あなたの笑顔が見たくて ~第二王子婚約者令嬢と専属従者の恋物語~
蒼あかり
第1話
いつの頃からだろうか?
あなたの顔から、本当の笑顔が見られなくなったのは。
僕は、あなたの笑顔が大好きだったのに……。
~・~・~
「今日もリンダさんに絡まれたわ」
「またですか? やはり一度、アルベルト第二王子殿下の耳に入れた方が良いかと?」
「あまり事を大きくしたくはないのよ。嫌味を言われたり、ちょっと意地悪をされたりするだけだから。それに、あの方に頭を下げたところで、聞いてくれないと思うし」
「しかし、黙ってばかりでは相手をつけあがらせることになります。どんどんエスカレートする前に押さえておかないと、何かあってからでは遅すぎます」
「そうね、わかってはいるの。わかってはいるつもりなのだけど。でも、彼女の気持ちを思うとやっぱり、ね……」
ジュリアお嬢様は目を伏せ、寂しそうに微笑んだ。
「お嬢様は優しすぎます。本来であればこのようなこと、王子殿下の婚約者が苦慮するようなことではありません」
「そう、なのでしょうね。でも、私ではあの方のお心を繋ぎ止めるだけの力がないと言うことよ。仕方ないわ」
そういって力なくほほ笑むジュリアお嬢様の横顔を、何もできないまま僕はずっと見つめていた。
レックス・ハントン子爵令息である僕が、ジュリアお嬢様に仕えるようになったのは、十六歳の春だった。
十六歳で成人を迎えるこの国で、貴族の子息たちは皆、その頃に自らの方向性を決める者が多い。
ハントン子爵家は、ハントン侯爵家の分家筋にあたり、領地も狭く財を成すには難しい家系。嫡男以外は本家であるハントン侯爵家に使用人として仕えることを定めのように教育を受ける。僕もまたハントン子爵家の次男として生を受け、本家のために働くよう教育を受けてきた。
そして十六歳の春。本家に仕えるようになり一番に命じられたことが、一人娘であるジュリアお嬢様のそばにつくことだった。
当時十二歳であったジュリアお嬢様は家柄を考慮して、モダール王国に三人いる王子たちの婚約者候補に名を連ねていた。
婚約者候補ともなれば、その身を危険にさらすことも多くなってしまう。
命までは狙われずとも、その身に瑕疵でもできれば婚約者候補を辞退せざるを得ないことになる。それを狙っての未遂事件は昔から数多く起きている。
そんな事件や事故からジュリアお嬢様を守るため、歳の近い僕が使用人として、時には友人のようにそばにつき、この身を挺することを命じられた。
どうせ使用人として働くなら高みを目指そうと、領地経営などを請け負う家令を目指したいと思っていたのに。それなのに与えられた役職は一人娘とは言え子守りに近く、僕はいたくブライドを傷つけられてしまった。
それでも給金をいただく以上、職務を全うしなければならず、渋々お嬢様との顔合わせの場に向かったのだが。
出迎えて下さったジュリアお嬢様は、幼いながらもすでに侯爵令嬢らしい気品と、美しさを兼ね備えておられ、僕は思わず頬を赤らめてしまった。
「あなたが私に就いてくださる方ね? 私、兄弟がいないからお兄様ができたみたいで嬉しいわ。よろしくね」
そう言って輝かんばかりの笑顔を僕に向けてくれた、あの笑顔が忘れられず、この方を、この笑顔を生涯お守りしようと心に誓った。
それからは、ジュリアお嬢様のどんな質問にも答えられるよう勉学に励み、その身を守るために剣や武にも己を磨き続けた日々。
ハントン侯爵家の一人娘であるジュリアお嬢様が、モダール王国第二王子アルベルト殿下の婚約者になったのは三年前のこと。
成人を迎えた第二王子としての婚約であり、アルベルト殿下が二十歳を迎える年に婚姻の運びになる予定だ。
だが、この婚約は政治的な色あいが濃く、思春期を迎えた王子に対してまだ幼さの残るジュリアお嬢様では物足りなく映ったのも事実だろう。
我儘をいう事すら許されない現実を、まだ幼さの残るジュリアお嬢様は受け入れたというのに。成人したとは言えまだ子供心の残るアルベルト殿下はこの縁を受け入れることが難しかったらしく、婚約者であるジュリアお嬢様をずっと虐げ続けてきた。
そして、二人はお互いの想いを理解し、交わることもないままに年月は過ぎていった。
一年後には婚姻の儀を迎えるジュリアお嬢様も十七歳となり、その美しさは花にたとえられるほどに美しくなられた。
そんなジュリアお嬢様とは裏腹に、アルベルト殿下は王宮内で側仕えする令嬢達と浮名を流すようになっていった。
王宮内でも下働きなどではなく、王族の目に触れる地位にいる使用人は皆、貴族出身者に限られる。決してみだらに手を出して良い相手ではない。それなのに、アルベルト殿下は自身のそばに仕える令嬢達に手を付けているともっぱらの噂だった。そしてその相手となった令嬢を自分の家臣たちに押し付け、婚姻を結ばせているという。そんなにわかには信じがたい、口封じのような所業が噂となって延々と流れ続けているのだ。
それでも王族との婚約を簡単に破棄することはできない。
ジュリアお嬢様のお父上であるハントン侯爵は、何度なくこの婚約の解消を申し出ているが、受理されることはなかった。ジュリアお嬢様本人も婚約者として親睦を深めたいと努めても、それを相手が受け入れてくれなければどうしようもない。
定期的に定められている面会もアルベルト殿下が顔を見せることは無いし、婚約者として花一輪贈ることもない。
僕はそんなジュリアお嬢様のお姿をそばで見ながら、何もできない自分の非力さを恨めしく思うしかできなかった。
ジュリアお嬢様のそばに上がった時、まだ十二歳であったお嬢様は可憐で可愛らしい笑顔を振りまいていた。常に笑みを絶やさず、使用人にすら優しいその姿にそばにいる者達は皆、心を温かくしていたのに。
そのジュリアお嬢様の顔から笑みが消え始めたのは……そう、この望まぬ婚約が成立したころからかもしれないと僕は思う。
王子妃教育故の落ち着きではなく、子供ながらに諦めにも似た思いを抱えているのだろう。家の中でも、家族の前ですら、ジュリアお嬢様は作ったような笑顔しか浮かべることがなくなっていた。
初めて見た時からお嬢様の笑顔が胸に残り、その笑顔を守るためだけに努力を続けて来たというのに。
ある日、王宮内での王子妃教育も終わり、帰路に着くため王宮内の廊下をジュリアお嬢様と僕、そして侍女を伴い歩いていた。
廊下の脇で令嬢が数人集まって何やら話をしている。噂話でもしているのだろう、時折微かな笑い声も聞こえてくる。
最初に見つけたのは僕だった。人目を引くほどの美しさはないが、どことなく幼さの残るような庇護欲を掻き立てる、そんな雰囲気を醸し出すあれはリンダ嬢だと。
そしてジュリアお嬢様もそれに気が付いた。すると、少しだけ歩の早さが遅くなる。
「お嬢様、いかがなさいますか? 大回りになりますが、あちらを通って行くことも出来ますが」
僕の視線は花を愛でながら通るこの廊下ではなく、少し薄暗い会議室前を通る廊下に向けられていた。
アルベルト殿下から、今まさに寵愛を受けていると噂のリンダ・メイヤー子爵令嬢。ジュリアお嬢様はこのリンダ嬢から要らぬやっかみを受け、様々な妨害を受けている。と、言っても、子爵令嬢が侯爵令嬢に敵うはずもなく、ましてや正式な婚約者であるジュリアお嬢様に到底勝てる術はないのだ。
それなのに、リンダ嬢はアルベルト殿下への想いを拗らせたかのように、執拗にジュリアお嬢様への圧をかけ続けていた。
「今日は花を見ていたい気分なの。このまま参りましょう」
僕は眉をひそめながらも「かしこまりました」と、お嬢様の後をついて歩く。
「家柄だけ、顔だけの婚約者なんて、アルベルト様が可哀そうだわ」
「ちょっと、声が大きいわよ」
「だって、本当のことだもの。それに、アルベルト様もおっしゃっていたわ。お飾りの婚約者だって。後ろ盾のために解消しないだけで、何の魅力も感じないってね」
「リンダ、本当にやめなさい。不敬に問われるわよ」
「なぜ? 本当の事を言ってはいけないの? そんなのおかしいわ」
「ちょっと! しぃー!!」
リンダ嬢達の会話が聞こえるところまで来てみれば、案の定お嬢様の悪口だった。
こんな話、お嬢様には聞かせたくはない。常に周りに気遣い、心を砕いているというのに、どうしてこの者達はわかろうとはしないのだろう?
リンダ嬢と共にいた令嬢達は、お嬢様や僕たちの姿を確認すると逃げるように去って行った。
とっくに気が付いていたのであろうリンダ嬢は、振り向きながらジュリアお嬢様を確認すると、ひと睨みしたあと視線をわずかに下に下げ後ろに一歩下がった。
遠目に僕達を確認していたのだろう。聞こえるように発言したその口角は、わずかに上がっている。なんて醜い顔なのだろう。
「本当のことですもの。私、謝りませんわ」
自分の立場もわきまえぬ、なんと愚かで滑稽な人間だろうと、僕は腹の中で思っていた。
だが、ジュリアお嬢様の顔を伺うと、憐れむように切なそうな顔をしている。
きっと、今までの令嬢達と同じように、すぐに捨てられるのであろう運命を思い、同じ女性として哀しい一抹の寂しさを感じていられたのかもしれない。
声には出さなくても、その思いは表情や態度で現れていたのだろう。僕自身も下劣な者を見るような目になっていたと思う。
リンダ嬢は怒りでみるみる顔を赤らめると、
「相手にされないからって、馬鹿にするんじゃないわよ!」と、怒鳴る様に張り上げた言葉は、廊下中に響き渡った。
彼女がアルベルト殿下の寵愛を受けていることなど、王宮内で知らぬ者はいない。
そして、その立場がいかに危うくて、先の無い幻であるかも皆が知っている。
今までの令嬢と同じように、飽きられれば本人や家の思いを組むこともなく、望まれぬ結婚をさせられるのだ。
それなのに本人は恋に体に溺れ続け、夢から覚めることを拒み続けている。
「相手にされないのではないわ。
私が、私自身の矜持にかけて、誇りを持った生き方をしているだけ。
この国を守る一片になる覚悟を持って、この立場を辞さないだけよ。
あなたと一緒にしないでちょうだい」
リンダ嬢の目を真っすぐに見据え、背筋を伸ばしハッキリとした態度で言い放つその様は、さすが侯爵令嬢であり、未来の第二王子妃である。
そして、たとえ政略結婚であろうとも、王子殿下の婚約者であるジュリアお嬢様の風格は、リンダ嬢と比べるまでもない。
いつの間にか集まった周りの者も、答えは最初からわかっている。それでもやはり格の差を見せつけられることで、感嘆のため息が漏れ聞こえてきた。
今までは何を言われても反論することもなく、ひたすらに無視を決め込み耐え続けていたはずのジュリアお嬢様だったが、本来の姿はこれほどのものなのだとリンダ嬢も思い知ったことだろう。
冷静になり見渡せば周りの人だかりに驚き、そして自分を見る視線が違うことに気が付いたのだろう。彼女も少しばかりは常識が通じるらしく、「ふんっ!」と鼻を鳴らすようにしてその場を去って行った。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
足元をふらつかせるようにしたジュリアお嬢様の肩を咄嗟に掴み支えた。
「ええ、大丈夫よ。ごめんなさいね」
こんな時でも気丈に振る舞うジュリアお嬢様の瞳が、いつまでもリンダ嬢を追い続けていることを僕は知っている。
大騒ぎにしたことで、彼女の立場が危ういものになることを危惧しているのだろう。取り立てて功績や実績のない貴族には後ろ盾がない。そんな家の娘がひとたび醜聞をまき散らせば、本人のみならずその家族にも大きな影響を与えてしまう。
「メイヤー子爵家の様子を見守ってあげてちょうだい」
僕はお嬢様のことだからそうくるだろうと思いながらも、小さく息を吐き、
「お嬢様、あのような者のことなど捨て置くことが一番です」と答えた。
「そうは言っても、ご家族に罪はないのよ。それに、あそこまで本気でアルベルト様を想っているということでしょう? 今までのご令嬢達とは違うもの。代われるものなら代わってあげたいわ」
「……そうできれば、本当にどんなに良いか」
野次馬の散った廊下で、僕は王宮の花にも負けぬ美しさのジュリアお嬢様から目が離せなかった。
王宮からの帰路の道中、馬車の中でお嬢様がポツリとつぶやいた。
「想いもなく散らされ、望まぬ縁を結ばされても幸せになれる者と、望まぬ最後を迎えたとしても、心から愛する人のものになるのでは、どちらが幸せなのかしら?」
ぼんやりと窓を流れる街並みを見つめながら、誰に言うでもなく独り言のようにつぶやいたその問いに、僕は答えなど持ち合わせてはいなかった。
貴族とは言え裕福ではない家の娘からしたら、たとえ王子によって操を散らされ弄ばれたとしても、その後身元のしっかりとした者の元へと嫁げることは決して悪い話ではないのも事実だ。お手付きとなった噂を持つ身としては、その後、良縁を繋ぐことは難しいだろうから。
押し付けられた方もまた、王族に貸しをつくることが出来る上、それ以上に何らかの恩賞もあるのだろう。お互いの利害が一致するのなら、それを逆手にとり幸せになるように考えを改めれば良いのだから。
実際、ジュリアお嬢様のお供で参加した夜会でも、そんな話を小耳に挟むこともあった。
王族との婚姻に愛を求めてはいけないと知りつつも、せめてもと情を求めることは当然であり、悪い事ではない。それをジュリアお嬢様が欲したとしても、誰も責められないのに。
それなのに、お嬢様はご自分を責め、自身を犠牲にしようとする。
大切な人を救い出せない想いは、流れ消えることもなく僕の周りにまとわりついて離れてはくれない。
~・~・~
定期的に行われるアルベルト殿下との面会。茶会と呼ぶのも憚られるものになってしまった。
婚約をしたばかりの頃はアルベルト殿下もきちんと顔を出し、他愛もない会話をしていたように思う。だが、彼の使用人との関係を耳にするようになってからは、一度も顔を出したことは無い。
毎回、ジュリアお嬢様の従者としてお供し、誰もいない向かいの席を見つめながらただひたすらに無意味な時間を過ごす姿を見ながら、悔しさと同時に苦しさを感じていた。
お嬢様自身、アルベルト殿下の行いをちゃんと理解されるようになってからは、無駄な時間を過ごすこともなくすぐに退席されるようになったのに、一体どうして?
「元気そうでなによりだよ。ジュリア」
ジュリアお嬢様の向かいで足を組み、身体を横にしながら顔だけは器用に正面を向いているその人こそ、お嬢様の婚約者であるアルベルト殿下。
上品とは決して言えない所作で紅茶を飲み、含み笑いでお嬢様を見ている。
「アルベルト様もお元気そうでなによりでございます」
王子妃教育の賜物であるその笑みを、お嬢様は完璧に作りあげている。俯き加減で、視線を合わせないようにしているその様子がおかしくて、僕は心の中で留飲を下げる。
「これ、美味しいな。やっぱり王宮の料理人は腕が立つ。君も食べなよ、ほら」
アルベルト殿下は自分が食べた焼き菓子と同じものを摘まむと、ジュリアお嬢様の口元に手を伸ばし差し出した。
「いえ、結構です」
「そう? 遠慮なんかすることないのに」
アルベルト殿下は、摘まんでいた焼き菓子を自分の口に放り込んだ。
たとえ婚約者とはいえ、今までほとんど繋がりもなく、ほんの少しでも心を通わせたわけでもない男の手から物を食べるなど。王子としての資質を疑わざるを得なくて、僕はイラつく思いをなんとか押さえつけた。
「今日は、いかがなされたのですか? 何か大事なお話しでも?」
「いや、麗しい婚約者殿が気になってね……。な~んて、こんなこと言っても信じないでしょ? 君の目を見ればわかるよ」
この日、初めて目を合わせた二人。
「なんだかさぁ、面白い話を聞いたんだよ。王宮内の廊下での痴話喧嘩? って、言っても喧嘩にすらなってなかったって聞いたけどね。僕が原因なんでしょ?
いやぁ、正直驚いたよ。君がそんなにも僕の事を想っていてくれたなんて」
あまりのふざけた発言に飛び出して行こうとする足を食い留めた自分を、全力で褒めてやりたい。
ジュリアお嬢様も身じろぎ一つせず、冷静を保っているようで安心した。
「アルベルト様の思っておられるような事では、決してないとだけ……」
「そんな照れなくても良いのに。昔の君なら無しだけど、今なら少しは相手してあげても良いよ。今の君なら夜会のエスコートも問題なさそうだしね」
テーブルに肘をつき、覗き込むように語り掛ける姿は一国の王子に相応しくはない。それなのに、この方は仕事だけは出来ると言われている。国王になりたいなどという欲もなければ、面倒事を大層嫌われる方で、のらりくらりと周りを掻い潜り、その上仕事はきちんとこなされるという。
ジュリアお嬢様との婚姻を嫌がるのも、妙に強い後ろ盾を拒んでのことと耳にしたこともある。本来なら一国の頂点に立つだけ力のある方なのだろう。しかし、兄上に遠慮をするあまりその身にそぐわぬ行動をし、周りを煙に巻いている。そんな風に思えてならない。
「アルベルト様。今後も必要最低限の夜会以外に出るつもりはありませんので、エスコートの必要はありません」
「そう? 昔みたいに手を繋いで出るのもたまには良いんじゃない? ねえ?」
アルベルト殿下は向かいに座るジュリアお嬢様に手を伸ばし、肩にかかった髪をひと房掴むと指にからめクルクルと回し始めた。
今すぐに殿下の手を振り解きに駆け付けたいが、それが許されるはずもない。
お嬢様もされるがままにしているが、どうも様子がおかしい気がする。何がどうおかしいか、うまく表現できないが。
「何か、あったのですか?」
「ん? 何かって? 婚約者だもの、少しくらい良いんじゃない?」
いまだお嬢様の髪をもて遊ぶアルベルト殿下。確かに、本来であればこの二人の関係こそが正しいのに。拭いきれない疑念を胸に、それでも向いあい視線を重ねる二人を見ることが僕には苦しかった。
「アルベルト様!!」
甲高い声がサロン中に響き渡った。
何をしても茶会に顔を出さない殿下のために、いつしか庭園や客室といった準備に手間のかかる空間を避けるようになっていた。
今日もサロンの一角。オープンになった環境下の中、その声は思いのほか響き渡り、周りの目を釘付けにする。
「アルベルト様。どういうことでしょう? なぜ、このような席に?」
壁際に立ちジュリアお嬢様とアルベルト殿下の様子を見守っていた僕がゆっくりと視線を向けると、想像通りの人物がそこに立っていた。
リンダ嬢。アルベルト殿下の寵愛を受けていると噂の令嬢だ。
息を切らせ肩を上下に揺らし、顔を赤く染めている。きっと誰かに聞いたのだろう、アルベルト殿下が婚約者であるジュリアお嬢様と席を同じくしていると。
「どうしたんだい? そんなに慌てて。少し落ち着いたら?」
「アルベルト様、どうされたのですか? なぜ、この方とご一緒に?」
ゆっくり、一歩ずつ、確実に歩を進め近づくリンダ嬢。
興奮しているのだろう、少し正気を逸脱しているようにも見える。アルベルト殿下の護衛もいるが、それ以上近づくなら、と思っていた矢先。
「それ以上近づいたら不敬にするよ。彼女は僕の正式な婚約者だ。こうして直に会って、愛をささやくことは何らおかしい事じゃない。君に何か言われる筋合いはないよ」
「そ、んな。アルベルト様、だって!」
今にも崩れ落ちそうなリンダ嬢。見つめる先はアルベルト殿下だけ。
何をどう言われていたのかなど、想像に難くない。若く初心な令嬢を落とすなど、殿下にしてみたら赤子の手をひねるよりも簡単なことだっただろう。
「ああ、もう興覚めだ。こんなに馬鹿だとは思わなかったよ。そろそろ君にも飽きて来たし、良い頃合いだ」
アルベルト殿下はそう言いながら立ち上がると、リンダ嬢の側まで歩いて行った。そして、ゆっくりとした所作で彼女の耳元に口を近づけると、
「二度と僕の前に顔を見せるな!」
冷静に、無表情で語るその顔が余りにも冷徹で恐ろしく感じてしまった。
たとえ遊びであろうとも、今までの令嬢にはきちんと行く末を与え、情をかけてやっていたのではないのか? だからこそ、いままで大事にならなかったのだろうに、リンダ嬢にその温情は与えられないと言うことだろうか?
アルベルト殿下が去った後、膝から崩れ落ちたリンダ嬢に手を差し伸べる者は誰もいなかった。たった一人を除いては。
アルベルト殿下が一度も後ろを振り返ることなく去った後、リンダ嬢に気を取られている隙にジュリアお嬢様はいつの間にか彼女のそばで同じようにかがみこみ、手を添えられていた。
ああ、この方はどこまでお人好しで、そしてお優しいのか。
「大丈夫ですか?」
リンダ嬢の肩に手をあて、心底心配されたように声をかけるジュリアお嬢様。
それなのに、リンダ嬢はお嬢様の手を払いのけると、
「私に勝ったつもり? ……あんたなんかの憐みはいらないわ。放っておいて」
捨て台詞を残し、一人その場を後にした。
アルベルト殿下に対しての想いなど持ち合わせてはいないジュリアお嬢様でも、リンダ嬢にしてみたら正しく恋敵なのだ。相容れることは無理だと、僕でも思う。
僕はジュリアお嬢様のそばに立ち、
「今日はもう、ご帰宅されては?」
「そうね。これ以上ご迷惑はかけられないわね。帰りましょうか」
ジュリアお嬢様の言葉を受け、帰宅の準備に入る。
周りで見ていた者の口から、すぐにこの話は広まるのだろう。
面白可笑しく誇張された話で、お嬢様が心を痛めない事をただただ祈るしかない。
あの茶会の後すぐに、アルベルト殿下から夜会の招待状が届いた。
お嬢様と婚約してから今まで、このように夜会の誘いを受けることなど無かったのに。それもご丁寧に、ドレスとアクセサリーも一緒にだ。
あの日からそれほど日数は経っていない。一番直近の夜会を指定したのだろう。
お嬢様も旦那様も困惑されておいでだが、婚約者である第二王子のお誘いを断る理由は一つもない。
当日は旦那様もご一緒され、僕も従者として同行することになった。
殿下から送られたドレスは、彼の瞳の色である深い緑色。
あの日からでは、どう考えてもドレスを一から作りあげるには間に合わない。
しかし、どう見ても半既製の品ではなく布地も最高級品だ。
「王家の力を使い、金に物を言わせて作り上げたのだろう」と、皆は口にしていたが、僕は違うと思っていた。
たぶん、ジュリアお嬢様へのドレスはこれだけではないのだろう……と。
以前からお嬢様への、お嬢様だけのドレスを作っていたような気がする。
最高級、最先端のデザインの物を作り続けていたのではないだろうか?
僕は複雑な思いでそのドレスを眺めていた。
直接その身にまとい、色味によっては自分の『もの』であると誰の目にも直接的に誇示することができる品。
応接室の壁に掛けられたドレスを目の前にし、その布地を手に取ってみた。
最高級品で作られたのであろうその布地は、肌に馴染み美しい光沢を輝かせている。これだけの物をどのような思いで用意されていたのだろう?
ガタッと音がして振り向くと、ジュリアお嬢様がドア付近に立っていた。
ドレスに夢中になり、考えが深くなりすぎて気が付くのが遅れてしまった。
「お嬢様。申し訳ありません」 僕は一歩下がり、頭を下げた。
「いま、私と同じことを考えていたのでしょう?」
「え?」
「たぶん、同じことよ。これだけの品、そうでもなければ無理がありすぎるもの」
「私は何も……」
「そう? なら、そう言う事にしておきましょうか」
「ねえ、私はどうするべきなのかしら? どうしたら良いと思う?」
「……、お嬢様はアルベルト殿下の婚約者でございます。それは今も昔も変わらない事実です。お嬢様が心配されることなど、万にひとつもありません」
「ふふ。模範解答ね。あなたらしいわ」
「お褒めいただき……」「褒めてなどいないわ!」
僕の言葉を遮るように否定を口にするジュリアお嬢様。何がお嬢様の逆凛に触れたのかもわからないまま、僕は謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ございません」
「何を間違っているかもわからないままの謝罪に、意味など無いでしょうに」
言い返す言葉が見つからないまま、僕は俯きお嬢様の足元を見つめていた。
視線の先に見えるお嬢様の手は固く握られたまま、力強い足さばきで僕の視線から消えて行った。
お嬢様の足元が見えなくなってもしばらく、僕はそのままの姿勢を崩すことが出来なかった。
夜会当日、指定の時間に合わせ会場である公爵家へと向かう。
旦那様、お嬢様とともに馬車で移動し降り立ったそこには、お嬢様の婚約者であるアルベルト殿下がすでにお待ちになられていた。
婚約されてから数年、このような事は今まで一度としてなかったのに。
旦那様も僕も少し驚き、一瞬動きが止まってしまった。
しかしお嬢様はまるでわかっていたかのように、淡々と殿下の手を受け入れ、会場へと進んで行った。
いつもなら毎回違う令嬢を伴い夜会に参加するアルベルト殿下だが、今宵は本来エスコートをするべき婚約者であるジュリアお嬢様の手を取っている。
しかも二人が笑みをこぼすことで、成婚も間近なのだとの声が聞こえてきた。
実際、後一年もすればそれも現実になるのだが、今までの殿下の行動を見るに、この婚約は破談になるのでは?との噂が飛び交っているのも事実だ。
しかし、二人が並び微笑み合う姿を見ることで、王家も、ハントン侯爵家も今までの悪行を許したと捉えられるのだろう。
僕は従者として会場に入ることは出来ない。入口の付近でお嬢様の様子を伺うだけだ。特に今夜は殿下とご一緒されている。婚約者とは言え、目を離すことはできない。
仲睦まじく手を取りダンスを踊り、時に他の来客者たちと語らう姿は、どこから見ても模範的な婚約者同志だ。
本来の姿になっただけなのに、僕の心は苛立ち、とめどなく押し寄せる波のような不安感に落ち着かない時間を過ごしていた。
夜会も盛り上がり休憩を取る者も出始めた頃、ジュリアお嬢様とアルベルト殿下は中庭へと移動していた。
酒も入りダンスで火照った体を覚ますには今の時季、夜の中庭は丁度いいかもしれない。周りに人の気配はするも、皆それぞれの思惑で動いている。互いを邪魔するような無粋な真似はしない。
僕はお嬢様とつかず離れずの距離を保ちつつ、その姿を見失う事はしない。
二人は互いに並び、肩が触れ合わない距離を保ちつつ歩いている。
いつも耳にするアルベルト殿下の噂話からすると、とても信じられないほどの奥ゆかしい距離感。僕は醜い嫉妬でいたたまれない思いだった。
殿下の、彼の本心が今更になって伝わってくる。
僕と同じ思いを抱え込んだまま募らせていたのかと思うと、嫉みと同時に同情の想いも禁じ得ない。
ジュリアお嬢様に対する仕打ちは許すことなど出来ないが、情けを、同じ男として憐みすら感じる。
会話の声は聞こえない。そんな二人の姿を眺めながら思いを巡らせていると、ふと視線の端に見たことのある姿が目に入った。
リンダ嬢。
彼女が個人的にこの夜会に招待を受けたとは考えにくい。どうやって潜り込んだのだろう? たぶん目指す先は一つだけ。彼女の視線の先にはアルベルト殿下とジュリアお嬢様がいる。
僕の考えが間違えていなければ、碌でもない事を考えているに違いない。
リンダ嬢はゆっくりとお嬢様たちに近づいて行く。
「アルベルト様」
名を呼ばれて振り返った殿下は、思わぬ存在に目をむいて驚いているようだった。
「リンダ! ……、二度と僕の前に姿を見せるなと言ったはずだが?」
「アルベルト様、今日はお伝えしたいことがあって参りました。どうしても聞いていただきたいことがございます」
「伝えたいこと?」
「ええ。私、あなたのお子を身ごもりました。ほら、ここに。一緒に喜んでくださいませ」
リンダ嬢は自らの腹に手をあて、やさしくなでるように自身の腹を見つめている。
その顔は微笑んでいるような、泣いているような、何とも言い表せない表情だ。
「子などと、そんな話を信じろと言うのか? それが俺の子だと言う証拠は? 金と地位に目がくらみ、簡単に身体を許すような身持ちの悪い者の言葉など誰が信じると思っている? 手切れ金を渡さなかったことが気に入らなかったか?
後で言い値をくれてやる。わかったら、すぐに消え失せろ」
「そ、そんな。あれだけ私を欲してくださったではありませんか? 私だけだと、愛しているとささやいてくれたではないですか?!」
リンダ嬢の声が中庭に響き渡る。周りで身をひそめるようにしていた者達の視線を一手に受けたまま。もはや周りのことなど気にも止まらないのだろう。
「はぁー。男は女を手に入れる為なら心にもない言葉を口にすることなど、造作もないことだ。互いに楽しんだんだ、それで終わりにしておけばよいものを……」
「アルベルト様。わかっています、その女でしょう? その女があなたをたぶらかしたのですね? 私達の中を引き裂こうとする悪魔のような女。
その女さえいなければ、私たちは幸せになれるのに!」
リンダ嬢は流れる涙を拭くこともせず、たどたどしい足つきでお嬢様たちに近づいていく。僕同様、殿下付きの警護の者も体制を整えている。
それにしても、彼女は表情すらも無くし何かにとりつかれたかのようだ。
僕の中で警鐘が鳴り響く。
リンダ嬢の動きに合わせ、僕もゆっくりと歩を進める。
するとジュリアお嬢様が、自らを盾にしようとアルベルト殿下の前に立った。
「ジュリア。何をしている? 早く俺の後ろに」
「いいえ、殿下をお守りするのが臣下の務め。婚約者の代わりなどはいくらでもいますが、殿下の代わりはおりません。どうかお下がりください」
ああ、この人はどこまでも清く、正しく在られようと言うのか。これほどまでに蔑ろにされてもなお、守ろうとするなどと……。
自分の汚れた心根を恥じ、一瞬、ほんの一瞬目を反らしたその先にキラリと光るものが目に入った。
光の先に視線を移すと、リンダ嬢の腹の辺りからだった。
ドレスの腰に巻かれた太いベルトの中に手を入れ短刀を抜き取ると、
「ふざけないでよ。アルベルト様は渡さない!!」
言うが早いか彼女は短刀を両手で握りしめると、お嬢様に向かって真っすぐに走り出した。
「ジュリア!!」
男の叫び声とともに、僕の名を叫ぶ声が聞こえた。
「レックス!!」
その声が誰か、僕にはもうわかっている。
『ドンッ』
脇腹に衝撃が走った。見下ろすと、僕のすぐそばにリンダ嬢の顔が見える。
目を潤ませながら見開き、口元はわずかに震えているようだ。
「違う、違うの。こんなはずじゃ、なんであなたが……」
よろよろと後ろに後退りし、ドスンと尻もちをつくように地面にへたり込んでいる。
「早くこの者をひっ捕らえよ!!」
ああ、リンダ嬢は捕まえられるのか。良かった、これで一先ず安心できる。
「レックス! レックス!!」
名を呼ばれ、振り返ろうと足に力を入れようとするがうまく力が入らない。
そのまま僕は膝をつくように地面にしゃがみ込んでしまった。
リンダ嬢にぶつかった衝撃が今頃痛み出してきたみたいだ。
そっと脇腹に手をあてると、ぬるりとした生暖かい感触が手をつたう。
視線を落とすと、なぜか触れた手が赤く染まっていた。
「レックス! しっかりして、レックス!!」
ジュリアお嬢様が僕のそばにしゃがみ込み、肩を支えようと手をかけている。
汚れてしまうからいけませんと口にしようとすると、ゴホゴホとせき込んでしまった。
「レックス。ダメよ、話してはダメ。無理をしないでちょうだい」
お嬢様は僕を背後から抱きしめるように支えると、左の脇腹に置いた僕の手を上から握りしめている。
「レックス、今医者を呼ぶわ。大丈夫よ、しっかりして」
ああ、そうか。僕はリンダ嬢にあの短刀で刺されたのか。あまりにも咄嗟の事で頭が追いつかないみたいだ。
リンダ嬢がベルトから取り出した短刀を見た瞬間、僕は走り出していたんだった。
良かった、間に合って。お嬢様がご無事で、本当に良かった。
「レックス、しっかりして。ダメよ眠っては、目を開けて。お願い!」
今、僕はお嬢様に抱かれている。まさかこんな日が来るとは夢にも思わなかった。
憧れて、陰ながら慕い続け、この想いを伝えることなどないままに、使用人としてこの方をお守りしようと決めていた。
お嬢様が婚約をされてから、僕の名を呼ぶことは無くなっていた。
心から求めた人の口から名を呼ばれる喜びが、これほどとは思わなかった。
慕い続けた人の声で自分の名を呼ばれることが誇らしく思える。
「レックス、しっかりしてちょうだい。お願いよ。レックス」
掠れゆく視界に映るその人の瞳は涙で塗れている。
そうじゃない。そうじゃないのに。
僕はあなたの泣き顔が見たいんじゃない。
あなたの笑った顔が大好きで、求め続けたあなたの顔は、最初に見た花のような満面の笑顔、それだけなのに。
「わらっ、て」
腹に力の入らない僕は、やっとの思いでふり絞り言葉を口にする。
「わらって? 私に笑えと言うの?」
ずっと守り続け、求め続けたあなたの笑顔が、ただ一つの僕の望み。
「わかったわ。あなたが無事ならいくらでも笑ってあげる。あなたの為に、あなただけに笑うわ。だからレックス、お願いしっかりして。お願いよ……」
こんな僕の為に無理に笑おうとしてくれる、大切なあなたの瞳から涙がこぼれ落ちる。泣き笑いの、そんな笑顔でもあなたの笑った顔は美しい。
僕の名を呼んでくれるあなたの、あなたの名を最後に呼ぶことを許してもらえるだろうか?
「おじょう、さ、ま」
「ううん。レックス、ジュリアよ。お嬢様ではないわ。ジュリアと呼んで」
「…… ジュリア」
誰もいない部屋で、声に出すことすら許されないまま、唇を動かしその名を呼んでいた日々。
この想いを、愛をささやくように名を呼ぶことが許されるなら、何度でも呼び続けたい。この命尽きるまで……。
「ジュリ、ア」
「愛、して……ジュ、リ……」
「レックス? ダメよ、目を開けて!! しっかりしなさい、レックス!
私を置いて逝くことなど許さないわ。
これは命令よ。私のために目を開けなさい!
まだあなたに何も伝えていないのよ。
レックス、ダメよ。お願い、しっかりして!!」
「レックスーーーーー!!」
その夜。
第二王子殿下の婚約者でありながら別の男の名を呼ぶその姿を、責める者など誰一人としていなかったと言う。
彼女は、その腕に婚約者以外の男を抱き、彼の名を叫び続けていた。
~・~・~
爽やかな風が頬を撫でる。薄っすらと汗ばんだ肌に心地良い。
『もう少し、あと一歩。ゆっくりでいい、焦ることはないんだ』
僕はそんな事を思いながら、足に力を込めた。
「お茶が入ったわ。少し休憩にしましょう!」
ああ。もうそんな時間か……。
足を止めると途端に疲れが込み上げてくるような気がする。
だいぶ疲れているみたいだな。少し休もうか。
「大丈夫? 疲れたでしょう。あなたの好きな苺のタルトがあるわ。少し休みましょう、レックス」
ジュリアお嬢様が僕の隣に立ち、その手をそっと背に添えてくれた。
暖かく、優しい手の感触。それだけでどれだけ勇気づけられるかわからない。
「お嬢様、ありがとうございます」
「もう! いつまで私はお嬢様なの? いい加減、婚約者として認めて欲しいわ」
「いや、それは、もちろん。あ……、すみません」
「ふふ。いいわ、許してあげます。でも、いい加減慣れてくれなくちゃ。私だっていつまでもお嬢様呼びでは寂しいもの。早く名前で呼んで欲しいし」
ジュリアお嬢様、もとい『ジュリア』は、少し頬を赤らめて俯きながら、松葉杖を握る僕の手を握ってくれた。
あの夜会でリンダ嬢の持つ短剣で刺された僕は気を失い、三日間目を覚ますことは無かったらしい。
出血もひどく、一時は生死をさ迷ったと後で聞かされた。
わき腹から腰に抜けた傷はかなり深かったらしく、今でも足に麻痺が残り歩行が困難な状態になってしまった。
訓練次第では松葉杖から杖で歩くことも可能だろうと医師に言われ、毎日訓練をかかさないようにしている。
咄嗟のこととはいえ、ジュリアに怪我を負わせずに済んだことは、自分でも良い仕事をしたと思っている。
僕が目覚めた時、ジュリアは僕の手を握ったまま寝台にうつぶせになりうたた寝をしていた。その寝顔をいつまでも見ていたくて声を潜めていたが、その綺麗な髪に触れたくてうっかり手を伸ばし起こしてしまった。
僕が目覚めたことを知った時のジュリアの驚きようは、今思い出しても可愛くて顔がにやけてしまう。
ひとしきり大騒ぎした後、涙をこぼし「良かった」と何度も告げるその顔が、無理に笑おうとしてくれているようでとても嬉しかった。
夜会の後、アルベルト殿下とジュリアの婚約は破棄となった。
あの晩、リンダ嬢が言っていた懐妊は事実で、相手はもちろんアルベルト殿下。
公爵家での修羅場はさすがにもみ消すことは難しく、しかも今までの殿下の行いから、さすがに王家も今までのように守り切ることはできなかったらしい。
それでも腹の子に罪はない。兄である王太子殿下の取り計らいにより、アルベルト殿下は爵位はく奪の上リンダ嬢と生涯婚姻関係を結び、メイヤー子爵家へと婿養子に入ることになった。産まれ来る子には王位継承権は発生しない。
アルベルト様が婿養子に入られたメイヤー子爵家は取り立てて目立つ功績も、大きな事業をするわけでもないため、今後高位貴族との接点はほぼはないと思う。
そして、僕とジュリアだが……。
「はい、あーん」
「いや、ジュリア待って。大丈夫だから、自分で食べられるから」
「あら? あなたの好きな苺のタルトよ。食べるでしょう? はい、あーんして」
「いやいや、ほんと大丈夫だから。恥ずかしいから、やめて、ください」
「あら、恥ずかしがることないじゃない? 皆、知ってる者ばかりだもの」
いや、知っているから恥ずかしいんです。今まで一緒に働いてきた人たちだからこそ、嫌なんです。みんな笑いを堪えてるのが分からないんですか?
「もう。やっと両思いになったんだから、少しくらいは甘えてもいいでしょうに」
目が覚めた僕を待ち受けていたものは、ジュリアからの惜しみない愛情表現だった。僕は気が付かなかっただけで、侯爵家に居る人たちはみんな僕たちの気持ちを知っていたらしい。
僕がジュリアを好きな事も、彼女が僕を好きな事も。
ただ、ジュリアの婚約者は一国の王子。どんなに想い合っていても叶うことなどないと皆が理解している。そのため、穏やかでいいから幸せを手にして欲しいと願ってくれていたらしい。
ジュリアは僕が目覚めると、侯爵であるご主人様に僕との婚約を懇願してくれていた。そんなこと夢の話だと思っていたのだが、ご主人様はいとも簡単に認めてくださり僕自身が呆気にとられてしまうほどだった。
元々ひとり娘であるジュリアが王家に嫁いだ後、親戚筋の中から僕を後継として考えてくださっていたらしい。
アルベルト様との婚約が消え去った今、僕たちが一緒になってハントン侯爵家を継いでくれればこんな旨い話はないと、実際は大喜びだったとか。
「一日も早く足を直すように頑張るよ」
「大丈夫よ。足に問題があったって領地経営はできるもの。ゆっくりで良いわ。あせらず、のんびりで良いのよ」
「いや、来年の結婚式までには何としても歩けるようになりたいんだ。
披露宴では、ゆっくりで良いから君とダンスを踊りたい。
僕は今まで、あなたが他の男の手を取り踊る姿を遠くから眺めることしか出来なかった。ずっと、その手を取り、見つめあいながら踊りたいと願い続けていたんだ。
そんな、僕のささやかな夢をかなえてくれるかい?」
「ああ、レックス。なんて素敵なの。あなたの夢は私の夢でもあるわ。
私もずっとあなたと一緒に踊れたらって思っていたの。そうね、皆の前で踊れたら素敵ね。でも、無理は禁物よ。人生は長いんですもの。これからいくらでも機会はあるわ。ね、そうでしょ?」
「うん、そうだね。老いて踊れなくなるまでずっと一緒なんだ。いくらでも機会はあるね」
優しくほほ笑むジュリアの顔を見ながら、僕は泣きそうになる自分を抑えつつ、なんとか笑って見せた。
「歩けないかもと言われたあなたが、ここまで歩けるようになったんだもの。
二人で手を取り歩くだけで良いわ。ステップもターンも要らない。
ただ、あなたと向かいあい、目を合わせてリズムをとるだけで良いの。それだけで、私は幸せだわ」
ジュリアは僕の首に手を回し、耳元で優しくささやく。
「あなたがいれば、他には何もいらないのよ」
ジュリアの、愛する人のたった一言で、こんなにも幸福感に満たされていく。
叶わない想いだと自分を押さえつけ、一生この想いを口にすることはしないと誓ったのに。それなのに、今はそれが許される。
こんな幸せなことはないと、溢れる想いを僕も口にした。
「あなたの笑顔が、僕は世界で一番大好きだ。
ジュリア……、愛している」
― おしまい ―
あなたの笑顔が見たくて ~第二王子婚約者令嬢と専属従者の恋物語~ 蒼あかり @aoi-akari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます