さよなら、宮田さん

霞(@tera1012)

さよなら、宮田さん

 シャンパングラスの底から湧き出し続ける泡を眺める。

 それは絶え間なくぷくぷくと、いつまでもいつまでも細く長く続いている。


 何かに、似ている。


 思い出せそうで思い出せない胸のつかえにため息をつき目を上げると、正面の磨き上げられた広いガラス窓には、キラキラと広がる都心の夜景の前に、微かに眉をひそめた自分の顔が映っていた。



『今日がえさやり当番で、良かったよ』


 ふいに耳元に、声変わり前特有の少し甲高い少年の声が蘇る。


「……そうか」


 思わず声に出してしまってから、はっと口をつぐむ。

 隣の裕二が、手元のタブレットから視線を外し、こちらをのぞき込むのが分かった。


「何が、そうか、なの」

「ううん。ごめん、独り言。……お仕事、続けて」

「……そう。悪いね。もう少しだけ」

 

 裕二はちらりと微笑むと、手元に視線を戻す。この人の、他人との距離のとり方はさすがだなと、私はいつも思う。


 シャンパンの泡は、メダカの水槽の「ブクブク」に似ていた。小学校の教室の、後ろの窓際の隅にあった、小さな水槽。


 どうしてそんなものを突然思い出したのかには、心当たりがある。


 つい数時間前、田舎の実家の母と電話したとき、私の通っていた中学校が廃校になったことを知った。

 確かに過疎化が進んでいるような話はあったが、それは私にとってそれなりにショックなニュースだった。

 きっとそこから無意識に、故郷の日々を思い返していたのだろう。


 それでも、のことを思い出したのは驚きだった。

 宮田君。

 彼の名前を憶えているのは、単純に自分と同じ苗字だったからだ。今の今まで20年近く、きれいさっぱり忘れていた。



 彼と最後に会話をしたのは、小学6年生の夏休みだった。夏休みの間、出席番号順に二人一組になって、教室のメダカやウサギ小屋のウサギたちの世話をする、えさやり当番の時だ。


 宮田君は、6年生の新学期に転入してきた、転校生だった。田舎の小学校では転校生は珍しく、彼を迎える私たちはひどく興奮したものだ。しかし、私たちの前に現れた彼は、色白で少し太めでメガネをかけた、もじもじと冴えない印象の男の子だった。

 彼はいじめられることはなかったけれど、クラスに馴染めず浮いていた。


 えさやり当番の日、彼は、びっくりするほど熱心に、その仕事をこなしていた。


「宮田君、生き物が好きなの」


 あまりの熱心さに思わず尋ねた私に、彼は耳のふちを赤くして、もじもじと答えた。


「うん……。かわいいから」

「そうなんだ」


 私たちはひと通りの仕事を終え、先生に挨拶して校門を出たところだった。


「それならさ」


 私は、少し離れて隣を歩く彼を振り向く。


「ここの田んぼに、夜、来るといいよ。蛍がいるから」

「ホタル!?」


 彼の大声に、私はびくっとする。


「うん……」

「ほんとに!? すごい、すごいねえ!!」


 彼は今までのおどおどとした様子が嘘のように、瞳をきらめかせて私を正面からのぞき込んだ。


「本当にここは、すごいねえ。すぐそこにホタルがいて、夜には、天の川が見えて……」

「天の川……」


 そんなものは当たり前すぎて、彼が何を喜んでいるのか、私にはさっぱり分からなかった。


 8時を過ぎると蛍は木に上がってしまうから、下の草むらにいる7時頃が見ごろ、捕まえごろ。恐ろしいほど食いついてくる彼にそんなことを説明して、私たちは別れた。


 それから、数日に一度、私は蛍を見に行った。宮田君も来ているかなと思ったけれど、結局8月半ばの火曜日まで、彼とは一度も会わなかった。

 その夏、蛍を見に行った最後の日が火曜日だと言い切れるのは、次の日が「農薬散布」の日だったからだ。毎年、その日は水曜日と決まっていた。翌日から、蛍はパタリといなくなる。


 最後の夜、ほのかな光のまたたく田んぼから家に戻りながら、私は天の川を見上げていた。それは今思い出しても、ぞっとするほどきれいな星空だった。


 宮田君がまた引っ越していったのを知ったのは、2学期の初めの日のことだった。




「……なに、考えてるの」


 裕二の声に、私の意識は引き戻される。

 首筋に落ちてくる彼の唇を感じながら、私はゆっくりと目を閉じる。


 宮田君。

 あの頃の私たちは、半径数キロの世界で、笑ったり泣いたりを繰り返していた。まだ何者でもなく、なんにも知らず、なんにも持っていなかった。


 それでも、私たちの頭上にはいつも天の川があり、てのひらの中には蛍が光っていた。世界の美しいものすべてが、そこにはあった。


 私も兄弟たちもみんな、故郷を離れた。お盆に実家に帰っても、近くの街の明かりのおかげで、天の川はもう、見られない。


 私の胸を刹那、甘い痛みがよぎる。それはほんのわずかな燐光を残し、暗闇に消えていく。


 この秋には、私は、宮田さんではなくなる。


 まぶたの裏の燐光に、私はそっと語りかける。

 さようなら、宮田さん。さようなら、私たちの楽園。

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