5〜10分で読めるショートショート作品集

あおいえん

優しさの死海

視点一


海辺にひっそりと構える一件の居酒屋があった。そこは少し変わっていて、トイレもゴミ箱も無かった。全て海に捨てているのだ。客は海に向かって小便を垂れ流し、店員は大海原に向かって思い切りゴミを投げ捨てた。そうやって水道代も、ゴミの処分費も浮かせて利益を出していた。

 今宵も、店は大繁盛だった。客間は様々な客でびっしりと埋め尽くされている。その喧騒に埋もれるように、二人のサラリーマンが酒を呑んでいた。

「まったく、しみったれた酒の呑み方しやがって。男なら旨い酒をガッと呑むんだよ」

 徳利に入った酒を注ぎながら、一日で無精髭を蓄えた男が言った。

「僕にはこれくらいが見合っているんですよ」

 もう片方の優男が温くなったビールをちびちびと啜った。

「そんなだからお前は甘いんだよ。もっと男らしくだな」

 無精髭の男が声を荒げても、優男は両手をあげて「まあまあ」と苦笑いした。

 すると、入り口から新しい客が入ったのか、小さな鈴の音と共にふわりと柔らかい風が店内に吹き込んだ。店内が少しだけ騒ついて、途端に静かになった。

 二人もその静けさに違和感を覚え、入り口に目を向けた。そこには忙しなく羽をバタつかせる小さな蛾が、不器用に宙を舞っていた。蛾が客の近くに寄ると、客達は呻き声をあげてそれを避けた。

 客達はこの騒動を一刻も早く鎮めて欲しいらしく、店員に視線で訴えかけた。一人の店員が新聞紙を丸めて蛾に歩み寄る。はたき落とせばひとたまりも無いほど、新聞紙は硬く丸められていた。

 すると、蛾は二人のちょうど目の前にある照明の金具で羽を休め始めた。二人は首を直角に曲げて口をあんぐりと開けている。店員はこの機を逃さないように静かに歩み寄った。もう一歩、あと一歩、と近づく店員。

途端に優男が自分の椅子に登って照明にゆっくりと手を伸ばした。蛾をそっと両手で包み込むように。少し高さが足りず、優男はつま先を立たせる。そして、ゆっくりと蛾を包み込んで、優男は地面へと降り立った。優男の無邪気な笑顔に、一同は安堵して食事に戻った。

優男は店員に促されるまま店の外まで出て行った。

目の前に広がる暗く煌めく海に向かってその両手を放り投げると、一羽の蛾が羽ばたいて海と空の境界線へと飛んでいった。

店内に戻ろうと振り返ると、一滴に雫が頭上に落ちたのを感じた。

「雨かな?」

 優男が手を翳しても、雨が降る気配は無かった。

自席に戻ると、無精髭の男が呆れたように口を開いた。

「お前はつくづく優しいねぇ」

「何がですか?」

「蛾も殺せないのかい、って事だよ」

「ああ」

 優男は温くなったビールをちみりと飲んで続けた。

「僕は目の前で何かが殺されるのは嫌なんですよ。僕も殺したくはないし」

「ちっ」

 無精髭の男は舌打ちをして、ぐいと飲み干したお猪口を荒々しくテーブルに置いた。

「そんな弱っちぃことばっか言ってるからダメなんじゃねぇか。だから今日も同期に業績奪われていやがる。時には利己的になる事も必要なんだよ。邪魔な奴は薙ぎ払っていかねぇとな」

「僕は先輩のように他人の取り分を横取りしてまで、裕福になろうとは思えないんです」

「馬鹿野郎。資源に限りがあるように、財産にも限りがある。出来るだけ裕福になるためには多少奪っていかねぇと」

「でも、目の前で誰かが苦しむ姿は見たく無いですからね」

「またそれか。いいか。人生は一度きりだ。出来るだけ楽しむんだよ」

 無精髭の男がそう言うと、店員に酒を二杯分頼んだ。店員が持ってきた酒は、小さなショットグラスに虹色の膜を張った得体の知れない酒だった。

「これはな、見た目はよくないが、飲めば今までに味わった事のないくらい気持ち良くなれる上等な酒さ。一杯奢ってやるから、これを飲んでお前も俺みたいにイケてる男になれ」

「でも、僕お酒強くないんですって」

「いいから飲むんだよ」

 押しに弱い優男は、結局、無精髭の男に進められるがまま一気にその酒を飲み干した。

 次第に酔いが回ってきたのか、優男の飲酒のペースが上がっていった。他の席でも次々にこの得体の知れない酒を飲む客が増え、店内は酒気に満ち溢れた。

「うぅ……」

 一人の客がどこからともなく呻き声を上げた。吐き気を催したのか、男が勢いよく立ち上がると急いで店を出て行った。すると、堰を切ったように次々と客が外に出た。

「吐き気がある人は海に吐き出してください」

 店員が慣れたように客を外へ促している。

優男も気持ち悪そうに口を両手で覆った。

「弱ぇじゃねぇか……っく。もっと、のめぇえ」

 無精髭の男も、すでに呂律が回らなくなっていた。

 そして、彼らもついに我慢できなくなり、店の外へと駆け出していった。

 堤防の淵から、二人は嘔吐した。喉がはち切れそうになるまで、何度も、何度も吐いた。今日食べて飲んだものを、全部。

海へと放り出された嘔吐物がビチビチと不快な音を立てていた。

「情けねぇなぁ」

「先輩もじゃないですか」

 嘔吐に息を切らしながら、どうにか会話している二人。海を覗き込んでも、真っ暗闇で何も見えない。

「百年後のこの海は一体どうなっているんですかね。心配です」

「またそんなこと言いやがって。知ったこっちゃねぇな。俺は俺の人生を楽しむだけで精一杯だ」

 やがて朝になると、昨晩の喧騒も忘れ、海は晴れ晴れと穏やかそうに海面を揺らしていた。水平線の先は、人間の視界には入らないほどどこまでも続いていた。


  視点二


昨晩。

 優男が海に向かって両手を放り投げ、一羽の蛾が大空へと飛び立った。優男は満足そうに微笑んで、店の中へと戻ろうとする。その背後で、暗闇の中一匹のコウモリがその蛾を目掛けて飛んできた。コウモリはあっという間に蛾を咥え込んで、軋むような音を立てながらくしゃりと食い殺した。抉られる体内から折れ曲がった羽を伝って、一滴の血液が滴り落ちた。

 ポツリ。

血液は優男の脳天に染み渡った。優男は外へ手を翳したが、雨が降る気配は無い。何食わぬ顔で席に戻って、温くなったビールを一口飲んだ。

そして、彼は優しそうな笑みを浮かべてこう言った。

「僕は目の前で何かが殺されるのは嫌なんですよ」


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