本文(第一話冒頭)

 体育倉庫には吐息が満ちていた。


「はぁ……はぁ……」


 黒銀の髪をした少女が俺の前に蹲っている。虎特有の肉厚で小さな耳を伏せ、長い縞模様のしっぽをゆらめかせる。彼女は細い両腕で、自分の体を抱きしめた。腕の間からは、熟れた果実のような胸の谷間が覗いている。隠したいのか、見せつけたいのか。柔らかく形を変える胸の上を、つうっと汗が一筋流れ落ちていった。


「金ちゃん……」


 珊瑚色の唇がわなないて、俺の名前を呼ぶ。

 こちらを見上げるアイスブルーの瞳は潤んで、火傷しそうなくらいの熱をはらんでいた。


「助けて……もう、耐えきれない……の」


 はあ、と苦し気に吐き出す息も熱い。


「この体を、めちゃくちゃにされたい……でも、そんなの」

「わかってる」


 俺はダサい黒縁眼鏡を外すと、己の額に生えている二本のツノに意識を集中した。体の中を巡る異能の力をゆっくりと目覚めさせていく。不相応に強い力は、すぐに体中の細胞を傷つけながら俺を浸食し始める。


「……ヒッ!」


 圧倒的な力を間近に感じて、少女が小さく悲鳴をあげた。

 俺はそんな様子を無視し、乱暴に彼女を抱き寄せる。黒銀の髪をかきわけ、健康的に日焼けした首筋をさらした。


「いくぞ」

「う……」


 がぶり、と思い切りよく少女の首に噛みつく。

 肉に歯が食い込むのを感じて、びくんっ! と少女の体が震えた。

 柔らかな肉はそのまま食いちぎってしまいたいくらいに心地いい。

 だが、少女を殺してしまうわけにはいかない。痛みはあってもギリギリ傷跡が残らない程度に歯をたててから、ゆっくりと体を離した。

 少女は二度、三度、と大きく深呼吸を繰り返す。

 もう一度だけ大きく息を吐いて体を起こした。

 その瞳にもう熱はない。しゃんと背筋を正して座り直したその体からは、すでに汗も引き始めている。


「ありがとう、金ちゃん。収まったよ」

「それは何より。次は……こっちを頼む……」


 体の中で暴れている異能の力を必死に抑えこみながら、なんとか言葉を絞り出した。増えすぎた力は一度解放したら最後、容易にコントロールできない。強すぎて宿主の体を壊しながら発現するそれを必死に抑えこむので精いっぱいだ。


「大丈夫だよ」


 少女はツノごと俺の頭を抱え込んだ。頬が少女の柔らかな胸に押し付けられる。

 体温と一緒に、彼女の穏やかな鼓動が直接響いてきた。

 ……とくん、とくん、とくん。

 鼓動と暖かさに身をゆだねると、今まで暴れていた力が嘘のように凪いでいく。ただ暴走が止まっただけではない。わずかながら、力の一部が体に馴染んでいくのがわかる。


「はあ……」

「落ち着いた?」

「……うん」


 もういい、という意志表示のために、彼女の肩を軽く叩く。顔をあげると嘘のように体が軽かった。


「助かった……ありがとう。力がコントロールできなくて限界だったんだ」

「それはお互い様だよ。抑制剤なしに発情ヒートを抑えるなんて、金ちゃんしかできないもん」


 笑いあう俺たちの間に熱はない。

 そこにあるのはお互いの都合だ。発情を抑えたい彼女と、力を抑えたい俺。平穏な日常を送るために利用しあっている。俺たちの関係はただの共依存だ。




 この関係の発端は、一週間前にさかのぼる。




 その日、俺は夜の街をひとりで歩いていた。職場や公共機関が店じまいする時間。カタギは帰宅して夕食を囲む時間だが、この街の営業時間はこれからだ。ケバケバしいネオンが、争うようにそこかしこで瞬いている。

 派手なシャツを着た豹頭の男が趣味の悪い金のバッグを持って練り歩く。その腕にしなだれかかるのは、真っ赤なドレスを着た長いウサギ耳の女だ。彼らの横を会社帰りらしいスーツの男が通り過ぎていく。彼の横顔は虹色に光るウロコで覆われていた。

 道行く者の誰もが、ホモサピエンス以外の動物の特徴を持っている。

 これが二百年前の暗黒物質崩壊ダークマターコラプスを乗り越えた地球の当たり前の風景だ。


「おっと」


 どん、と体に衝撃を感じて俺は足を止めた。

 すれ違いざまに、誰かが俺にぶつかったらしい。


「すいません……って、なんだ『草食』かよ」


 ぺこぺこと頭を下げていた男は、俺の額に生えたツノを見て態度を変えた。ツノを持つ者の多くは、牛や羊など作物を食む穏やかな動物の形質を受け継いでいる。狩られる側の種族に謝る必要はない、と思ったのだろう。その判断基準はさほど間違ってない。

 ヒトでありながら他の動物の形質を持つ俺たちは、小難しいルールより力の強さに従う傾向がある。強い者は弱い者に謝る必要はない。


「お気になさらず、どうせ鹿ですから」

「小鹿ちゃんかよ。気を付けて歩きな!」


 節くれだって短い俺のツノは、生え始めの鹿のツノにしか見えない。細かい違いを説明したところで、無用なトラブルになるだけだ。俺は男に逆らわずその場を離れた。ポケットの中のスマホが震える。


「なんだ、白狼」


 通話の相手は、昔馴染みの部下だった。憤慨する声がスピーカーから響いてくる。


『見たッスよ~! アイツ若になんてコトを! 裏に引っ張り込んでシメるッス!』

「カタギに手を出すな。それより大事なことがあるだろ」

『狩りッスね。指示通り、ウチのモンで囲んでおきやした』

「ご苦労。……始めるぞ」

『了解ッス!』


 通話を切り、街の気配に意識を傾ける。ひそやかに、しかし確実に殺気を帯びた影が街のある一か所に向かって集合し始める。狩りの始まりだ。

 彼らの気配をたどりながら、俺自身も目的地に向かう。

 路地裏にひょいと足を踏み入れると、数名の男たちが黒装束の集団に囲まれていた。囲まれた男たちは、服装も種族もバラバラだ。対して黒装束たちは牙や耳、しっぽなどそろって狼の形質を持っていた。


「白狼」


 黒装束の中でもひときわ背が高く、真っ白な毛並みの狼頭の男に声をかけた。白狼はぱっとこちらを振り向くと、耳をぴんと立ててしっぽをブンブン振り始める。


「若、ご命令通り獲物を囲んだッス! 店とヤサも別部隊が押さえてるッスよ」

「相変わらずお前たちは手際がいいな」

「狩りは狼の十八番オハコッスから」


 他の黒装束も、誇らしげに耳としっぽを立てる。こと狩りにおいて彼らほど頼りになる者たちはいないだろう。

 狼たちに囲まれていた男のひとりが声をあげた。大きなたてがみを持つライオン頭のこいつが群れのリーダーらしい。


「お、お前ら何者だ……! 俺たちは東北八十神連合とうほくやそがみれんごうの……」

「知らんな。どこの田舎組織だ」

「な……手下千人から成る、連合を知らねえのかよ」

「この街では、『桃源郷』の名前だけが絶対。それ以外は全て小物だ」

「と、桃源郷……? まさか、あのバケモノ組織がこんな街まで!」

「バケモノとはご挨拶だな」

「関東一円を傘下に置き、下部組織全部あわせたら手下が十万くだらないだけッスよねえ」


 まあ、それを一般社会ではバケモノと呼ぶんだろうが。


「ごたくはいい。お前たちはウチのナワバリで賭場を開いてヤンチャした。火遊びをしたらお灸をすえられる。因果応報の理は理解しているよな?」

「ひっ……!」


 睨まれ、群れの一匹が肩をすくめる。


「あ、あにさん、降参しましょう! 相手が悪い!」

「馬鹿野郎、びびってんじゃねえ! あいつを見ろ!」


 ライオン頭が俺を指さした。


「どう見ても『草食』の小鹿野郎じゃねえか! あんなのをボスに祭り上げてる連中なんざ、たいしたことねえよ! 囲みを抜けて、組長のとこに戻るぞ!」

「往生際が悪いッスね~」


 ライオン頭の一段は、懐に手を突っ込むとそれぞれ銃やらナイフやらの武器を取り出した。それなりに使い慣れてはいるようだが、ウチの狼部隊の前では子供のお遊戯みたいなものだ。


「その程度じゃ俺たちには勝てねえッスよ」


 ただ武器を振り回すだけの男たちは、狼たちの組織的な作戦行動の前に、ひとり、またひとりと無力化されていく。


「この……っ!」


 ライオン頭が更に懐から何かを出した。

 奥の手らしいソレを見た瞬間、俺は声をあげた。


「白狼、さがれ!」

「え、若?」


 狼たちの足が一瞬止まる。

 ライオン頭の手の中にあるもの。あの形には見覚えがある。軍用の強力な爆弾だ。どこからか流出したものを闇ルートで手に入れたのだろう。あんなものが間近で爆発したら、うちの狼部隊でもさすがに粉々だ。


 俺は手を伸ばすと、体の内に眠る力を解放した。

 握りつぶすようなイメージで、爆弾そのものを力で抑え込む。


 ボスン!

 タイヤから空気が抜けるようなくぐもった音がして、爆弾はライオン頭の腕ごとへしゃげて地面に転がった。


「うあああああっ、俺の腕がっ! 腕があああっ」

「腕がつぶれただけで済んでよかったじゃないか。アレが爆発していたら、お前も粉々だったんだぞ」

「ふざけん……何っ……?」


 痛みにのたうちまわっていたライオン頭は、俺を見て言葉を失った。それもそうだろう。力を解放したことで、俺の姿も変化していたのだから。

 長い胴体に、金に輝く大きなツノ。風になびくたてがみも、全身を覆うウロコも、瞳さえも金。


「桃源郷の……金龍きんりゅう?」

「やっとわかったッスか? ここにおわすは、関東の裏社会を牛耳る組織『桃源郷』の五代目、金龍様ッス! 若に逆らおうなんて、百年早いッスよ!」

「嘘だろ、龍種が本当にいるなんて、都市伝説じゃねえのかよ!」


 俺たちが生きる現代から二百年前。地上はツノも翼もないホモサピエンスの楽園だった。

 その繁栄にピリオドを打ったのは、戦争でも環境汚染でもない。突如宇宙から降り注いだダークマターだった。「オメガトリノ」と名付けられたそれは、ヒトの体だけを狙い撃ちするかのように破壊していった。

 どうにかして地球上に知的生命体を残そうとした科学者たちは、ヒトの体そのものを改造するという暴挙に出た。ヒトでありながら、他の動物の形質を併せ持つキメラはオメガトリノの攻撃をかわして、あっという間に数を増やした。絶滅するホモサピエンスに成り代わり、地上の覇権を手に入れた新人類。それが俺たちだ。

 ホモサピエンスに死滅の呪いをもたらしたオメガトリノは、一方で新人類キメラに祝福をもたらした。あるいは超能力、あるいは異能。旧ホモサピエンス時代にはあり得なかった、超常の力を持つ者が出現したのだ。

 その超常は動物とヒトという種族の垣根を壊し、まさに伝説上の生き物そっくりの種族さえも誕生させた。

 そのうちのひとりが俺だ。

 額に生えているのは鹿のツノなどではない。嵐を呼び雷鳴を轟かせる龍のツノだ。


「それで? まだ逆らう気か?」

「ひいいいいっ!」


 ライオン頭が地面に這いつくばり、そして群れの連中も全員降伏した。もう戦意がないことを確認してから、俺は元の草食系鹿青年っぽい姿に戻る。


「事務所に連行して、ケジメをつけさせろ。……きっちりとな」

「了解です、若!」


 狼たちがライオン頭たちを連れていく。


「若も一緒に戻りますか?」

「俺はいい。歩いて帰る」

「たまにはみんなで飲みましょうよ!」


 狼のうちの一匹が気楽に声をかける。俺は軽く手を振って拒絶した。


「断る。これでもまだ未成年だからな」

「あー、そういえばそうでしたね……」


 忘れてた、と狼たちは残念がる。お前たち、主人の年齢と表の肩書くらいは覚えておけよ。狩りの腕前はいいのに、普段の思考は雑なんだよな、こいつら。


「明日も学校がある。俺は家に帰ってるよ」

「お疲れ様ッス、若!」


 狼たちに見送られながら俺は路地をあとにして、物陰に入ったところで……膝をついた。


「く……はぁっ……」


 どくどくと早鐘を打つ心臓がうるさい。全身に血が回り過ぎて、逆流しているような気分だ。体は熱いのに手足の先だけ妙に冷たくて、冷や汗が後から後から噴き出してくる。めまいのせいで、とても立ってはいられなかった。


「若、大丈夫ッスか?」

「白狼」


 白狼の大きな手が俺の肩を掴んだ。

 俺の異変を察知して追ってきたらしい。


「他の連中は……」

「大丈夫ッス、全員事務所に行かせました。ここには俺だけッス」

「そうか……」


 白狼以外の部下にこんな姿は見せられない。ほっと息をつくと同時に、全身に痛みが走った。


「ぐぅ……っ!」

「いつもの発作ッスよね? かなりひどくないッスか?」

「ああ、年々ひどくなる……な」


 オメガトリノがもたらした異能は、夢の超能力ではない。どれもこれも突然変異的に発現したものばかりで、有用な力を手に入れるのは稀だった。種類は千差万別。同じ遺伝子を持った双子でも同一の力を得るとは限らない。中には、その体では制御しきれないほど強大な力が産まれることもある。

 俺の中の龍の力は、完全な容量超過キャパオーバーだった。

 強すぎてコントロールしづらく、ひとたび発現させれば力を得ると同時に体中の細胞が破壊される。


「歩けるッスか?」

「……無理」

「わかったッス。黒澤こくたくの姐さんを呼んでくるッス」

「頼む」


 去っていく白狼の背中を見送って、ずるずるとその場に蹲る。

 体が痛い。全身をくまなく五寸刻みにされているようだ。なまじ再生能力が高いせいで死ぬことも気絶することもできない。

 医者の黒澤に鎮静剤を打たせて、力の暴走が収まるのを待つしかないだろう。


「大丈夫?」


 唐突に声が降ってきた。

 顔をあげると、少女がひとり俺を見下ろしていた。

 歳は俺と同じくらいだろうか? 黒銀の毛並みに、猫っぽい耳と太い縞模様のしっぽが特徴的だった。彼女は心配そうにアイスブルーの瞳を俺に向けている。

 通りがかりに、うめく俺を見つけたらしい。


「……ァ」


 放っておいてくれ、と言おうとしたが、痛みでうまく呂律が回らない。彼女はうずくまる俺を慌てて抱き起した。


「大変……救急車呼んだほうがいいかな?」

「いらなぃ……医者……すぐ、来る……」

「そうなんだ。でもこのまま放っておくわけには……」

「ぐ……あ、あぁっ」


 今までにない程の痛みが走り、俺は体をこわばらせた。目の前がチカチカする。

 比喩表現抜きに、このまま頭が割れそうだ。


「しっかりして!」


 ふわ、と何か柔らかいものが俺の頭を包み込んだ。

 優しい香りと暖かさに包まれ、一瞬頭が真っ白になる。意識が飛んだその次に来たのは、爽快感だった。


「……ん?」


 とくとくと早鐘をうつ他人の鼓動を聞いているうちに、頭からすーっと痛みがひいていく。しなやかな何かが頭に触れ……それは彼女の手だったのだが、髪をなでられると意識もはっきりしてきた。


「あ……?」


 気が付くと、全身を苛んでいた苦痛が全てなくなっていた。

 症状が軽くなった、とかではない。完全な無だ。

 ここ数年感じたことがなかったほど、頭がスッキリしている。


「治っ、た?」


 体を起こすと、心配そうな少女と目があった。冷静な思考で改めて彼女を観察する。

 さっきは猫っぽいと思った耳としっぽだったが、それにしては耳が肉厚で小さくしっぽも太い。恐らく猫の上位種の虎。それもホワイトタイガーと呼ばれる種族だろう。


「大丈夫?」

「ああ。なんか……治まった。ありがとう」

「よかった~……!」


 少女は肩を落とすと大きくため息をついた。

 思ったより不安にさせていたようだ。まあ、脂汗を流しながら必死の形相でうめいていたら、心配にもなるか。


「このまま死んじゃったらどうしよう、って思ったよ」

「君のおかげで助かった。何か礼をさせてくれ」

「いいよそんなの! 困った時はお互い様だし」

「でも」

「いいからいいから! ……ひぅっ!」


 ぱたぱたとかわいらしく顔の前で手を振っていた彼女の表情が、急に引きつった。

 心配とはまた別の理由で、かあっと顔に血がのぼっていく。


「どうした?」

「嘘……まだ周期じゃないはずなのに! こんなところで……」

「おい、大丈夫か」

「だだだ、大丈夫っ! なんでもないから!」

「しかし……」


 どう見ても様子がおかしい。

 見ている間に、彼女は顔だけでなく全身を赤く染め、額に汗が浮き始める。まるでひどく興奮しているかのように。


「お願いだから……ちょっと離れて」

「危ない!」


 考えなしに身を引こうとしたせいで、彼女の頭が壁に激突しそうになる。俺はとっさに肩を掴んで引き寄せた。


「ひゃぁんっ」


 その瞬間、ひどく甘い悲鳴が彼女の口からこぼれた。


「え?」


 なんだ今の。

 ただの悲鳴にしては、トーンがおかしくないか?

 例えるなら、狼の連中が回し見していたAVみたいな……


「ううう……」


 俺に体を支えられながら、少女がこちらを上目遣いに見てきた。その瞳はひどく潤んでいて、口からこぼれる吐息は熱い。その姿は蠱惑的で……身もふたもない言い方をすれば、めちゃくちゃエロい。

 俺たちはキメラだ。他種族の形質の恩恵を受けると同時に、その本能にも引きずられる。


「あー……間違ってたら、殴るなり蹴るなり好きにしていいんだが……もしかして、発情期ヒートか?」

「……っ」


 少女は、ただでさえ赤くなっていた顔を益々赤くさせて、絶句した。図星らしい。

 そういえば、猫や犬など多産な動物の形質を受け継ぐ者たちは、発情の頻度が高いと聞いたことがある。最近は質のいい抑制剤も出回っているし、こんな風に突然街中で発情してしまった女子を見たのは、初めてだったけど。


「……見ないで」


 少女は、自分の体を隠すように両腕で抱きしめると、身を引いた。

 誰だって、赤の他人に発情する姿なんて見せたくないよな。


「わ、私、行くから」

「待てよ」


 ふらふらと立ち上がって、その場から離れようとする少女の肩をもう一度捕らえる。


「んあぅっ……や……やぁ……」


 羞恥に顔を染めながら首を振る少女の姿に、猛烈な罪悪感を覚える。でも、必要なことだ。

 ここは夜の歓楽街だ。俺たち『桃源郷』が目を光らせているとはいえ、女に不埒な手出しをする奴は多い。こんなところに発情した女の子をひとりで放り出したら何が起こるか、考えなくてもわかる。


「もうすぐ俺の身内が来る。家まで送ってやるから」

「や……やだ……こんな格好……見られ……たく……」

「身内のひとりは女だ」

「やああ……っ!」


 白狼が呼んだ医者の黒澤は女だ。彼女に任せれば適切な治療をしてくれるだろう。しかし、パニックになった少女は俺の言葉も聞かず、その場から逃げ出そうとする。

 放置はできない、だが下手に触ることもできない。

 これ以上派手に騒いで人目をひいたら、彼女の名誉を傷つけることにもなる。

 どうやってこの子を守ればいい?

 何をしたら助けられる?

 窮地を救ってくれた女の子を見捨てる、という選択肢だけは、なかった。


「……要は、発情を止めればいいんだよな」

「ふぇ?」

「少し我慢しろよ」


 俺は身の内に宿る龍の力に意識を向けた。彼女が鎮めてくれたおかげで、力の流れが整理され、前よりずっと楽に引きだすことができた。


「ひゃっ……」


 少女の前だから、体が変質するほどの力は出さない。でもそれで充分だ。

 圧倒的な力をまき散らしながら、俺は少女の首に噛みついた。


「ああっ……」


 一瞬の悲鳴。

 びくりと体を震わせたあと、少女の体から力が抜けた。へなへなと倒れそうになる体を抱えて支える。

 喘ぎ声は出なかった。


「あ、あれ……?」


 俺に支えられながら少女は目をぱちぱちと瞬かせている。


「発情が、収まった? どうして……?」

「一種のショック療法だな」


 力を解放した俺は、圧倒的な力を持つ捕食者だ。今まさに捕食されようとしているのに、獲物がのんきに発情なんかしてられない。


「ありがとう、助かったよ」

「お互い様だ」


 俺がそう言うと、「確かに」と少女が笑った。









「ふぁ……」


 翌日、倦怠感と眠気を抱えながら、俺は通学路を歩いていた。

 昨夜はあの後大変だった。もう発情は収まったから、と家まで送り届けるのを固辞する少女にこっそり狼部隊のひとりをつけたり、主治医の黒澤に発作が収まった原因を根ほり葉ほり聞かれたり、さらに事務所で往生際悪く暴れだしたライオン頭を黙らせたりして、全部片付いたと思ったらもう朝だった。

 一応鞄の中には教科書が入っているが、まともに授業を受けられる気がしない。

 どうせ俺みたいな生徒、寝ていようが起きていようが、教師は気にもかけないだろうが。

 俺はダサい黒縁眼鏡をかけなおした。

 今の俺は、校則通りに制服を着こんで眼鏡をかけた『草食系』の小鹿生徒だ。地味なぼっち生徒として軽んじられることはあるが、『桃源郷』の金龍として恐れられることもない。

 毎日髪をボサボサにして眼鏡をかけるのは面倒だ。しかしあんな派手な肩書きをさらして学校に通ったりしたら、たちまちナワバリ目当ての刺客に囲まれてしまう。

 平穏な生活を送るためには、必要な手続きなのだ。

 俺にとっても、カタギの生徒にとっても。


(今日も一日、地味にやり過ごすとするか……)


 何度目かのあくびをかみ殺した時だった。


「おーはよっ!」


 パン、と背中を叩いて誰かが声をかけてきた。


「えっ……?」


 自慢じゃないが、学校の俺は草食系地味ぼっちだ。同じ通学路を利用していても、挨拶をしてくる奴なんかいない。

 ぎょっとして声の主を見ると、アイスブルーの瞳と目があった。


「昨日はありがと。同じ学校だったなんて奇遇だね!」


 黒銀の髪に、肉厚の耳。太いしましまのしっぽ。

 昨日俺の発作を止めた少女だった。


「な……なんで」


 何度も言うが、今の俺は草食系地味ぼっちだ。こっちの姿を見て、夜の街を歩く俺を連想する奴なんていないはず。

 驚きすぎて取り繕うこともできずに、少女を見つめる。

 少女はこてんと首をかしげた。陽の光の下で改めて見た彼女の姿は、発情時と打って変わって、健康的なかわいさがあった。


「んー? なんとなく?」

「なんとなくかよ」


 なんとなくで俺の努力を無駄にするな。

 新人類キメラの中には動物的なセンスで、一足飛びに結論に至る者がいる。彼女もそんな勘の鋭い奴のひとりなんだろう。


「私、喜虎きとら蒼唯あおい。君の名前は?」

「俺?」

「昨日はバタバタしてたから……名前を聞きそびれちゃって、ちょっと後悔してたんだ」


 俺はため息をつく。

 まあ、いまさらごまかしてもしょうがないか。


「俺は鹿島かしま金太郎きんたろう。二年だ」

「学年も同じなんだ! よろしくね、金ちゃん!」

「ちょ……きんちゃん?!」


 仲良くはともかく、その呼び方はやめてくれ!

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②嘘つきドラゴンと発情タイガー タカば @takaba_batake

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