第9話 穂高さんは昔に戻る
「どうして私は、君を好きになってしまったんだろうか……」
「なんで僕に訊くんですか」
夕陽の眩しい放課後。校庭からは野球部とサッカー部の声が響き、校舎からはブラスバンド部の音楽が流れる。そんな午後、なんでもないけど数年後には多分懐かしむような午後を、穂高さんはぶち壊すことに長けていた。
彼女は長い髪を掻き上げた。
「考えて見ろ。私は完璧な女子高生で、性格を除けば並ぶものがいない」
「同意します。特に後半」
「今までの人生を振り返ってみると、年下年上同い年、学生からIT企業経営者までお誘いは引きも切らなかった」
「待ってください、IT企業経営者?」
穂高さんはスマホを取り出すと、僕に画面を見せた。
マッチングアプリだった。正面から捕らえた写真が載っており、穂高さんが微笑んでいる。こういうのってやや横から角度をつけるものなんだけど、真正面でこれだけの写真写りである。実物はどれほどなんだろうって、間違いなく思われている。
「やはりこっちが十八歳だと食いつきがいい」
「制服着て写ってるのヤバくないですか」
「高校生でもオーケーなマッチングアプリだからな」
「ああ、わりとやってる人いるみたいですね」
「だけど私は本気で付き合うつもりがなかった。好奇心から載せただけだ。そうしたら来るわ来るわ、あんまりうるさいんで通知を切った。運営からどうにかしろとダイレクトメッセージまで来た」
肩をすくめている。間違いない、これは本当に「ただの好奇心から登録した」のだ。
「退会するつもりだ。アプリの運営会社には悪いことをした」
「今後無駄なことは止めてください」
「これだけ私はモテる。なのに何故、綺羅星のようなお金持ちではなく君を選んでしまったのか」
「ひと目惚れだって言ってませんでした?」
「確かにそうだ。しかしだ、まともな女子高生はひょっとしてひと目惚れをしないものじゃないのだろうか」
さあ、としか答えようがない。
「ひょっとして私に薬を盛ったか?」
「入学式まで穂高さん見たことなかったですよ」
「君が訓練を受けた特殊部隊出身で、密かに私をマークしていたのも考えられる」
彼女は顎に指を当てた。
「自宅に侵入されたか。鍵を変えないとまずいな」
「してません」
「いっそ私も能島君の家に侵入するか。それでおあいこというものだ」
「ストーカーじゃないですか」
「記念に君の寝顔を撮って帰ろう」
本当の犯罪行為なんだけど、ニュアンスが本気なのでたちが悪い。幸い穂高さんは自分で話題を変えた。
「初心忘れるべからずと言うだろう。君にひと目惚れをする前の自分に戻る必要があるかもしれない」
「金持ちを好きになるんですか」
「お金を持っているかどうかはただの結果だ。お金持ち狙いなら、パパ活をすればいいだけだ」
「穂高さん、パパ活しそうにないですもんねえ」
「好きでもない人間にその気を見せるのは、相手にも失礼だからな」
「やっぱり僕にその気を見せているのは、僕のことが好きだからなんですね」
「当然だ」
と言いながら、穂高さんは照れたような仕草を見せていた。
「改めて君から言われるのは恥ずかしいな」
実は僕も心の中では赤面していた。顔に出ないよう努力していたが、ひょっとしたら出ていたかもしれない。
穂高さんは一度だけ頬に両手を当てた。
「あー……繰り返しになるが、君に惚れてしまう前に戻ってみたい」
「どんないいことがあるんですか」
「心臓への負担がなくなる」
穂高さんは言い切った。
「マヨネーズで君の名前を書くこともなくなる。ベッドの中で君の名前を囁いて、恥ずかしさのあまりいきなり叫ぶこともなくなる。風呂で君のことを考えながら沈没して溺れることもなくなるし、君に可愛く見てもらえるよう鏡の前で笑顔の練習をする必要もなくなるんだ」
「そんなことまで……笑顔の練習はすみません。普通で十分魅力的ですよ」
「練習はこれからもする。君のためだ」
彼女は慌てて首を振った。
「いや、君に惚れる前に戻るんだった」
「無理することないのに……」
「好きな男のためなら無理をするのが女だ」
一秒も経たないうちに矛盾したことを言い出した。けど、穂高さんは変だと感じていないらしい。
「そうすれば適切な関係で君に接することができる。気持ちも落ち着くというわけだ」
「たったら僕は生徒会にいる必要がなくなりますね」
何の気なしに言ったのだけど、穂高さんは慌てた。
「いやいやいや、ずっと役員でいて欲しい」
「だって僕に会う前の穂高さんは、ここにひとりでいたんでしょう」
「君がいなくなったら私は干からびてしまうぞ!」
「僕は砂漠の水なんですか」
「もっといいものだ。宝石だ。宝物だ。世界で唯一の私の心の支えだ」
「心臓は……」
「私は昔の自分に戻って、君はここにいる。完璧な計画を変えないで欲しい」
必死だった。そこまで言われては「分かりました」以外に返答しようがなかった。
穂高さんは深呼吸をした。
「自己催眠をかけてみようと思う。それで昔の自分になる」
「かけたことあるんですか」
「ない。君は?」
「ありません」
「二人とも知らないんだから、ケチをつける人間もいないということだ。なんとかなるだろう」
彼女は軽く目をつぶると、両手の人差し指をこめかみに当てていた。一休さんのトンチシーンみたいな恰好だった。
ぶつぶつ喋り出した。
「……能島浩也君のことが嫌いになる嫌いになる……じゃない、今のはなしだなし! 能島君のことが普通になる普通になる……この場合普通というのは無関心のことで……いや無関心よりは少しだけ気になってる方が……でも心の負担にならない程度に……微妙なさじ加減の状態で昔の自分になる……」
聞いてる側としては訳が分からなかったが、呟いている側も意味不明みたいだ。穂高さんは時々つっかえたり言い直したりしながら、自分に催眠をかけていた。
「私は普通私は普通、ただの生徒会長……恋してない生徒会長……恋に憧れているようないないような、単なるいち生徒会長……」
ぱっと目を開けると、パンと手を叩いた。
「これで私は君のことを好きでなくなったはずだ!」
「本当ですか?」
「さっそく実験だ」
穂高さんは椅子に座っている僕を正面からじっと見つめた。
仕方ないので、僕も見つめ返した。感想は変わらない。「穂高さんは綺麗だなあ」である。
「……うまく言ったかもしれない……」
「そうなんですか」
「以前の自分はこんな感じだった。男子生徒を前にしても、ああ男の子だなとしか思っていなかった」
「じゃあ僕もただの一年なんですね」
「ただじゃないな、少しだけ気になる。入学式の挨拶で、君のことをはじめて見た時に似てる」
「それってまずくないですか」
「……そうだ」
たいして時間が経過しないうちに、穂高さんは「ふわ!」とか変な声を上げると、真っ赤になって悶絶した。
「駄目だ……まったく太刀打ちできない……!」
「太刀打ちって」
「私はこんなにも君のことが好きだったのか!」
彼女は「もう一度催眠だ」と叫んだ。こんどはぎゅっと目をつぶっている。
「能島浩也君のことが普通になる普通になる……! 見てないで手伝ってくれ!」
「なにしろって言うんです」
「私に電波を送るとかあるだろう。サポート催眠だ!」
無茶を言わないで欲しい。
僕がなにかする前に、穂高さんは瞼を開けた。なんだか目が赤かった。
すぐに「わー!」と叫んだ。
「君を見た瞬間に惚れ直してしまった! なんて卑劣な男なんだ!」
「ええ……」
「私に惚れるように催眠をかけただろう!」
「できませんよ、そんなこと」
「ということは、生まれつき催眠体質なのか。いやそんな人間がいるはずない」
「変なところで現実主義ですね」
「やはり私のような恋愛に虚弱な女は、君のような男に一生かなわないんだ……!」
穂高さんは喋るだけ喋ると、椅子の上でぐったりした。
「私は君に勝てない……恋という名の鎖に繋がれた奴隷……」
「なんで詩的に」
「諦めるしかない。私はやはり君の虜だ。君のことを好きなまま生きようと思う。というか、それが普通だ」
穂高さんは涙目で、僕に頭を下げた。
「だから……だから今度から、もっと手加減してくれないか……」
「分かりました」
いったいなにをどう手加減すればいいんだ。僕は疑問符をたくさん頭上に浮かべながらも、承知するしかなかった。
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