第7話 穂高さんは尽くしてみたい

 ある日の放課後、例によって二人しかいない生徒会室は、西日のせいでやや暑かった。

 穂高さんは窓際の壁に寄りかかり、ぼんやりと外を見つめている。女優のような顔立ちだから、こういうのが本当に絵になった。

 僕は思わず見とれてしまった。この人は神々しいというか、現実味がなく、人に見られるために存在しているみたいだ。

 穂高さんは僕に気づいていたが、目線は窓の外に向けたまま口を開いた。


「能島君……」

「は、はい」

「尽くすという言葉は、ツクツクボウシに似てるな」


 うっすら浮かんでいた憧れが全て吹き飛んだ。

 やはり穂高さんが物憂いげになっていることには、おかしな理由があるのだ。いい加減僕も学習しなきゃ駄目だ。

 でもなんでいきなりセミの話なんか。また食べる昆虫でも買ってきたんだろうか。日本にはそんなに流通しているのか。やっぱり我慢して食べなきゃ駄目かなあ。

 穂高さんは窓際から離れて僕の方にきた。


「どうして私がツクツクボウシに興味を持ったかというと」

「捕まえて生徒会室で放したりしませんよね」

「そんなことすると思うか? 夏じゃないんだぞ」

「夏ならしそうな言い方です」

「実はツクツクボウシの話がしたいわけじゃないんだ」


 彼女はふう、と息を吐いている。


「男子というのはやっぱり尽くす女が好きなのだろう……?」


 またストレートなことを聞いてくる。

 穂高さんは変人のわりに正直で真っ直ぐなものだから、こういうことを平気でしてくるのだ。僕としてはドギマギするほかない。


「ええーと、人によるんじゃないでしょうか」

「回答を曖昧にするのは良くない」

「嫌いな人はいないと思いますけど、だからって尽くされなくても気にしないというか」

「だが私のリサーチによると、恋人がいる男性のうち実に八割が、彼女に尽くしてもらいたがっていると答えているぞ」


 スマホの画面を見せられた。

 円グラフがあり、八割が「尽くして欲しい」とあった。だがよく読んでみると「みんなで作ろうアンケート」というネタサイトのデータで、残り二割は「そんなことよりPS5が欲しい」というものだった。


「これ信じたんですか」

「アンケートに嘘はない。つまり私も君に尽くすべきということだ」


 例によって穂高さんは真面目な表情だった。


「さあ尽くさせてくれ」

「なにするつもりです」

「それくらい君が考えてもいいんじゃないか」

「尽くすってそういうのでしたっけ」

「それとも君は残り二割なのか。PS5が欲しいのか」

「そりゃ欲しいですけど、穂高さんが僕になにかするんですよね」


 彼女は顎に手を添え、なにかを考える仕草。目が何度か左右に動いていた。


「難しい質問だな……。そうやって私を煙に巻こうとしている」

「簡単でしょう。尽くすんだから、僕の汗を拭いてくれるとか、お弁当を作ってくれるとか、そういうのですよ」


 もちろんそういう経験があるわけではない。こんな感じだろうと考えただけだ。ただ穂高さんは、暗闇で光を見つけたみたいにはっとしていた。


「なるほど! さすがは未来の彼氏だ。実にかしこい」

「褒めてもらえて嬉しいです」

「さっそく練習しよう」


 穂高さんはハンカチを取り出した。薄いピンク色で、タオル生地だった。

 それから僕を見つめる。


「しかし君は汗をかいてないな」

「そうですね」

「嫌がらせか」

「暑くないからですよ」

「困った。これではなにもできない」

「拭くふりだけでもいいんじゃないですか」

「確かにそうだ」


 ハンカチを手に近寄ってきた。僕も穂高さんも立ったままだ。


「いつもどのあたりに汗をかくんだ」

「額とかほっぺたです。多分」


 ハンカチがゆっくりと僕を撫でた。汗がないから本当にただ撫でるだけ。

 穂高さんの息がかかってくすぐったい。顔を背けるわけにもいかなくて、僕は何度も目をパチパチさせた。


「どうしたんだ、瞬きばかりして」

「いえ、なんでも」

「……こうやってみると。君はまったく私の心に刺さらない顔立ちだな」

「それはどうも」

「でもいつまでも見ていたい。どうしてだろう。非常に不思議だ」


 僕は穂高さんを見返した。確かに不思議だ。穂高さんみたいな美人が、僕を好きになるなんて。


「穂高さんに好かれて嬉しいです」

「一刻も早く君に告白できるよう頑張りたい」

「今のままでいいのに」

「不断の努力こそが人を成長させる」


 努力がハンカチで顔を拭くことなのだろうか。穂高さんにはそうなのだろう。僕としては尊重しなきゃならない。

 ハンカチは僕の顔を、何度も往復していた。


「……君は肌が綺麗だな」

「穂高さんの方が綺麗ですよ」

「そうやって私を誘惑するつもりだな。もっと言ってくれ」

「穂高さん綺麗。穂高さん綺麗。穂高さん綺麗。穂高さん綺麗。穂高さん綺麗。穂高さん……」


 言いながら気づいた。褒めるたびに穂高さんの顔はどんどん赤くなっていき、息も荒くなっている。鼓動も制服の上から分かるほど早くなっていた。額もじんわりと滲みはじめている。


「どうしたんですか?」

「な……なにが」

「穂高さんの方が汗かきはじめましたけど」

「そんことはな……あるかもしれない」

「僕が拭きましょうか」

「やめろ。私は死んでしまう」


 穂高さんが怯えだす。逆に僕はなんだか楽しくなってきた。


「じゃあ褒めます。穂高さんの髪が綺麗。穂高さんの眉が綺麗。穂高さんの目が綺麗。穂高さんの肌が白くて綺麗。穂高さんのスタイルが良くて綺麗。指が細くて綺麗。穂高さんの……」

「う……うう……」


 彼女はうめき出すと、顔を背けて沈没していった。床にめり込んだわけじゃなくて、転がってしまったのだ。


「ずるい、君は本当にずるい……!」

「ずるなんてしてませんよ?」

「今の私は全身が熱い。もうだめだ。恥ずかしくて死ぬ。嬉しくて死ぬ」

「死ぬのは止めてください。せめて立って」

「私を褒めて、今のままでいさせるつもりだな」

「褒めてくれと言われたから」

「こないだと同じ展開だ。性格を変えさせないつもりだろう……!」

「まあ今のままでも特に問題ないですし」

「だが私は屈しない!」


 大声を出して立ち上がる。今度は天井を仰いでいた。


「決意した。このどうしようもない性格を改造して、完全無比な彼女になってみせよう!」

「何回目の決意ですか」

「多ければ多いほどいいんだ」


 そして僕を見る。

「君には迷惑をかける。すまない」

「迷惑じゃないから、そのままでいいのに……」

「君は私に遠慮しているだけだ。女を甘やかすな」

「そういや汗を拭くのはどうなったんですか」

「終わりにする。そもそも汗をかいてないから意味がない」

「そうじゃないかって思ってました」


 僕と穂高さんはようやく椅子に座った。結構時間がたっていた。


「そろそろ帰ろう。あまり学校に残るなと連絡があった。なんでも美術室にいると、上から女子生徒の苦悶する声が聞こえて怖いんだそうだ」

「誰なんでしょうね」

「私だろう」

「分かってるんですか」

「私みたいなのが他にもいたら、そっちが驚きだ」


 穂高さんはごく当然のように言う。


「自分を客観視できてるんですね」

「優秀な生徒会長だからな」

「でも苦悶はすると」

「変人だから仕方がない」


 穂高さんはまるで悟りきったように喋っていた。僕は「こういう穂高さんも、これはこれで魅力的なんだけどな」と思っていた。

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