ちょっとした魔法を見せてあげる

尾八原ジュージ

リカコさんとぼく

 リカコさんのベッドは大部屋の一番奥、窓のすぐそばだった。

 およそ十年ぶりの再会になる。ぼくのことを覚えているか不安だったが、カーテンを開けると彼女はすぐにこちらを見上げ、「やぁ少年」と言って十年前と同じ笑顔を見せてくれた。

「リカコさん、ぼくのことちゃんと覚えてる?」

「覚えてるさ。ご飯作ってやったり、添い寝してやったりした仲だろ。きみは全然顔が変わらないね」

 はは、とリカコさんは小さな笑い声を上げた。声には時々痰が絡むようなノイズが混じり、彼女はそのたびに少しだけ眉をしかめた。

「びっくりしたかな? 私、ずいぶん老けちゃっただろ」

「そんなことないよ」

 ぼくはリカコさんの顔をぼんやりと見ながら言った。確かに、びっくりしていないと言ったら嘘だった。闘病の影響だろう、リカコさんはすっかり痩せて、骨と皮ばかりの体つきになっていた。ずっと見ていると涙腺が爆発しそうだったので、ぼくは窓の外に視線を移した。

「まぁ、あのリカコさんが病気したって人伝に聞いたときはびっくりしたけどね」

「ああ、私も病名を聞いたときはびっくりしたよ。たぶん、これが最後の外出だな」

「そう言うなよ。まだ四十歳とかその辺でしょ?」

「三十八だ。そこ大事」

「ごめんごめん」

 ぼくは相槌をうちながら、勝手にリカコさんのバッグを持ち上げた。

「おい少年、いっちょまえにエスコートのつもりかい?」

「リカコさん、ぼくはもう二十五歳だよ。いっちょまえかは知らないけど、少なくとも少年ではない」

「へぇ! こないだ小学校に通ってたと思ったのにな」リカコさんは大げさなほど驚いた。「こんなでっかいランドセル背負ってさ。月日が経つのは早いもんだねぇ」

 そう言って笑い続けるリカコさんはやっぱり驚くほど痩せて、顔には年相応以上の皺が寄っていた。でもそれでいて、彼女にはまだ昔の輝きが宿っていた。子どもだったぼくに初めて「やぁ少年」と呼びかけたときの、あの目の奥が痛くなるような強い光が。

 リカコさんはよいしょと言いながら体を起こし、看護師とぼくの肩を借りて車椅子に移動した。


 母が離婚し、ぼくを連れて郷里の町に帰ったとき、ぼくは八歳だった。家賃の安い長屋が建ち並ぶ地域で、ぼくと母ふたりきりの新生活が始まった。

 リカコさんはぼくたちの右隣りに居を構えていた。背が高くてスタイルがよく、異様に気さくで世話焼きの彼女は、こちらが挨拶に行くよりも早くぼくたちの家の玄関を叩いたものだ。

「やぁ少年、初めまして」

 そう言いながら差し出した手をおそるおそる握ると、リカコさんはにぃっと笑ってから、ぼくの手をぎゅっと握り返した。もちろんその後ちゃんと名乗ったが、リカコさんはいつでもぼくのことを「少年」と呼んだ。

 あの当時、ぼくの生活は灰色だった。まず第一に貧窮していた。母は留守がちな上にいつもいらいらしていて、それでも父に殴られたりしないだけ生活はマシになった。だが「ぼくんちはマシになってこれなんだな」と思うと、逆に行き場のない怒りのような哀しみのような感情が胸の底にわいてきて、そういうときぼくはひたすら黙り込んだ。悲しくなって長屋の屋根に登ると、似たような屋根の連なりの向こうに真っ黒な工場の煙突の群れが見えた。

 あの頃色彩に満ちていたのはリカコさんだけだ。艶のある豊かな黒髪をおおざっぱに結い上げ、耳に大振りのピアスを揺らし、青いデニムと赤いスニーカーをよく履いていた。何より瞳が輝いていた。彼女の明るい茶色の光彩に映るぼくは、実際のぼくよりもいくらかマシな世界に生きているように見えた。

 ぼくと母が別の街に移り住むまでのおよそ七年間、リカコさんはぼくの世界の中心だった。


「少年の運転する車に乗る日が来るとは思わなかったな」

 後部座席に座ったリカコさんが、ハンドルを握るぼくに声をかけてきた。バックミラーに映るリカコさんの髪はあの頃のような烏の濡れ羽色ではなく、ところどころに白髪が光って、ボリュームも減っている。

「なかなか上手じゃないか、運転」

「そうかな。ありがとう」

 リカコさんに運転を褒められる日が来るとは思わなかった、と返すと、彼女は声をたてて笑った。

「少年、実は先日余命宣告されてね」

 リカコさんの言葉に、ぼくは何も言い返せなかった。「いいんだよ」とリカコさんは言った。

「投薬のせいで頭がいつもぼやーっとしててね、色々難しいことが考えられなくなった代わりに、恐怖とか不安とか、そういう感情もほとんどないんだ。今日だって、少年が迎えに来てくれる予定だったのを、うっかり忘れそうになってたくらいだよ」

 リカコさんには家族がいない。親も子供も配偶者もおらず、本人もひとりで静かに人生を終えるつもりだったらしい。血縁でもなんでもないぼくだが、今日はそのプランにちょっと水を差しに来たのだった。

「少年、今日はどこに行くんだい?」

「うーん、ないしょだな」

「ないしょか。そりゃ楽しみだ」

 リカコさんはそう言うと、「ちょっと疲れたな」と目を閉じた。ぼくは黙って車を走らせた。


 見るからに貧乏な家庭のこどもだったぼくは、転校早々いじめに遭った。学校には行きたくないけれど、母に叱られるからさぼることもできない。

 加えて母は、ぼくが家の外で厄介事に巻き込まれるのをひどく嫌った。いじめのことなど相談できる雰囲気ではなかった。ぼくにとって、リカコさんは唯一の話し相手だった。

「学校、バクハツしちゃえばいいのに」

 一度そうこぼしたことがある。リカコさんはわははっと笑った。

「わかるぞ少年」

「リカコさんでもそんな風に思う?」

 こんなにかっこよくて明るい人でもそう思うんだ、と思って、幼い日のぼくは驚いた。玄関の前の敷石に並んで腰をおろしながら、リカコさんは「あるある」と言ってうなずいた。

「私も職場爆発しねーかなーって思うことあるし」

「どかーんって?」

「もうちょっと派手に、どっっかーん!! ぐらいだな」

 ぼくたちはそんな話をして笑った。

 十歳の夏の夜のことだった。夕方、リカコさんは母に断ってぼくを誘い、車で山の方へと向かった。彼女の自家用車は古びた青い軽自動車だった。

「どこに行くの?」

「今日はなぁ少年、きみにちょっとした魔法を見せてやろう」

「リカコさん、魔法使えんの?」

「まぁ見てなさい」

 山の中腹に小さな見晴台のようなものがあった。リカコさんはそこでぼくを降ろすと、「あの辺見てな」と言って町の方を指さした。藍色の空に、三日月がひとつかかっていた。

「いいか? 行くぞ? よーし、どっっかーん!!」

 景気のいい声を上げながら、リカコさんが前方を指さす。と、向こうの方からひゅるひゅると火の玉が空へと上がった。それは上空でぱっと光の花を咲かせ、ドォンという爆発音がそれに遅れて聞こえた。

「どうだ少年、すごいだろ。私の魔法は」

 リカコさんが得意そうな顔で振り向く。ぼくは思わず笑ってしまった。

「……リカコさん、花火大会に合わせて来たでしょ」

「なんだ。すぐバレたなぁ」

 リカコさんは大きな口を開けて楽しそうに笑った。「ま、でも穴場だろ? ここ」

「そうだね」

 リカコさんは車に積んであったクーラーボックスから、サイダーを出してぼくにくれた。ぼくは夏になると、今でもサイダーの甘さと遠くに見えた花火を思い出す。


 時が流れ、今レンタカーのハンドルを握っているのはぼくだ。車は県境を越え、かつてぼくたちが出会った町へと入っていった。

「リカコさん、懐かしいとこに来たよ」

 そう言って振り返ったが、リカコさんは眠っている。これから起こることのために、今は休んでいてもらおうと思った。車は山道に入っていく。

 調べておいた地点には数十分間で到着した。車を路肩に寄せて停めると車外に出て、向こうの山から聞こえる放送を聞きながら腕時計とにらめっこした。しばらく時間を潰した後、リカコさんを揺り起こした。

「リカコさん、着いたよ」

 リカコさんはゆっくり瞼を開け、辺りを見回して「ずいぶん山の中だね」と呟いた。

 ぼくは後部座席のドアを開け、リカコさんに双眼鏡を手渡しながら「あれ、見える?」と指を指した。ガードレールの向こう、谷川を挟んだ先に、山の緑を押し開くようにして巨大な建物がひとつ建っていた。

「あれは……」リカコさんがそう言って顔を上げた。「懐かしいなぁ。S山ホテルだろう? あれ」

「そう。もうとっくに潰れて廃墟だけどね」

「むかぁし、私が働いてたとこじゃないか。何のつもりだい? 少年」

「まぁ見てなって」ぼくは腕時計を確認した。「今日はぼくがリカコさんに魔法を見せてあげようと思って」

「ああ、昔見たっけね。花火」

「もっとすごいやつだよ」

 そう言ってぼくはまた腕時計を見た。あと一分。

 そのとき、サイレンがけたたましく鳴り始めた。リカコさんが「ふぅん」と言って小さく微笑む。ぼくは聞こえないふりをしてなおも待ち、タイミングを見計らって指を伸ばした。少し早めに、でも早すぎはしないように。時間ぴったりに右手の人差し指を掲げ、あの日のリカコさんみたいに前に突き出す。

「どっっかーん!!」

 思い切って大声を出した。

 しん、と静寂が続いた。まずい、スベッたかもと思った瞬間、ドンと全身に響くとんでもない音と震動が、空気を伝ってやってきた。

 向こうの山の中腹にあったホテルの廃墟が、ぼくの指先の向こうで前のめりにばったりと倒れる。白い煙が濛々と上がり、瓦礫の山をあっという間に覆い隠した。

「うおぉ、すげ……どうよ」

 山の向こうに見えた光景に自分でもドキドキしながら、リカコさんの方をふり返った。彼女は笑っていた。目元の涙をぬぐいながら、

「あははは、すごい魔法だ」

 そう言ってなおも笑った。ぼくは照れ臭くなって頭を掻いた。

「ほら、昔よく言ってたからさ。職場爆発しねーかなって……」

「うんうん、覚えているよ。いやぁ、これはすごいな。爆破解体か、初めて見たよ。そういえば今日やるってニュースで言ってたな。国内じゃ珍しいらしいね」

「あー。やっぱり知ってたかぁ」

 ぼくとリカコさんはしばらく声をあわせて笑った。

「すごくいい気分だ」

 リカコさんが言った。「こんな清々しい気分になったのは初めてだ。ありがとう、祥太郎くん」

「ちょっ、いきなり名前で呼ぶなよ」

「ふふふ」

 リカコさんは笑っていたけれど、その表情には疲れが見えた。自分でもそれがちゃんとわかっているらしく、「そろそろ帰ろうか、少年」と言った。

「そうだね。帰ろうか」

 ふたたび後部座席で眠ってしまったリカコさんを乗せて、ぼくは病院へと戻った。いつまでもこうしてドライブしていたい気分だった。

 バックミラー越しに見るリカコさんの顔は不思議と若く、宗教画のように美しく神聖なものに見えた。ふいに、あの長屋に住んでいた頃のリカコさんの姿が、脳裏に鮮明に蘇ってきた。

 急に目頭が熱くなった。ぼくは路肩に車を停め、リカコさんを起こさないように口元を押さえて、声を殺して泣いた。

 リカコさん、花火を見せてくれてありがとう。たくさん面倒みてくれてありがとう。

 十年も会わなかったぼくを覚えていてくれて、「少年」と呼んでくれて、ありがとう。

 ぼくはあなたに、何かお返しすることができただろうか。


 病院の前では、手回しよく看護師が待ち構えていた。目を覚ましたリカコさんを、慣れた手つきで後部座席から車椅子に移動させる。車椅子の上で、リカコさんはぼくを見上げた。

「少年、今日はありがとう。最高の魔法だった。私の願い事を叶えてくれたんだね」

「ぼくじゃなくて、解体工事の業者がだけどね」

「私にとっては、きみが魔法使いだ」

 リカコさんを病室まで送り届けると、ぼくはベッドの上で朦朧とし始めた彼女の手を握って「さよなら」と言った。

「さよなら、少年」

 リカコさんは小さな声で応えた。

 リカコさんはそれから二ヶ月後、ぼくが仕事で遠方に行っている間に亡くなった。まるで眠っているように穏やかな死に顔だった、と担当の看護師から聞いた。

 

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