徹底をお願い致します。
〈我々は新聞社に務める社会人です。もし仮に個人情報が流出すれば、個人の問題のみならず会社そのものの信用を毀損し、売上にも影響します。
各自、これまで以上に自覚を持って情報管理を徹底して下さい。
〈 夕日新聞システム部長 唐川裕二
私は笑う。既に私はもう夕日新聞の社員ではないというのに、このようなメールが未だに届く。システム部への情報通達が上手くいっていないのだろう。或いは、私が社員であるか否かがメール発送時点では分からないので、とりあえず送付したのか。想像はいくらでもできるが……何であれ、不思議な感じがする。
既に私は関係者の幾人かと連絡を取り合っている。私の記者人生を賭けて執筆される、宮川春子の評伝……まだタイトルは決まっていないが、じきに決まるだろう。
宮川春子。
日本が生んだスーパースター。その名前を知らない日本人はもはや居るまい。
彼女は二〇二〇年七月三日に死亡した。死因は脳挫傷だという。報道初期には自殺の可能性が示唆されたが、それすらも最後には曖昧になってしまい――誰にも分からない。
追悼番組の放送も終了し、世間は彼女の死を忘れつつある。人の死は世間にありふれている。人は死ぬものだ――地位も名声も、名誉も肉体も、何もかも関係なく、どんな人間であっても……生まれ落ちたその時点で、いずれは死ぬということを運命付けられている。宮川春子も、他の普通の人類と同様に、何の特別さもなく、不幸にも死亡した……確かに、二十七歳で死んだというのは不幸な事実と考えられるであろうが、逆を言えばそれ以上の感慨を世間の人々が抱くことはない。
追悼番組では、立志伝中の人たる宮川春子の過去を飾り立てて表現した。過去の関係者、例えばプリズム時代のメンバーや私的に交流のあった人々からコメントを求めれば、皆口を揃えてこう話す……彼女は死ぬにはあまりに早すぎた、と。
しかし――果たして。『早すぎた』というその一言。ただそれのみが彼女の死を形容するに足る言葉なのであろうか。彼女はあまりに早く死に過ぎた……その通りだ。だが本当に、それだけが死後の彼女にかけられるべき唯一の言葉なのだろうか。
宮川春子の評伝を書こうと決めたのは、そうした世間に流布する宮川春子の偶像が果たして本当に正確を期したものであるのか? という疑問が私の中で芽生えたからだ。
スーパースター、ハルコ・ミヤカワ。
世界の宮川春子、ハルコ・ミヤカワ。
日本生まれのポップスター、日本文化の伝道者、その伝説、ハルコ・ミヤカワ。
若くして死んだ、27クラブのもっとも直近の加入者――ハルコ・ミヤカワ。
言語に尽くしがたい何かが、形容されぬままに残されている記憶がそこにはあるような気がした。それを誰かが、言葉にして残さなければならない。記者としての私の野心に火がついた。後はその道を進むだけ……。
私が夕日新聞社の直属の上司に退職を申し出た時、彼は一言。
「喫煙室で話そう」
と言い、私はそれに同意した。
新聞社の喫煙室。いつもは何人か別の社員がいて煙をくゆらせているものだが、その時は珍しく誰も居なかった。
「待遇に不満があるのか?」
上司の男は煙草を取り出し、一本どうかと私の目前に差し出した。私は断った。禁煙二年目だった。
「いいえ。本当に、純粋に自己都合ですよ」
「珍しいな」
「でしょうね」
「不満があって転職か、病気退職。大抵はそんなものだ。自己都合とは便利な言葉で、この一言さえあれば全ては総括される。そうであった方が都合の良い場面の方が世間では多い。しかし、そうではないわけだな?」
「はい」
「別の仕事に興味が湧いたか。それは副業では具合が良くないと?」
「ええ……最初は考えましたが。やはり、難しいのです」
「差し支えなければ、退職の理由を詳しく聞かせて貰えないだろうか?」
「部長は、私が大学生だった頃の専攻科目をご存知でしょうか?」
「英文科卒。卒業論文はジョージ・オーウェルに関するものだったそうだな。どこで聞いたかまでは覚えていないのが」
「はい、その通りです」
「象牙の塔が恋しくなったか?」
「いえ、そうではありません。とは言え、大差ないことです」
「というと?」
上司は一本目の煙草を吸い終え、二本目に火をつけた。
「評伝を書きたいんですよ」
「へえ、誰の?」
「宮川春子の評伝を」
ミヤカワ、ミヤカワ。彼は誰に言うでもなくそう一人呟いて思案する。幾らか時間が経つ。彼はああ! と言った。
「ハルコ・ミヤカワか。去年死んだミュージシャンの?」
「はい、そうです」
「君が彼女のファンだったとは、知らなかったよ」
そう言われて私は言葉を濁した。実際のところ、私が彼女に興味を抱いたのは彼女が死んでからだった。
「作家になりたいとまでは言いません。ですが、記者として。物を書く人間として何か、後世に残るようなことをしたいんです」
「それで、評伝を?」
「そうです」
「ほお――そりゃあ、ご苦労なことだ」
けれどな。彼は言う。
「新聞記者という仕事には定席がある。君が居なくなった後には別の誰かがそこに座っている。君の席はもうそこにはない。言ってしまえば、替えが効く。だからこそ……得難いものだと考えることもできる」
「私はそれが、嫌なんです……分かるでしょう? 確かにそこは今の私の定席でしょう。しかしいずれは追われる。栄達するか追われるか。私にはもう、栄達を望むには現実的な段階にない」
「自分のことをドン・キホーテだと思ったことは?」
「多分私はドン・キホーテなんでしょう。ですが、今でなければ先駆者たり得ません。じきに誰かが同じようなことをして、本が残って……どのように残るのかは定かではありませんが、いずれはそうなる。自分自身がそうなるには今しかないんです」
「もし、ドン・キホーテの試みが失敗した時には?」
「別の仕事か、或いは同業他社へ」
「間違いなく格が下がるぞ」
「覚悟の上です」
「そうか」
「出版関係の人とも話をしています。あとは書くか否か、というところでしょう」
「そこまで決まっているなら、私は何も言えない。ただ、応援するとも言えない」
「構いません。それに、引き継ぎはしっかりやります。跡を濁すつもりはありません」
「なら、そのように組もう。色々な段取りが必要になるが、付き合ってくれるな?」
「はい、勿論です」
私が答えた直後、彼は三本目の煙草を取り出す。吸う量が多いので私はほんの少しだけ、彼のことを心配した。
彼は三本目の煙草を勿体ぶった感じに吸いながら、ぼそりと言う。
「少し、羨ましい気もするな」
私はそれに答えを返さなかった。
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