第十一章

       一


 花月と光夜は人気ひとけのない火除ひよけ地に差し掛かった。


「今夜は久々の稽古なんだけど……」

 花月がそう言って立ち止まった。

「どうやら先に実戦稽古があるようだな」

 光夜も花月とぶつからないところまで移動してから足を止めた。

 二人の周りを男達が取り囲む。

 黒い羽織袴に頭巾で顔を隠している。


「人が来る前に片付けろ」

 一人がそう言うと男達が一斉に斬り掛かってきた。


 光夜は一番近い男に駆け寄りながら抜刀して横に払った。

 脇を通り過ぎた男が腹をかれて倒れる。

 反転して刀を振り下ろしてきた男を逆袈裟に斬り上げる。

 横から突き出された切っ先をたいを開いてける。

 男がそれを横に払ってきた。

 光夜は鎬で跳ね上げると大きく踏み込んで男の喉を突く。

 周りの男達を倒した光夜は花月の方を振り返った。


 花月は男の刀を弾きながら後ろに下がったところだった。

 他の男達は倒れている。

 残っているのは一人だけだ。


 光夜は男に駆け寄ると刀を振り下ろした。

 同時に花月も前に踏み込んで刀を突き出す。

 男は光夜の刀を払うと花月の刀を弾きながら踏み込んで横に薙ぐ。

 花月は屈んでけると曲げた膝を伸ばして勢いを付け懐の飛び込み突きを放つ。

 男はたいを開いてかわしながら刀を横に払った。

 花月が刀で受け止めると同時に光夜が男に突きを放つ。

 男が花月の刀を押しやりながら後ろに飛び退き着地と同時に前に飛び出した。

 花月の顔に向かって刀を突き出す。

 それをけずにそのまま刀を振り下ろした。

 刀が花月の頬をかすめる。

 男はたいを開いて花月の切っ先をけながら刃を倒して横に薙ぐ。

 花月が姿勢を低くしてけながら後ろに跳んだ。

 光夜が男に向かって刀を振り下ろす。

 花月を追撃しようとしていた男は光夜の刀を弾きながら後ろに飛び退いた。


「小僧の持っている者をこせば此度こたびは見逃しても良いぞ」

 男の言葉に光夜は眉をひそめた。

「……追いぎか? 金目の物なんか持ってねぇぞ」

「こやつは以前、西野家の籠を襲ってきた男ゆえ、目当ては連判状――」

 花月が光夜にそう言ってから、

「――であろう?」

 と男に向かって訊ねた。


 あれか……。


「そういう事だ。あれを渡して二度と西野家に関わるな。その綺麗な顔に傷が付いたら嫁の貰い手が無くなるぞ」

「心配御無用。ケガをしたら貰ってやるという者がおるのでな」

「…………」


 当てにされてると思っていいのか?


二目ふためと見られぬ顔になってもそう言うかな」

「顔が気に入ったから言ったわけじゃねぇよ」

 その言葉に男がちらっと光夜に視線を向けた。

「そやつが死んだらどうする」

「剣術の師範として糊口ここうしのげる故、独り身でも困らぬ」


 若先生なら喜んで家に置いといてくれそうだしな……。


「そなたこそ、それだけの腕があるなら仕官の道があろう」

 頭巾から見えている男の眉が上がった。

 一時雇いではなく既に仕官しているのだ。

 次丸派の誰かに。


「これだけっても意味ねぇぞ。書き写した物があるからな」

筆跡が違えばどうとでも言い抜けられる」

 連判状の中に名前がある者に送り込まれたのだ。

 そしてその者は次丸派だという事を知られたら困るのだろう。


 男は刀を青眼に構えた。

 花月が八双に構える。

 男の目が向いた瞬間、花月が刀身の向きを変えた。

 刀身に反射した夕陽が男の目を射貫く。


「ちっ……!」

 男が咄嗟に目をらす。

 即座に花月が踏み込んで刀を振り下ろした。

 男が咄嗟に受けようと刀を振り上げる。

 花月はその瞬間、一旦刀身を引き、素早く前に突き出した。

 同時に光夜も懐に飛び込んで突きを放つ。

 男は刀を振って花月と光夜の剣を弾きながら大きく後ろに跳んで二人の刀の間合いから出た。


 牽制するように前に剣先を二人に向けている。

 夕陽でくらんだ視界が元に戻るのを待っているのだろう。

 日没間近の日差しは弱いから目はすぐに戻ってしまうはずだし同じ手が通用するとは思えない。

 元々日の光が目に入らないように常に夕陽に背が向くようにしていたのだろう。

 花月もそれに気付いたから刀身を利用して反射させたのだろうがそろそろ完全に日が沈む。


 他に目眩ましになるような物は……。


 懐に手を入れると懐紙が手に触れた。

 光夜は懐紙の束を掴み出すと男に向けて放り投げた。


 懐紙が散って宙を舞う。


 花月は納刀すると男に向かって懐紙の間を駆け抜けていく。

 男が花月に刀を向けようとした瞬間、懐紙の死角から花月が脇差を投げ付けた。

 男が脇差を上に弾く。

 刹那、花月が抜刀して斬り上げた。

 男はそれを払うと返す刀で横に払う。

 花月が後ろに飛び退いてける。

 男は花月を追うように刀を突き出した。

 花月がぎりぎりまで待ってからたいを開いてかわす。

 男の腕が伸びきり引き戻されるまでの僅かな隙に光夜が駆け寄って刀を突き立てた。


「ぐっ!」

 男は口から血を流しながらも光夜を睨み付けると刀を薙いだ。

 光夜は刀から手を放すと背後に身体を倒した。

 目の前を刀身が通り過ぎていく。

 花月が背後から心の臓を貫いた。

 男は声もなく絶命して倒れた。


「まだ明るいし人が来たら面倒だから早く離れましょ」

 花月はそう言って地面に倒れている光夜に手を差し出した。

 光夜はその手を掴んで立ち上がると、花月と共に急いでその場を離れた。


       二


「強くなってるでしょ」

 花月が言った。

「え?」

「前に襲ってきた時は勝てなかった相手を倒せたんだから腕が上がってるって事よ」

「あ……」


 そうだ……。


 以前は二人掛かりでなんとかやられずにんだと言うだけの強敵だ。

 それを倒すことが出来た。

 自分では分からなかっただけで強くなっているのだ。


「前にも言ったけど村瀬さんとの試合が五分五分なのは村瀬さんも腕を上げてるってだけよ」


 そうか……。


 今度は素直に納得出来る気がした。

 信之介が文丸の代わりに座っている時間はごく僅かだし、かといって屋敷からは出られない。

 吉野と知り合う前は算術の話が出来る相手もいなかったのだから暇な時は剣術の稽古くらいしかすることがなかっただろうから当然腕は上がるだろう。


「ていうか、あんた、俺が悩んでるのに気付いてたんだな」

「私だって同じ事で悩んだんだから当然でしょ」

「えっ!? 花月も!?」


 花月にも守りたい相手がいたのか……?


 確か想いを寄せていた相手は剣の腕が立つと言っていたはずだから守りたいと考えていたとは思わなかった。


 いや、死んじまったから守れるだけの力が欲しかったとか……?


「当たり前じゃない。いくら手加減されてるって言ったって痣が出来るほど打たれるのってすごく痛いんだからね」

「…………」


 そうだった……。

 剣術の稽古だけは花月にも容赦ねぇんだった……。


「打たれないようにするには強くなるしかないんだからどうすれば早く腕が上がるか考えるわよ」


 そりゃそうだ……。


 光夜とは理由が大分違う気がするのだが、早く強くなりたいと思ったという点は同じなのだろう。


 なんだかすごく気が抜けたんだが……。


 悩むなというのは深く考えるなという意味なのだろうか?


 光夜が首を傾げていると、

「けど、この色の小袖着てきて良かったわね」

 花月が自分の身体を見下ろしながら言った。

「え?」

「返り血がべったり付いてるのよ。まだ明るいのに返り血で染まった小袖なんか着てたら人目を引くでしょ」

 そう言われて花月を見ると確かに小袖の色がさっきより黒に近くなっている気がする。

 濃紺なのと日暮れ時だから目立たないだけないのだ。

「着替えたいし、早く帰りましょ」

 そう言って花月は足を早めた。


 翌日、西野家に行くと信之介が何やら考え込んでいる様子だった。

 稽古が終わって文丸が部屋に戻ってしまうと、

「どうしたんだよ」

 光夜は信之介に訊ねてみた。


「実は……」

 篠野からこのまま西野家の家臣にならないかと持ち掛けられたというのだ。

 ここ数日、文丸と一緒に学問をしている信之介を見ていた吉野と稽古を付けていた夷隅が篠野に推挙してくれたらしい。

 文丸と信之介は今は瓜二つでも数年後には面変おもがわりして見分けが付かないほどではなくなるかもしれないし、そうなれば影武者はつとまらなくなるかもしれないが、文丸と同じくらい学問が出来、その上で剣術の腕も悪くないと夷隅が言ってくれた。

 このまま夷隅に稽古を付けてもらっていればい相談役兼護衛役になれそうだということらしい。


「婿養子じゃなくて御役目にけるって事か?」

「そうなる」

「ならなんで迷ってんだ?」

 微禄でも武家の屋敷は広い。

 武家が住むのは主から与えられた拝領はいりょう屋敷で、屋敷の広さは石高などによって違うのだが禄高ろくだかが少なくてもそれなりの広さがあった。

 桜井家もそれほど石高こくだかが高いわけではないが、それでも屋敷の敷地内に稽古場を建てられるくらいである。

 江戸の人口の半分は武家だ。

 逆に言えば半分(の中の大半)は町人である。

 にも関わらず、町人は狭い場所にひしめき合って住んでいる。

 これは武家屋敷の敷地が江戸の町の多くを占めていたのが一因である。

 屋敷が広いのは普段連れて歩かなければならない家来の数が決まっていて、その家来達を敷地内に住まわせる必要があったからだ。

 陪臣の場合、雇い主である大名や旗本の屋敷内にある長屋に住む。


 家臣が必須の大名や大身の旗本はともかく、桜井家のように中間一人とか、使用人のいない御家人などは敷地は広いが使用人用の部屋は必要が無い。

 そのため直参の武士は家族が少々多くても家が狭くて困るという事はまずない代わりに同居の家族は一家の主が養わなければならなかった。


 信之介の家のように微禄びろくの御家人ともなると俸禄ほうろくは少ないし、主人が出世して加増されるか役料でも付かない限り収入は増えない。

 御役目にけば普通は屋敷も拝領するから家から出ていく。

 つまり同居しているのは仕事のない無収入の者と言うことである。

 しかも俸禄はほぼは変わらないのに物価は年々上昇しているから武家はどんどん生活が苦しくなっているのだ。

 だから小禄しょうろくの武家はどこも内職をしているのだ。


 信之介の親が商家からの婿養子の話に乗り気なのも、養子先の家からの援助を期待しているからと言うだけではなく、〝厄介〟を一人減らしたいというのもあったのだろう。

 部屋住みは負担でしかない。

 特に禄高ろくだかの少ない御家人にとっては。

 だから〝厄介〟だの〝冷や飯食い〟などと呼ばれているのだ。

 援助は無くてもいいから、せめて御役目に就いて家から出ていって欲しいと言うのが本音だろう。


「西野家に出仕するとなると陪臣という事になる故……」

「お前、直参か陪臣かなんて事にこだわってんのか? 部屋住みや牢人よりずっとマシだろ」

「そうなのだが……」

 信之介は、ちらっと花月に視線を向けた。


 ああ、なるほど……。


 弦之丞は家格を気にしたりはしないだろう。

 問題は家格ではない。

 直参なら御家御取り潰しにならない限り御役目がなくなったとしても家と俸禄は(かなり減ることになるにしても)残るが、陪臣は自分が取り潰されるようなことをしていなくても、主家が取り潰されたら俸禄も屋敷も失って路頭に迷う。

 あまりにも沢山の大名家を取り潰したために牢人が増えて江戸の治安が悪化したので最近はよほどのことがない限り取り潰しは減ったが御公儀が取り潰さなくても跡取りがいなくて御家断絶と言うこともある。

 断絶して家がなくなる事がないように末期養子まつごようしも許されるようになったのだがそれでも断絶してしまうことがある。

 末期養子というのは跡継ぎのいない者が亡くなる直前に急いで養子を迎えて跡継ぎの届出を出すことである。


 西野家は文丸を跡継ぎとして届け出てあるが、もし今文丸が亡くなってしまった場合、まず文丸が死亡したという届出を出し、それが受理された後で次丸を跡継ぎにするという届出を出して許可が下りるという手順を踏む必要がある。

 次丸を跡継ぎにするという届出を出す前に、西野家当主が落命したら断絶するかもしれないのだ。

 次丸は養子ではなく実子だから大丈夫かもしれないが、次丸が亡くなるまでの間に跡継ぎが出来なければ同じである。

 どれだけ身体が丈夫で若かったとしても流行病や事故で急死というのは珍しくない。

 それで主家が潰れたら再仕官の口が無ければ浪人になるしかなくなる。

 陪臣はそれくらい危うい立場なのだ。


 弦之丞が花月の許婚として選んだのが花月が想いを寄せていた相手ではなく、出世の見込みがある従兄弟の方だったことを考えると陪臣では大身でも許してもらえるかどうか分からない。

 特に西野家のように身内で揉めている家の家臣となれば尚更だ。


       三


 部屋住みのままでも嫁は貰えないのだが、仕官出来ても陪臣では花月を嫁に貰うのは難しいだろう。

 かといって商家の婿養子でも無理だ。

 ただの養子なら町人の方が裕福で生活に困ることはないし跡継ぎがいなくて家が断絶と言う心配もないので町人の養女に出すという形で花月の身分を町人にして嫁がせるという選択もあっただろうが婿養子では正式な嫁には出来ないのだから弦之丞が認めるわけがない。


 どのみち花月は諦めるしかねぇだろうな……。


 それは言われるまでもなく本人が一番良く分かっているだろうし、追い打ちを掛けるのもどうかと思ったので黙っていた。

 それより先にやらなければならないことがある。

 どうやら例の連判状は次丸派のもので間違いなさそうだから篠野に渡した方がいいだろう。


 そう思って篠野に会いに行ったのだが警護の者に「篠野様はお忙しい」と言って追い払われてしまった。

 直参の子である花月や信之介なら対応ももう少し違ったのだろうが光夜は牢人だから下に見られてしまうのだ。

 光夜は仕方なく夷隅に稽古を付けてもらっている花月の元に戻った。


「来客、ですか」

 文丸の稽古が終わり、花月と光夜が夷隅に稽古を付けてもらっている時、夷隅がさり気なく「明日は若様のご友人がお越しになるそうだ」と告げた。

 文丸は楽しみにしているらしい。

 同い年の友達と会って他愛のない話に興じれば立て続けに親しい奥女中を失って落ち込んでいる文丸の気も晴れるだろう。

 他家との交流は当主や当主の跡継ぎの大事な務めでもあるから理由もなしに断るわけにはいかない。

 しかし他所よその家の家臣の身元までは調べていない。

 大名の跡継ぎが警護なしでやってくるはずがないし、次期当主にもしものことがあったら大変だからそれなり人数の警護がいてくるだろう。

 今でさえ屋敷内に敵がいるのだ。

 全く身元を調査していない者が大勢屋敷に入り込むとなるとかなり危険が増す事になる。

 明日は警戒しておくようにと言うことだろう。


 西野家からの帰り道、

「なぁ、あんた、町方に月代剃れって言われることねぇ?」

 光夜が訊ねた。

 髷を結うのは勿論、月代も伸ばしてはいけない事になっている。

 月代を伸ばしている者は町方に捕まるのだ。

「あるわよ」

「そう言う時どうしてるんだ?」

「私は剃らなくていい理由が三つあるから」

「三つ?」

「まず、女でしょ」


 そりゃそうだ……。


 月代を剃らなければならないのは男だけだ。

 花月は男の格好なりをしているが女であることを隠してはいない。

 よく見れば喉仏がないのが分かる。

 男だと思わせたいときは低い声で武士のような話し方をするが、それ以外では女言葉だし、声からして明らかに女だ。


「それから?」

「うちは旗本だから」


 そうだった……。


 旗本は町方の管轄ではない。

 だから御用聞きなどは不良旗本に手を焼いているらしい。


「あと一つは?」

「武芸者」

 悪戯いたずらっぽく笑いながら答えた。

「え……」

 月代を剃らなければいけない決まりなのだが例外がいて、それが医師と武芸者である。

 医師で剃らない場合は医師の髷を結う必要があるが武芸者は特に決まった髪型はない。

 とは言え、金のない牢人ですら月代を剃るのは腕が立たない者がそう簡単に武芸者を名乗るわけにはいかないからだ。

 武芸者を名乗って勝負を挑まれた挙げ句、敗北をきっしたりしたら武士としての面目が立たない。


 花月は〝武士〟じゃねぇけど……。

 万が一負けたりしたら師匠の体面が潰れるんじゃねぇの?


 翌日の午後、文丸は嬉しそうな表情をしていた。

 ここしばらくうれいに沈んでいて、いかにも悄然しょうぜんとしていると言う感じだったのだが久々に友人に会える事になって元気が出たのだろう。


 花月と光夜、信之介も同席して友人を待っていた。

 最初、花月は口実が思い付かなくて悩んでいたようだが、篠野が花月の事は「旗本の知り合いがいると何かと好都合だから友人に紹介してはどうか」、信之介の事は「若様と瓜二つの者がいると驚かせてはどうか」と文丸に進言してくれたらしい。

 光夜は花月の付き添いである。

 大名家の次期当主に紹介するほどの旗本の子なら使用人を連れていてもおかしくない。

 文丸は浮かれた様子で友人の話をしていた。


 不意に花月が庭に視線を向けた。

 それを見て光夜も鳥の声がしなくなったことに気付いた。

 周囲に複数の気配がする。


「しかし遅いのう。そろそろ着いても良い頃じゃが。誰かに様子を見に行かせ……」

「若様、沢井様にはお断りの書状を出しておきました故、本日はお出でになりませぬ」

 不意に身成みなりの良い武士が現れて言った。

「遠藤……!」

 部屋の隅に控えていた夷隅が脇に置いていた太刀を掴んだ。


 遠藤……?


 確か連判状の中に遠藤という名前があったはずだ。


 隣の部屋や庭にも多数の気配がする。

 花月と光夜、信之介と夷隅が文丸を守るように取り囲んだ。

 不意に目の隅で何かが光った。

 次の瞬間、女中の首に懐剣かいけんが突き立っていた。

 光夜達が背を向けた隙に文丸を殺そうとした女中の手から夷隅が懐剣を奪い逆に刺したのだ。


「よね!」

 文丸が叫んだ。

 いつも文丸の側に控えていた奥女中の一人だ。

 文丸は動揺した様子で、よねの死体を見ている。

 かなり信用していたのだろう。


 毒を入れたのもこの女か……。


「夷隅先生、村瀬と共に上屋敷に行って助けを呼んできて下さい。我らがここで此奴こやつらを足止め致します」

 花月が側に居る者にだけ聞こえる小声で言った。

「若様を置いていくわけにはいかぬ」

 夷隅が囁き返す。

「若様は上屋敷まで走れないでしょう。追っ手に追い付かれた時、二人で若様を守りながら戦うのは難しいのではありませんか?」

「花月さん、若様のことは拙者が命に代えて……」

「活人剣の教えは人を殺さない事だけではない。自らが死なない事もまた活人剣の教えである」


 え……。


 夷隅の言葉に光夜は顔を上げた。


 それって……。


       四


「若様をお守りするなら盾に出来るものがある屋敷内の方が向いています。ここで若様を守りながら助けを待つのが上策だと思われます」

「でしたら拙者もここで若様を……」

「夷隅先生だけでは西野様への目通りが叶うまでに時間が掛かるかもしれない。けれど、が行けば話は別。ならすぐに西野様の元へ通してもらえるはず」

 ここにる刺客を送り込んできたのが西野家当主なら話は別だが、次丸派が放った連中なら助けてくれるだろう。

 西野家当主は文丸に影武者がいることは知っているにしても、本人にしろ影武者にしろ突然やってきたとなれば危急の知らせがあるという事だから直々に会って話を聞いてくれるはずだ。


「他にが上屋敷に辿り着く方法がねぇんだよ」

 もちろん、多勢に無勢で掛かられたら信之介も夷隅も殺されるに違いない。

 だが、ここにこれだけ集めたのは夷隅を警戒してのことだろう。

 だとすれば、夷隅を包囲網から突破させた上でこの連中を花月と光夜で足止め出来れば追っ手はせいぜい数人のはずだ。

 少人数なら夷隅一人で対処できるだろう。

 信之介は足手纏あしでまといにならない程度の腕はあるし上屋敷まで走れるだけの体力もある。


「夷隅先生、そこにいる遠藤って遠藤助左衛門公保きみやすですか?」

 光夜が小声で訊ねた。

「そうだ。知っておるのか?」

 その答えに光夜は懐から守り袋を取り出すと素早く夷隅に渡した。

「中に連判状が入ってます。遠藤という名もその中に。西野様に届けて下さい」

「しかと承知した。村瀬と共に必ず御前様に届ける」

 夷隅がそう言って懐に守り袋を入れた。


 問題はここで助けが来るまで文丸を守らなければならない花月と光夜だ。

 文丸が攻撃されないように気を配りながら戦うのは普通に戦うよりも難しい。

 側仕えの奥女中ですら裏切っていたとなると誰も信用出来ない。

 だが文丸以外は全員敵と見做みなしていいなら味方かどうかの見極めは必要ないから躊躇ちゅうちょなく斬り伏せられる。


 花月が油断なく辺りに目を配っている。

 隣の部屋や廊下からも人の気配がする。

 庭にもいつの間にか何人もの武士がいる。

 どこなら文丸を守れるのか考えているのだろう。


 やがて、花月は覚悟を決めた表情になると、

「夷隅先生、村瀬さん、合図したら走って下さい。村瀬さん、上屋敷に着くまで何があっても足を止めないで」

 夷隅が戦うためにその場にとどまったり、場合によってはそこでられるかもしれないが、それでも立ち止まるなと言う事だ。

 夷隅が勝てない相手では信之介が加勢したところで負けるだけだし、信之介が上屋敷に辿り着けなければ夷隅だけではなくここに居る全員が命を落とすことになる。

 夷隅がどうなろうと心を鬼にして残していかなければならないのだ。


「分かりました」

 信之介が真剣な表情で頷くと同時に花月が廊下へ続く襖の前にいた男達に棒手裏剣を放った。

 一人は目に突き刺さって悲鳴を上げ、もう一人は脇差を抜いて棒手裏剣を払った瞬間、夷隅に斬り伏せられていた。

 夷隅はそのまま他の男達を斬って道を開いていく。


「行け!」

 光夜の言葉に信之介が夷隅の後を追って走り出す。

 夷隅が前方の敵を次々と斬り倒していく。

 信之介も抜刀して敵の刀を弾きながら夷隅の跡を追っていく。


「先に若様をやってしまえ! 死んでしまえばこちらの勝ちだ!」

 遠藤の言葉に男達が一斉に斬り掛かってきた。


 文丸の背後は床の間だ。

 花月と光夜が文丸の前に立ち塞がって敵をはばめば敵は近付けない。

 光夜は文丸と庭への入口近くの間に立って脇差を抜いた。

 室内で長い刀は不利だ。

 花月も文丸の斜め前、廊下の入口との間に立って脇差で敵を倒している。


 光夜は斬り掛かってきた男の刀を弾くと後ろに押すように腹を蹴った。

 その男の背後から向かってきていた男に倒れ込んで二人揃って転がる。

 すぐに向きを変えると突き出された刀身を叩き落として二の太刀で首に切り付ける。

 血管ちくだを切られた男が血を噴き出しながら倒れる。


 花月が男の刀を弾いた時、大きな音がした。

 振り返ると壁を突き破って槍の切っ先が飛び出してきたところだった。

 花月は男に背を向けて文丸に駆け寄ると槍穂の鎬に脇差を思い切り叩き付けた。

 脇差が折れて刀身が飛ぶ。

 ぎりぎりのところで文丸から槍の切っ先がれる。


 廊下から刀を腰に構えた男が文丸に突っ込んでくる。

 花月は男の顔目掛けて折れた脇差を投げると同時に文丸の袖を掴んで引き後ろに倒した。


 刀身が文丸の目の前を通過する。

 武士が二の太刀で斬り下げてくる。

 花月は床の間の刀掛けに左手を伸ばして脇差を掴むとさやで男の刀身を受け止めた。

 鞘に刀身が食い込んで男の動きが止まる。

 男が咄嗟に引き寄せた刀身を追い掛けるように鞘を押し付けながら右手で脇差を抜くと下から突き上げた。

 腹に脇差が突き刺さる。


 花月は脇差から手を放すと男の刀を奪って横から斬り掛かってきた男の刀を弾き、返す刀で横に払った。

 喉を掻き切られた男が前のめりに倒れ込んでくる。

 それを別の方向から斬り掛かってきた男の方向に蹴飛ばすと光夜の死角から斬り付けようとしていた男に脇差を投げ付けながら刀掛けの太刀に手を伸ばす。

 即座に抜刀すると喉を切られた男にぶつかられた武士が足を止めた瞬間、二人まとめて串刺しにした。

 そのまま二人を後ろに突き飛ばす。


 文丸の悲鳴に振り返ると男が斬り掛かろうとしていた。

 花月が棒手裏剣を出そうと懐に手を入れた時、文丸に斬り掛かろうとした男が倒れた。

 背中を斬られて血を溢れさせている。

 地味な小袖に袴姿の男が小太刀こだちを握っていた。


「若様、こちらへ」

 もう一人の男が文丸の腕を掴んで立たせた。

 小太刀の男が道を開き、もう一人が文丸を連れ出す。

「光夜、右へ!」

 花月が倒れている男の刀に飛び付きながら叫んだ。

 光夜が右にける。

 襖から刀身が突き出してきて光夜がいた場所を貫く。

 花月が刀を投げ付ける。

 襖に刀が刺さると同時に悲鳴が上がり襖と男が倒れてきた。


「光夜」

 花月は光夜に声を掛けると抜刀して向かってくる男達を斬り倒しながら庭に飛び出した。

 光夜が後に続く。


 謎の二人組と文丸は石灯籠の近くにいた。

 普通の太刀に持ち替えた男が文丸を庇うように立って身構えている。

 花月は一間半ほど手前で立ち止まると文丸に背を向けて文丸達を取り囲んでいる男達に切っ先を向けた。


「花月、若様は……」

「あいつらを信じましょう」

「いいのか?」

「殺す気ならとっくに殺してるでしょ。わざわざ庭に連れ出してから殺す理由がない」

 一理ある。

 仮に文丸の命を狙っているとしてもすぐに殺される心配がないなら男達を先に倒した方がいい。

「それより……」

 花月は一瞬背後の地面に視線を向けた。

 よく見えないが撒菱に気を付けろという事だろう。


 文丸は石灯籠の脇にしゃがみ込んでいるようだ。

 おそらくあそこは石灯籠や木の死角になって銃や弓などで遠くからは狙えない場所なのだ。

 槍や刀で間合いに踏み込もうとすれば撒菱で足にケガをする。

 以前戦った伊賀者なら撒菱で足をケガした人間など赤子の手をひねるようなものだろう。


       五


 不意に花月が身体を沈めたかと思うと跳ね上げるように刀身を上に弾いた。

 それた槍の切っ先が花月の方をかすめる。

 槍の男があっという間に穂先を手繰たぐり寄せる。


 光夜は槍の男に脇差を投げ付けると抜刀しざま斬り掛かってきた男の太刀を弾いた。

 そのまま踏み込んで刀を払い男の脇腹をくと左足を軸に身体の向きを変えながら斬り上げる。

 切っ先が男の首をねる。

 更に前に踏み込んで別の男の懐に飛び込んで袈裟に斬り下ろす。

 刀身が肋骨に引っ掛かる。

 動きの止まった光夜に別の武士が横から斬り掛かってくる。


 光夜は刀から手を放すと武士の懐に飛び込んだ。

 振り下ろされた刀身をけると左手で武士の手首を掴んで右の掌で峰を下に押し込んだ。

 武士の手が緩んだ瞬間、柄に手を掛けると太刀を奪い横に払った。

 太刀を奪われた武士の腹がける。

 武士の背後の男が、武士ごと光夜を貫こうと太刀を突き出した。

 光夜が右足を引きたいを開いてける。

 太刀が武士の身体を貫通した。

 光夜が男に身を寄せる。

 男が太刀を引こうとしたが鍔まで突き立ててしまった刀身を抜ききる前に光夜が首をねていた。


 横から向かってきた男に向き直ると切っ先で首の血管ちくだねようとしたが切っ先では斬れなかったので刃先を押し付けて引くことで強引に斬り裂いた。

 もう斬るのには使えそうにないが周囲に視線を走らせてもすぐに奪えそうな刀は見当たらない。


 右から武士が突っ込んでくる。

 光夜は足下の小石を蹴り上げた。

 顔に礫が当たった武士の動きが僅かに遅れる。

 その隙に振り下ろされた刀をけると武士の脇腹を突いた。

 左から斬り掛かってきた別の男が刀を振り下ろす。

 光夜は武士の身体を男の方に蹴飛ばす。

 振り下ろされた刀が武士の肩に食い込む。

 男が慌てて後退するが武士の身体が一緒に倒れ込む。

 光夜は武士の身体をけて男の左側に回り込むと男の脇差を抜いて首をねた。

 反転して後ろから斬り掛かってきた別の武士の刀を弾くと袈裟に斬り下ろす。

 そのまま身体の向きを変えながら横に払って背後から斬り掛かってきた男の腹をく。


 光夜は男の腹に刀を突き立てた。

 勢いが付いていたので柄まで刺さってしまう。

 光夜は男の腹に片足を掛けて思い切り後ろに押しながら刀を引き抜く。

 男は二、三歩後退あとずさった後、戸板といたにもたれかかるようにくずおれる。


 光夜は肩で息をしていた。

 もう立っているのがやっとだ。

 辺りを見回すと男達は全員倒れていた。


 花月の方を見ると地面に刀の切っ先を突き立てて柄頭つかがしらの上に手を載せて立っていた。

 背筋を伸ばして顔を上げてはいるものの、実際は刀で身体を支えてようやく立っているのだろう。

 光夜と目が合うと花月はかすかに口角を上げた。

 微笑わらったようだ。


 遠藤が信じられないと言う表情でこちらを見ている。

 背後に視線を走らせると文丸も無事だった。

 もう大丈夫と判断したのか、警戒しつつも伊賀者が文丸が立ち上がるのに手を貸している。

 文丸から一間ほど離れたところにも男達が倒れていた。

 花月と光夜が戦っている隙に文丸を殺そうとして伊賀者に返り討ちにったのだ。

 文丸を守りながら刺客を二人だけで倒したのだ。


 その時、男達の騒ぐ声と共に、

「若様! 花月さん! 光夜殿! ご無事ですか!」

 信之介と夷隅が武士達を引き連れて駆け寄ってくるのが見えた。

 上屋敷からの応援が来たのだ。

 遠藤が狼狽した様子を見せる。

「おい」

 光夜の声に遠藤がこちらを向いた。

「俺達の勝ちだ」


 花月と光夜は西野家の屋敷で少し休んでから帰途きといた。


「さすが伊賀者だったな」

 光夜が文丸を護衛していた男達を思い出しながら言った。

「伊賀者って何のこと?」

「え、何って師匠が西野家は伊賀者を……」

「光夜、稽古場以外の場所で聞いたお父様やお兄様の話、信じちゃダメって言っておいたでしょ。それ多分嘘よ」


 ええっ……!?

 命に関わるようなことでまで冗談言うのかよ!?

 信じらんねぇ……。


「じゃあ、あいつらは?」

「さぁ? 西野様に雇われてる武士でしょ。忍びかどうかも分からないわよ」

「撒菱使ってたのに?」

「手裏剣だって武士も使うでしょ。撒菱だって持ってれば使うわよ。いつも言ってるでしょ。戦場で手段を選んでたら死ぬんだからね」


 江戸は戦場じゃねぇよ……。

 花月や師匠達は生まれる時代と場所を間違えたんじゃねぇのか……。


       六


 数日後、花月と光夜はもう西野家に行く必要がないので以前と同じように桜井家の稽古場をしていた。

 稽古の後の掃除が終わった頃、信之介が訊ねてきたので一緒に花月のいる母屋に向かった。


「夷隅先生より、これを光夜殿に返すようにと預かってきた」

 信之介が守り袋を差し出した。

 夷隅が届けた連判状により次丸派と判明した者は処分されたらしい。

「拙者は正式に西野家に仕官することになりました」

「そう、おめでとう」

 花月が心からの笑顔でお祝いの言葉を言うと、信之介は複雑な表情で、

「ありがとうございます」

 と頭を下げた。


 混じりっけなしの笑顔じゃ、どう考えても信之介をこれっぽっちも思ってないって事だもんな……。


 いくら仕官を決めた時点で諦める覚悟をしていたとは言え、はっきりと態度で示されてしまうのは追い打ちを掛けられたも同然だ。

 光夜は密かに同情した。


「剣術は夷隅先生に師事することになりました故、こちらは……」

「うちのことは気にしなくて良いわよ」

 花月がにこやかに言った。

 その言葉に信之介が俯く。

 信之介の事は欠片も想っていなかったという事だ。


 とどめを刺されたな……。


 まぁこれも武士の情けだ。


 花月は〝武士〟じゃねぇけど……。


 変に気を持たされていつまでも諦められなくても困るだろう。

 西野家の家臣になれば篠野か吉野辺りが頃合いを見計らってい相手を紹介してくれるはずだ。

 吉野に娘がれば婿に望まれるかもしれない。

 そうなれば義父子おやこで延々と算術談義をしていられるのだからその方が幸せだろう。

 妻に愛想をかされなければ、の話だが。


 信之介は弦之丞と宗祐に挨拶すると帰っていった。


 そういえば……。


「なぁ、夷隅先生の言ってた活人剣って、あれ桜井家うちと同じだよな」

「だから言ったでしょ。夷隅先生は柳生新陰流からそんなに変わってないかもしれないって」

「いや、そこじゃなくて……」

「夷隅先生もその部分は変えてないんでしょ」

?〝も〟って、もしかして師匠も柳生新陰流なのか?」

「お父様は西光院様の孫弟子よ。知らなかった?」

「聞いてねーよ! てか、あんた〝他流〟の教えをいたいって……!」

「お父様も夷隅先生も今は柳生新陰流じゃないでしょ。廻国修行で色々変わったんだし」

「…………」

「あ、そっか、誓約書の事もあんたに言うの忘れてたんだった」

「誓約書?」

「うちはあんまりうるさくないんだけど、稽古場によっては他流に教わるの禁止してるところがあるのよ」

 門弟の束脩で食べてるところなどは他の道場に移られると困るので他の稽古場では教わらない、などの誓約をさせているところがあるそうだ。


「だから完全に他流となると教わるのは難しいのよね」

 桜井家は領地があるから食うには困らない。

 門弟からの束脩は当てにしてないから束縛してないのだ。

 ただ門弟が習いにいくのはともかく、他所よその門弟に迂闊に稽古を付けたりすると揉め事の種になる。

 門弟同士での乱闘騒ぎになったら厳罰が下される。

 それこそ御家お取り潰しになるのだ。

 他所よそも同じ事を危惧きぐしている場合があるから安易に教えを請えないらしい。

「機会があれば二天一流にてんいちりゅうとか教わってみたいんだけど」


 二天一流……。

 宮本武蔵か……。

 ホントに流行りモノが好きなんだな……。


「はぁーーー」

 光夜はがっくりと肩を落とした。


 なんか、すっげぇ振り回された気がする……。


 これからも桜井家でやっていくのは別な意味で覚悟がりそうだ。

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比翼の鳥 月夜野すみれ @tsukiyonosumire

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