第5話

「店長が言ってたの。月のころはさらなり、って」

「清少納言な。でも、さすがに綺麗だな」

「ね。お団子持ってくればよかった」

「それは夏じゃない。秋だ」

「もしくは虫かごいっぱいにホタル捕まえて一斉にグラウンドに放すとか」

「それは風流じゃない。放流だ」

 僕たちはグラウンドへと続く石段に腰掛けて月を見上げていた。

 石段は空気よりも幾分か冷たく、手のひらを乗せれば熱を心地よく吸い取ってくれる。さらりと砂の感触がした。

 月は煌々と誰もいないグラウンドを照らしている。

 点いていない照明や閉め切られた体育倉庫の影が地面に描かれる。並んで座る僕たちの影も背中から伸びていた。

「これが夏か」

「うん、これが夏だね」

 力を抜き、余計なことを考えず、ただただ五感を夏夜に溶かしていた。

 四季を感じる、どころか季節に飲み込まれているようだ。二人は夏に溺れている。

 たぶん今、僕たちは風流していた。

「うん、いいね。ちゃんと生きてるって感じ」

「ちゃんと生きてるやつは夜の学校に忍び込まないだろ」

「あ、そっか」

 ふふ、と隣から小さな笑い声が聞こえる。月を見つめたままの僕には表情まではわからない。まあいいか、どうせ彼女もこちらを見てはいないだろう。

「なんで和泉はそんなにちゃんと生きたくなったんだ?」

 僕は何の気なしに尋ねる。ふと生まれた疑問だった。

 どうして彼女は風流したいと思い立ったんだろうか。

 だから返ってきた予想外の台詞はノーガードの僕の心によく響いた。


「二宮くんに憧れてたから」


 僕は隣に目を向ける。

 月が見えなくなった。彼女の笑う顔が見えた。

「え、どういうこと」

「そのままだよ。春くらいから二宮くんのこと見ててさ、なんかカッコいいなあって思ってたんだよね」

「マジか」

 不意打ちに僕の胸は波打つ。押し寄せる波はどんどんと高くなっていき、身体全体を揺らした。

 やばい。なんだこの展開は。

「うん。で、なんでカッコいいんだろって思って考えてたら気付いたの。いつも昼休憩に一人で本読んでるからだ! って」

「……ん?」

「誰とも群れることなく晴れの日も雨の日も自分の席で読書にいそしむ」

「いやそれ、ぼっちなだけじゃね?」

 押し寄せていた波がぴたりと止んだ。そよ風も吹かない。完全に凪だった。

 がっかりだ。なんだこの展開は。

 僕がため息をつくと、彼女は小さく首を横に振る。

「二宮くんはぼっちじゃないでしょ。みんなと仲悪いわけじゃないし、昼休憩もサッカー誘われてるけど読書したくて断ってるだけじゃん」

「夏にサッカーとか自殺行為だろ」

「春も断ってたけどね。それはぼっちじゃなくて、選んでるって言うんだよ。でも私だったらたぶんサッカー行っちゃうと思うんだ」

 和泉はまた笑う。

 彼女は月明かりが自分にどんな風に当たっているかわかってるのかもしれない。

 そうじゃなきゃ、彼女がこんなに美しく見える説明がつかない。

「すごいよ。みんなが良いって言ってるものじゃなくて、自分が良いと思えるものを選べるのは」

 僕は何も言えなかった。それは彼女のストレートな言葉に対する照れかもしれないし、芸術作品を前にして言葉が見つからないときとも似ている。

「だから今日は確かめたかったんだ」

 そろりと風が流れて、彼女の前髪を一束動かした。

 和泉は指先でそれを後ろに流しながら空を見る。僕も釣られるように満月を見上げた。

「確かめる?」

「最近、仕事のできるイケメン先輩社員をひそかに尊敬してた新入社員女子がひょんなことから急接近する漫画読んでさ」

「どんな漫画読んでんだよ」

「女の子は男の子より一歩先を行ってるのよ。その漫画、最終的には憧れの先輩に恋して付き合ってハッピーエンドを迎えるわけなんだけど」

「良かったじゃん」

「夢あるよね。でも私、それ読んでちょっと気になったんだ」

 ちょっとポエミーだけどさ。

 そう彼女は前置きして口を開いた。

「尊敬と恋ってどっちが先なんだろうって」

 静かな夜のグラウンドに彼女の問いが響く。

「できるが先かイケメンが先か」

「そうそう。主人公は尊敬してるから好きになったのか、最初から好きだったから尊敬しはじめたのか」

「難しいなそれ」

「だよね。でも今日ここに来てわかったよ。主人公じゃなくて、私のことだけど」

 どういうこと、と僕は訊けなかった。

 それより先に和泉が「二宮くん」と名前を呼んだからだ。その声に帯びた熱が僕を振り向かせる。

 夜空から再びこちらに向けた彼女の瞳が、月光を奪い取ったかのように煌めいた。

「――夏は夜を、」

 歌うように彼女は唇を動かす。

「秋は夕暮れを、」

 湿り気を帯びた夜風が僕たちの間を吹き抜けていく。

「冬は朝を、」

 雲が月光を遮って僕たちに影を被せる。

「春はあけぼのを、」

 再び現れた満月の光は、彼女だけをスポットライトのように照らし出す。

 彼女は笑っていなかった。


「私は二宮くんと一緒に過ごしたい」


 彼女が言葉を切ると、音ひとつない静寂が訪れた。

 風も止んでいる。月明かりが僕の位置まで伸びてきて、それでも時は止まっていないと教えてくれた。

「……和泉」

 彼女の名前を呼んだ。僕の声に応えるように二つの瞳が揺れる。その目を見れば、さっきの言葉が本気だというのは伝わった。

 正直まだ僕は彼女のことをよくわからない。

 どうして僕を選んでくれたのか、どうしてそこまで想ってくれているのか。それは今日一緒に風流してみても判明しなかった。

 けどその中で、ただひとつ確かなことがある。

 やっぱり店長は僕の好みを知らないってことだ。

「僕はさ、夏は昼だと思う」

 僕の言葉に和泉は目を丸くした。

 告白の返事が返ってくると思ったんだろう。彼女はその答えをイエスかノーしか知らないのかもしれない。

 悪いな。

 僕は心の中でほくそ笑む。

 ――ポエミーなら、男の子は女の子より三歩先を行ってんだ。

「いや夏だけじゃない。春も昼だったし、秋も昼だろうし、冬も昼になると思う」

 話の意図が掴めないのか、和泉の表情には困惑が表れている。

 きっと彼女は勘違いしてるんだろう。

 僕は読書は好きだが、世にいう読書家ほどの愛はない。春にサッカーを断る理由にはならない。

「夏も秋も冬も春も、晴れの日も、雨の日も」

 これまでの日々を思い返す。

 初めに浮かぶのは、あの風流も何もない場所。エアコンの効いた教室は年中変わらなくて、いつもたったひとつの時季で満たされている。

 そこでパンを齧る君と本を閉じる僕。

 きっと僕たちはその季節を、ちゃんと生きてきた。

「僕は食べるのが遅いクラスメイトと話せる昼休憩が一番好きなんだ」

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