夢見る
私の住んでいた村には、
夕陽が水平線の中にその足を入れ、今に沈むという数分間のことだ。
海風が陸風へと変わるこの数分間、いつも風が吹いている村は静寂に包まれる。
この刻は風の音も、鳥の声も聞こえない。
ただ村に波のさざめきだけが響く。
そんな寂刻には、一つの掟があった。
海風が止んでから陸風が吹き始めるまで、笑い声をあげてはいけない。
理由は家によって異なる。風流を好んだ時の殿様がこの時刻に笑い声をあげた子供の首を刎ねたからだとか、風を吹かせる神様が自分を嘲る声だと勘違いして木々をなぎ倒すからだとか、
ともかく、寂刻に笑い声をあげることは絶対にやってはいけないことなのだ。
そして私には一人の男友達がいた。
梅雨開けのある日に突然、いきなりこの村にやってきて、転校生として中学校に入らせることを要求した。
今思えばただの不審者でしかないのだが、彼は村長だった私の祖父の隠し子だと主張し、実際に何か思い当たる節があったであろう祖父の力を借りてなんなく海沿いの小さな土地と小屋を手に入れ、正式に住人として認められた。
しかし、彼は中学校で孤独を深めていた。
理由は単純で、彼があまりにも人間として不気味だったからだ。趣味はない、勉学は普通、スポーツも平均、何を言っても泣かず笑わず、これといった特徴が余りにもなさすぎた。「彼を見ていると、まるでデッサンモデルのような無機物を見ているような気分になる。しかもそれが動いてるんだから気味が悪い。」とは当時私と仲の良かった女友達の弁だ。
私はそれを聞いた時に思わず「なら意地でも笑わせてやりたい」と思った。
何故かは分からない。村長の娘として幼少期からずっと礼儀作法や家事育児を叩きこまれて座敷牢の奥に引っ込んでしまった子供の私が、余りにも異質な彼に惹かれて出てきたのかもしれない。
ともかく、それから私は積極的に彼と話すようになった。
会話は勿論弾まなかった。彼は何を言っても「ああ。」「うん。」としか返さなかったし、私が話し終わるとすぐに私から目を逸らして本を読んだり勉強をしたりした。
よくこんな会話のできない奴があの主張を祖父にたいして敢行し、成功させたものだと逆に感心してしまう事すらあった。
しかしそれでも、彼が人間だということを感じさせられる瞬間がなかった訳ではない。
彼は「一緒に帰ろう。」と言えばついて行っても何も言わなかったし、「昼休みになったら図書館に来て。」と言えばちゃんと来てくれた。彼がそういう、此方から一方的に言い渡した約束を破ることは一度もなかった。
そんな日々が続いたある日、彼が珍しく試験に落っこちて追試験を受けることになり、帰りが遅くなることがあった。
私はこれを絶好の機会だと捉えた。
追試の後の疲労を感じながら「寂刻は笑ってはいけない」というプレッシャーをかければ、「笑ってはいけない」と言われたものが面白く感じるように、彼も笑うのではないかと思ったからだ。
そして追試験が終わった後、私と彼は夕焼けが広がる海沿いの道を歩いて帰ることにした。寂刻の波の音しか聞こえない海沿いを。
「君さー、じいちゃんの隠し子なんだってね。」
「ああ。」
「それならこの村の掟も知ってるよね?寂刻、つまり今は笑っちゃいけないってやつ。」
「ああ。」
「ふーん……ところで君さ、顔、良く見せてくれる?」
「分かった。」
そうして顔を見つめた後に、私はとっておきの一言を放った。
「やっぱりじいちゃんに似てイケメンだね。好きだよ。」
結局、笑いというのは普通や予想とのギャップから生まれる。いきなりこんな事を言われれば唖然とするだろうが、今の状況ならそのギャップに思わず笑ってくれるんじゃないかと私は考えていた。
そして、実際に予想は当たった。彼は少しぽかんとした後に、大声で、笑ったのだ。
それを聞いて私は達成感でこぶしを握り締めた。
「君も僕の母親に似て綺麗だ。好きだよ。」
余りに予想外過ぎて、私は大声で笑ってしまった。
今思えば、私は彼に恋をしていたんじゃないかと思う。笑わせたいというのも無意識に創った言い訳で、本当は彼と一緒の時間を過ごしていたかったんじゃないか。実際、笑わせるためなら図書館に呼び出すのは悪手だったし。
しかし、それを今思ってもどうにもならない。
彼は寂刻の掟を破ったせいですぐに村から追い出され、私も県外の高校に下宿付きで進学させられ、今でも村に戻ることは許されていない。
彼は当然携帯電話なんて持ってなかったから連絡を取ることもできないし、そもそも素性も知らない。なんであの時まで一切笑わなかったのかも結局判明しなかった。
時々、あの時の夢を見る。静かな静かな、誰もいない、夕陽の茜に包まれた海岸で、二人っきりでずっと笑っている夢を。
DELETED Short Short [DELETED] @IDkaburi
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