第1話
退屈かもしれないけれど、まずは前置きから始めよう。
コインに表と裏があるように、社会にも表と裏がある。だが、どちらが裏で表かは分からない。それを知っているのは裏に通じている人間だけ。裏を知って初めて、それまでいた場所が表だと知る。裏の社会に正義は存在しない。存在するのは悪だけだ。裏社会に蔓延る悪は、表からでは落とせない。落としたつもりでも地下深くに張り巡らされた根を取り払うことは出来ない。出来るとしたら、裏社会の人間だけだ。蛇の道は蛇、犯罪に通じている者なら、犯罪を解き明かすことも簡単だ。
これは、悪を以て悪を制する裏社会の探偵社JAMESの活動の記録である。貴方がこの上なく厄介で、困難な問題を抱えているのであれば、ご一読の価値はあるだろう。後は、貴方の持ち込む謎が『
◇
東京都豊島区池袋。サンシャイン60通りから一本外れた路地。地図を片手に俺は目的の場所を探していた。夜ということもあってか、路地には表社会の人間とは思えない人相の悪い連中が闊歩している。
2030年、貧富の差の拡大、進学や就職といった競争の激化、加速していく現代社会からはドロップアウトする者が多数生まれた。表社会から取り残された人間達が隠れるようにして創り上げたのが裏社会だ。都会の通りから一本外れた路地裏には、まるで別世界が広がっている。大都会という砂漠に残された無法者達のオアシス、それが路地裏だ。
俺は
「ええと、裏池袋3-12のBは……と。」
異世界の怪物の体内にでも迷い込んだかと思う程入り組んだパイプは、ここに居る人間が一筋縄ではいかないことを表しているようにも思える。お陰で目的地が全く見つからない。周りにいる無法者達に話しかける気はないし、話しかけられることはない。お互い不用意に関わらないのが暗黙のルールだからだ。彼らから見た俺は十分に裏社会の人間として映っているのだろう。
表社会の人間はめったに裏社会に足を踏み入れることはない。裏を知らない人間は、自分達が今いる場所が健全な社会だと気が付くことはない。まぁ、それは逆も同じだ。昔の俺がそうだったように。
「裏池袋3-12Bならあそこから入れますぞ。」
懐かしい記憶が頭を過った所で、傍らで占い屋を開いていた怪しげな老婆に話しかけられた。生暖かい妖気を発する彼女が指さす先には更に細い路地があり、その先に確かにポストが見えていた。
「あのどうして……」
「そろそろ来るだろう、と言われたんじゃよ。」
さっきの独り言が聞こえていたのだろうか、それとも老婆の慧眼なのか。ポストの脇の入り口を眺めながら尋ねた言葉は、老婆に遮られた。誰に、と聞こうと振り向いた時には既にそこに老婆の姿はなかった。出店に残された水晶に貼られた臨時休業の札だけが風に揺れていた。
「何なんだ、全く。」
仕込みか何か知らないが、老婆を捕まえて事情を聞くのは難しいだろう。どうやら進むほかないらしい。俺は覚悟を決めて老婆が指示した方向に向かって歩き始めた。
毒々しい色の蜘蛛が張り巡らせた巣に引っかからないように潜りつつ、何とか入り口に辿り着いた。正面にはエレベーター、右手は壁で左手には上に続く階段があった。目的地は五階。万全を期すなら階段で行くべきだろう、と思考をまとめた所でエレベーターのドアが開いた。俺より先に誰かが呼んだ形跡はない。偶然にしては出来過ぎている。さっきの老婆の発言といい、ルームシェアの相手からの挑発だろう。いいだろう、乗ってやるさ。
昔ながらの古めかしいエレベーターが上昇していくのを振動で感じながら、俺は狸顔の店主が言っていた奇妙な条件を思い出していた。俺が自分の条件を伝えると、店主は店の奥に一度消えてから、何やら今さっき書きなぐったと思しき紙を持ってきた。
『ここのルームシェアならお客様の条件にも合うと思うんですが、条件が厳しくてですね。「黒髪黒目、視力は良いが目つきは良くない。白系の服をよく着ていて、黒が嫌い。それなりに腕は立つが、血の匂いはしない。年齢は十八で、妹が一人いる。」なんですよ。お客様は……いけそうですね。』
その時の店主の呆けた顔をよく覚えている。彼が呆然としてしまったのも無理はない。何故なら、ルームシェアの相手が提示した条件は全て俺に当てはまっていたからだ。妹の有無は店主には分からなかっただろうが、俺も同じような顔をしていただろうから、察してくれたのだろう。ここのルームシェアの相手は気難しい人間だ、という言葉を言い添えて彼は地図を描いてくれた。それが裏池袋3-12Bだった、という訳だ。
チン、と軽快な音が五階到着を告げた。扉が開いた先は玄関になっていた。壁には犯罪探偵社JAMESと書かれた看板が掛けられており、いかにも過ぎて胡散臭い。左手にあった重厚な扉を開ける。蝶番があげる悲鳴を聞きながら開けた先には、アンティーク家具の揃った部屋が広がっていた。床には赤い絨毯、朱色の格子模様の壁には暖炉が備え付けられている。その両脇には無造作に並べられた本棚がある。正面にある大きな窓からは月光が覗き込んでいた。所々にある間接照明の光もあって、部屋の中は明るい。そして、中央に二つある一人掛けのソファの片方に一人の少女が座っていた。
透き通る紫の髪は怪しく、濡れているように見える。二か月は切っていなさそうな後ろ髪は、アシナガグモを思い起こさせる。前髪は斜めに切り揃えられており、その下からこちらを見据える瞳は赤と青が入り混じった色をしていた。首から下は黒紋付と腰を締めるコルセット。スレンダーな体つきだが、軽く透けるスカートから覗く足からは、それなりに引き締まった身体であることは確認できる。色合いが全体的に毒々しい。例えるなら、毒蜘蛛とでも言うべき少女が目の前にいた。
「鑑賞会は終わりかな?黒川健斗君。」
声をかけられるまで、自分が一言も発していないことに気が付かなかった。どうやら、黙りこくったまま少女を見つめてしまっていたらしい。うまく息継ぎが出来ないまま、慌てて頷く。
「それならいいんだ。私は君のことなら何だって手に取るように分かる。少しぐらい不埒な視線を向けられたところで、別に怒りはしないさ。」
「何でも?」
「そう、何でも。君が元暗殺者で、秘密結社『CHILDREN』の構成員。この裏社会に肉親がいて、その人間を探している。昔は人を殺していたけれど、今はめっきりやっていない。それは能力的な問題というよりも精神的な問題だ。私の元を尋ねてきたのはお金がないから。慎重な性格で、今日は階段を使おうとした。好きな動物は犬。」
「な、ど、どうやって……。」
無数の手に全身を撫でまわされた気分だ。今、彼女が言ったことは殆ど当たっている。彼女の
俺の反応を見ながら、少女は袖口からペロペロキャンディを取り出した。紫色、ということはブドウ味だろうか。彼女はその包装を剥きながら話始めた。
「簡単なことだよ。血の臭いはするけれど、何年も経過したような古びた臭いだ。この世界にいるのに、血の臭いが薄いということは、昔殺しをしていたけれど、今はしていない。君くらいの年齢なら、殺しをしていた頃は子どもだろう。身体つきはしっかりしているし、無駄が少ない。これはプロの鍛え方だ。そうなると、組織に所属していたと考えるべきだろう。殺しと子どもが結びつく組織は暗殺者養成機関『CHILDREN』くらいだ。加えて、この世界で組織から脱退する時は死ぬ時だけだ。せっかく生きて脱退したのにまだこの世界にいるのは、まだこの世界でやることがあるから。友達の線もなくはないが、何年も裏社会で追いかけている所を見るに肉親の可能性が高い。そして、その白いスポーツシューズには埃が付いている。私は階段を使わないからね。埃が付いた、ということは階段の方に踏み込んだ、ということだ。以上、全てはあくまで推測だ。」
驚きで声が出ない。類稀なる観察力、いや連想力の持ち主なのだろう。頭ではそう分析しつつも、自分の経歴が簡単に明かされてしまったことを受け入れるだけの器量がなかった。
だから、やっとの思いで口から出たのは、単純な疑問だった。
「す、好きな動物が犬、だったのは?」
「それは勘。君は犬っぽいから。」
「はぁ。さいですか。」
自分の推理が当たっていることを察したのか、彼女は満足そうに微笑んだ。その顔を直視するのは何となく居心地が悪くて視線を逸らした。目が向いたのは、物書きをするための椅子。その上には、灰色と白が混じった色の犬のクッションが置かれていた。
シベリアンハスキーだよ。そう言うと、エムは包装紙から露わになったキャンディを包装紙の上に置いてからこちらに向き直った。
「名乗り遅れたね。私は
聞いたことがある。
「俺は黒川健斗。まぁ、あんたは知ってたみたいだけど。」
「そうしょげないでくれ。ちゃんと君がここにたどり着けるように案内しただろう?」
「……あれはどういうトリックなんだ?」
大きな窓に近づいて階下を見下ろす。視界には、先ほどまで俺と占い師の婆さんがいた所がすっかり収まっている。婆さんへの連絡はこの部屋からでもできただろう。でも、俺がこの部屋の入居条件を聞いたのは、ここから二駅ほど向こうの不動産屋だ。そこに俺が訪れるなんて事が分かるはずがない。
「それこそ簡単なことだよ。私もあの店に居たんだ。」
「え?」
「数日前から、私の情報網にある青年の話が引っかかった。『低家賃で安全な住処を探している青年がいる。』とね。何てことはない、どうでもいいニュースだったけどね。暇だったから、推理してみたんだ。この青年はどこの誰で、何故住処を探しているのか、をね。そして、君が訪れた不動産屋を調べ、次に訪れる場所を調べておいたんだ。それからは店に先回りして、店の奥に隠れていれば解決だ。」
「じゃあ、ずっと店の奥から俺のことを見てたってことか。」
「そうなるね。店長が一度消えたタイミングがあったろう?そこで私が条件を書いた紙を渡しておいたのさ。」
「普通、そこまで暇つぶしに時間をかけるか?」
俺一人を驚かせるために費やされた労力は暇つぶしの域を超えているように思う。裏社会の人間の素性を洗う、ということは即ち、相手に喧嘩を売るのと同じだ。もし推理が外れていて、俺が殺し屋だった場合、目の前の少女を生かしてはおかないだろう。いや、この言い方は正確ではないかもしれない。裏社会の人間であれば、生かしておくという選択はない。素性を知られていてはいけないのは、弱点になり得るからだ。ここは密室に見えるし、他に人の気配もない。少女を拘束するのは容易いだろう。一瞬、彼女の姿が妹と重なって躊躇いが生まれる。あの日から順調に成長していれば、Mと同じ位の見た目になっていただろう。
自分が危機的状況にあることに気が付いていないのか、Mはペロペロキャンディをカッターで刻んでいた。バラバラになったキャンディが敷かれた包装紙の上に溜まっていく。何と呑気なことだろう。そんなことを考えながら、いざという時のために筋肉を引き締めた瞬間だった。
「止めておいた方がいい。妹を見つけたいのなら。」
赤と青が混ざり合った瞳は、手元のキャンディに注がれている。俺には一切向けられていない。言葉に圧があった訳でもないというのに、俺は動けなかった。その理由は、彼女の言葉の後半にある。
「どうして妹だと分かった?」
「筋肉の動きが一瞬だけ乱れた。それは私を見て何かを思い出したからだ。実際の年齢はともかく、見た目だけなら私は君の姉というより妹だろう。だから、一番可能性が高いのは、妹という訳だ。」
「なるほど。俺はまんまとカマを掛けられたってことか。」
「そういうことになるね。」
相変わらず視線を寄越すことも無くMは俺の言葉を肯定した。それから、包装紙の対角を掴んで粉末状になったキャンディを一気に飲み干した。
「ふぅ。」
「わざわざ砕く必要ないだろ。」
「おや、君には刻みキャンディの良さが伝わっていないみたいだね。それはそうだ。本当なら、専用のキセルに入れて楽しむものだからね。」
「つくづく妙な奴だな。」
「誉め言葉として受け取っておこう。そうだ、君もキャンディ食べるかい?」
俺の皮肉が分からない振りをするエムは、袖口から更に5本のキャンディを差し出した。赤、青、緑、黒、白のキャンディが目の前に並ぶ。その中で俺が選ぶとしたら一色しかなかった。
「……じゃあ、その白い奴を。」
「りんご味か。お目が高いね。」
「そうなのか?ありがとう。」
何がお目が高いのかよく分からないが、包装紙を破って口に含む。エムの言葉通り、りんごの酸味を伴った甘味が口の中に広がっていく。
「毒見はしなくてよかったのかい?元暗殺者なんだろ、君?」
「暗殺者はちょっとやそっとの毒じゃ死なないように訓練されてるんだよ。」
「ふぅん。それを食べた、ということは私を信用してくれている、ということで構わないかな。」
「自分が好きな物に毒を混ぜるような奴は信用できないからな。」
刻みキャンディが何かの隠語でもない限り、本当にキャンディを刻んでいるだけなのだろう。意味が分からない。だが、その頭脳は本物だ。それなら、少々危ない人間でも許容しよう。行方不明の妹を見つけるためならば。
下にしっとりとした紙の感覚が伝わってきた頃、俺は口から棒を取り出して話を再開した。
「それで、俺の妹を、寧々を見つけられるって言うのは本当なのか。」
「私に出来ないことなんて殆どないさ。朝飯前、という奴だね。」
「依頼金さえ払えばどんな事件も解決してくれる、っていうのは本当らしいな。」
名乗るまでもなく俺のプロフィールを当てた位だ。妹のことも察しがついているのかもしれない。嘘とまやかしばかりの裏社会の噂にしては例外的に真実だったらしい。
そうなると、問題は今口にした依頼金だ。推理力が本物なら、それに応じた対価ももちろん必要だろう。俺が乗り気なのを察したのか、エムは手元のメモになにやら書きとめると、こちらに向かって差し出した。そこには、几帳面な文字で『契約書』と書かれており、その下に小学生が悪ふざけでしか書かないような数のゼロが並んでいた。その先頭には5が陣取っていた。
「あぁ。ちなみに、君の妹を見つけるために必要なのは……五億円だ。」
「五億!?」
「払えないかい?」
法外な金額を言ってくるとは聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった。いくら裏社会の人間とはいえ、払えるような金額ではない。既に金欠の俺には猶更不可能だ。でも……これで妹を見つけられるのなら、安いものだ。
「今は払えないけど……一生かけて払う。だから、俺の妹を見つけて欲しい。それでも、いいか?」
「ふふっ、今言ったね、『一生かけて払う』って。」
「な、何だよ。」
まるで言質を取った、とでも言いたげにMは楽しそうにする。その笑顔を見た時、自分が幾重もの糸に絡めとられている錯覚を覚えた。俺の身体にまとわりつく糸はまっすぐにMの元へ伸びていく。どちらがこの場の主導権を握っているかは明白だった。動けない獲物を前にして、狩人は仕上げだと言わんばかりに口を開いた。
「君のような貧乏無職が完済するのを待っていては、私の寿命が先に来てしまう。どうかな、私のボディーガードをする気はないかい?」
「ボディーガード?」
予想だにしない言葉に思わず素っ頓狂な声が出た。
「君が妹を探すことを目的にしているように、私にも目的がある。ただ、それを果たすためにはいくらか危険がある。ちょうど右腕になる人間が欲しかったところさ。」
「……その目的って?」
「私の目的は自分が何者かを知ることだ。そのためには、裏社会の全てをこの手中に収める必要がある。そういった意味では君と同じ、『CHILDREN』と敵対する人間さ。」
出会って間もないが、彼女らしい答えだと思った。それ位規模が大きくて根源的な願いがなければ、犯罪探偵なんて危険すぎる職業についていられないだろう。そして、その目的が絵空事だと感じさせない程の迫力が彼女にはある。
納得の目的に感心している俺とは対照的に、Mは困惑顔だった。何か引っかかる所でもあるのか、と思っていると彼女が呟くように言った。
「笑わないのか。」
「笑う?」
「私の推測通りなら、君は呆れるか笑うかしていた筈だった。でも、今見る限り君にそうした感情は見られない。」
「それがお前の生きる理由なら、笑わない。」
俺はMの過去を知らない。だからどうして、この世界にいるのかも知らない。ただ、その目的を支えに生きてきたのだとしたら、それは彼女にとって最も大切なものの筈だ。それを笑うことはしたくない。
割と真剣な気持ちで言った言葉だったが、それを受けた当人は目に涙を浮かべる程笑っていた。
「ははっ、あははっ。」
「何がおかしいんだよ。」
「いや、昔、君と同じことを言った人間がいたんだ。それを思い出しただけだよ。まさかもう一度聞くことになるなんて……妙な男だな君は。」
長い指で目に溜まった涙を拭いながら、Mは懐かしむような笑みを見せる。その姿はやはり妹の姿を思い出させる。寧々はこんな風に笑う子だった。
俺と妹の寧々は孤児院で育てられた。寧々さえいれば、どんなに不自由でも構わなかった。実際、孤児院での生活はそう酷いものではなかった、と思っていた。ただ、自称世界一のコンフィデンスマン、天王寺アルとの出会いが暗殺者を育て、派遣するための機関『CHILDREN』が異常な場所だと気が付かせてしまった。それでも俺達は世間の常識よりも先に、暗殺者としての技術を学んでいった。幸か不幸か、寧々には暗殺者としての才能があった。人を殺せない出来損ないとして孤児院から出られなかった俺よりも先に、寧々は外の世界に出た。孤児院を出る時、寧々は最後に言った。
『兄さんと一緒に暮らせる位稼いで、必ず帰ってくるからね。』
一年後、『SHERLOCK』との抗争の最中に寧々が死んだ、という知らせが入った。それもあくまで風の噂であり、ことの真偽を確かめるためには機関から脱走するしかなかった。それからすぐに機関を抜け出したものの、その時にはもう寧々の情報は裏社会に溶け込んで見つけられなかった。噂すら聞くことがない。ただ、俺の中には寧々が生きている、という希望的観測に近い確信があった。だから、俺は裏社会を転々とし始めた。
『人の笑顔を奪うことだけはしちゃいけないんだよ。それが永遠なら、尚更な。』
俺は組織を出たことで社会を目にした。それは昔、天王寺アルが教えてくれた普通の世界だった。そこで初めて自分の目と耳で裏社会の異常さを知った。俺はまだしも、寧々はこんな血と争いに塗れた世界にいていいはずがない。自分のためではなく、ましてや俺のために。だから俺は、寧々を見つけたい。また昔のように二人で、今度は表の社会で暮らすために。
「俺の目的は妹を見つけることだ。妹を見つけられるなら、悪魔の手だって借りてやる。」
「ふっ、私は悪魔よりも悪辣だぞ。」
「知ってるよ。」
悪魔、というより毒蜘蛛だが、妹の行方には代えられない。妹を見つけてくれるなら、天使みたいなものだ。
「条件を出せる立場じゃないのは分かってるんだが、一つだけ条件を言ってもいいか?」
「構わないよ。」
「俺は人を殺さない。絶対に。」
「いいよ。私の美学は『無益な血を流さないこと』だ。戦闘面担当の君がそういうスタンスなら、助かるよ。それで、答えを聞いても?」
これで俺がエムと契約しない理由は無くなった。後は、差し出された手を握るだけだ。そこで一瞬ためらった。長年の裏社会生活で培われてきた直感が全力でNGを出している。この女の手を取ってはいけない、と。更に厄介なことに巻き込まれる、と忠告してくれている。それでも、エムと契約することが寧々への最短距離であることには確信が持てた。俺だけではこの五年間、寧々を見つけられなかった。そろそろアプローチの仕方を変えた方がいい。
俺は差し出された右手を力強く握った。達観したような態度や大層な名前とは違って、血の通った、柔らかくて温かい、年頃の少女の手だった。
「よろしく頼むよ、エム。」
「契約成立だ、ワンコ。」
「それってもしかして俺の名前?」
「いいだろ、文句を言うんじゃない。私は犬が好きなんだ。君も犬が好きだろう?」
「はぁ。妹を見つけてくれるなら、好きに呼んでくれ。」
俺はどこか犬に似ているのだろうか。さり気なく頭の上とお尻の辺りに手をやるが、尻尾や、耳の気配はない。ひとまず、今の所俺は犬ではなさそうだ。人としてほっ、とため息をつく。そして、一つだけ訂正しておくべきことを思い出した。
「あの。」
「何かな。私のことをもっと知りたいのか。せっかちだな、君は。」
「俺が好きな動物は猫だ……妹に似てるから。」
「……このシスコンめ。」
エムの手は震え、手の中に残っていたキャンディの柄がポキリと折れた。どうやら、俺の些細な反撃は探偵様の機嫌を損ねるのに充分だったらしい。毒々しい瞳に睨みつけられて背筋に冷たいものが走る。見た目は十七、十八の少女だが、その迫力は裏社会を牛耳るに相応しい成熟したものだ。俺のような一端の暗殺者とはまるで格が違う。違い過ぎる。
ごくりと呑み込んだ唾が流れ落ちるのを感じつつ、なるべく先ほどまでと同じような態度を心がける。
「いや、そこまで悔しがらなくていいだろ。」
「いいや、そうはいかない。何だその、出し抜いてやったみたいな顔は!!気に入らないなぁ。」
「ははっ、何でも見透かせると思ったら大間違いってことだ。」
エムが俺から視線を外したことで、二人の間に一瞬張り詰めていた緊張は瞬く間に弛緩した。試しに口にした軽口がするすると口から飛び出すのを確認した俺は、エムの視線が向かう先に目を向けた。エムの目は玄関の方へと向けられている。誰か来るのだろうか。
釣られて耳をすませて見ると、確かに階段を登ってくる音が聞こえてくる。人数は一人、息切れをしているのが聞こえるから三十代から上だろう。さっきのエムの真似事をしてみたが、俺にはこれ以上先のことは分からない。後は探偵さまにお任せする他ない。
「ほら依頼者だ。私の実力をよく焼き付けておくんだぞ、ワンコ。」
「はいはい、ご主人様。」
ご機嫌斜めのご主人様は、革張りの椅子にぞんざいに腰掛けた。その顎はくいっ、と扉の方を指示している。どうやら、番犬初めての仕事はお客様のお出迎えらしい。
誰かに使われるのは、『CHILDREN』で暗殺者として過ごした日々と同じだ。主人の下で、言いなりになって働くのが俺の仕事だった。そして、今、俺はエムに犬扱いかつ命令もされている。だが、エムに命令されるのは悪くない、そう思いながら扉に向かう自分が不思議だった。きっとエムには俺と共通する何かがあるのだろう。俺はそれを本能で感じ取っている、そんな気がする。
何とも奇妙な心の動きに対して思考を巡らせる俺は、ドアノブに手をかけた。その時、背後から声が届いた。エムの声は俺ではなく、玄関ドアの向こうにいるであろう人間に向けられていた。
「
扉の向こうで男が息を呑むのが分かる。彼もまた、エムの洞察力に驚かされるのだろう。その姿を想像しながら、扉を開ける。悪が巣食う路地裏で、事件の幕が上がろうとしていた。
①犯罪探偵社JAMESの事件簿 紅りんご @Kagamin0707
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