捧げる
つんとした消毒液の匂いが、人の代わりに流れていく廊下。
静かな場所だった。いや、サナトリウムなのだから静かな場所でなければ駄目なのだが、その静けさは「騒音がない」というより「人の気配がしない」というものだった。
履き古したスニーカーが足音を廊下に響かせる。誰もいない、西日の差す細長い筒。あらゆる医学の先端……とまではいかないまでも先頭車両ぐらいはあるはずのこの建物に存在する確かな荒涼さが、患者の心理にどんな影響をもたらすのか、少しだけ気になった。
「なんだ、また君か。どうせ手土産も持ってないんだろう。まったく、もう少し時間の使い方というものを考えたまえ。」
廊下の端にある病室のドアを開けると、こちらを見ていた彼女がいきなりそう話しかけてきた。
「これが私にとって一番いい時間の使い方なんですよ、博士。手土産については勘弁してください、私のような貧乏学生が毎日果物なんか持ってきたら、貴方より先に飢え死にしてしまいます。」
「ならば何故ここに来る時間をアルバイトに割かないんだ?」
相変わらず人の論理の綻びに刃を突っ込むのが上手いですね、という言葉は喉に留めて、看護師さんがいつからか置いてくれるようになったベッド脇の椅子に座る。
「病状はどうですか?」
「予定通りといった所だ。最近は立ち上がるだけでも息が切れる。今日の診察では余命もあと2ヶ月あるかないかだと言われたよ。」
「そうですか……。貴方との思い出も、短いものでしたね。」
「いや、君は私が余命6ヶ月だとメールで送った日に駆けこんできてから毎日来ているから、もう4ヶ月も毎日私と顔を合わせている。あの時の君の表情は中々興味深かったぞ。」
「……。」
「……悪かった、倫理的にまずいことを言ったのは認めるから、そんな顔をしないでくれ。」
あと60日の命であると宣告を受けたにも関わらず余りにも普段と変わらない彼女に、本来なら不気味さでも感じるべきなのだろうが、ふっと笑みが漏れてしまう。
「うん、君は笑っていた方がいい。」
「そうですか、ではずっと笑気ガスでも吸っていましょうか?」
「……ああ、ジョークか。やれやれ、ジョークというのは嘘っぱちのくせに分かりにくくて困る。そういう物のどこが面白いんだ?」
「さあ?少なくとも私は愉快だと思っていますが……。」
「論理的にそれがどう愉快なのか説明できるかね?」
私が黙りこくっていると、彼女もいつも通り話を切り替える。以前は答えられないと一体何故答えられないのかと説教混じりの催促を喰らったものだが、最近はめっきり聞かなくなった。
「ところで君、一つ頼みがあるんだが、聞いてくれるかね?」
「何でしょうか?」
「できればもう私の病室に来ないでほしいのだが。」
あっさりと言い放たれた言葉に、思わず呼吸が止まる。
「……何故、ですか?」
「……君がここに来る理由が分からないからだ。」
一瞬の沈黙が思考に違和感を挟み込んでくるが、それどころではない私の脳はぐるぐるとミキサーのように思考をぐちゃぐちゃにかき乱し、ついでに違和感を吹き飛ばしてしまう。
「……そうですか。」
「ああ。」
ぐちゃぐちゃのスムージーになった思考の中に、まんまるの泡のようにシンプルなアイデアがふっと浮かぶ。私の頭脳がそれを審議しようとする前に、アイデアは実行に移されていた。
「では、私がここに来る理由を言えば、またここに来てもいいということですか?」
「……ひとまず言ってみたまえ。」
頭脳は話している最中から赤色のアラートを出していたが、ここまで来て中止することなどできない。羞恥心のブレーキに止められた横隔膜を無理やりに動かし、問いの答えとして最も適切な一節を吐き出す。
「私が貴方を好きだからです。」
「……は?」
言ってしまった。明らかに混乱している彼女をよそに、突き動かされた肺からその理由が這い出てくる。
「元々、貴方と大学で出会った時から、その論理を全ての土台とする思考の体制に憧れを抱いていたんです。ですが、貴方に質問をしたり、他愛もない話をしている時に、これが憧れではなく恋だと気づきました。それからずっと貴方に好かれることばかり考えていました。しかしその想いは所詮、自分が中心の恋でした。ここに入院する前に貴方が倒れた時、救急車の中で貴方が言ったこと、覚えていますか?」
「いや……覚えていないな……。」
「貴方は死ぬのが怖いと言っていたんです。絶大な虚無の前に、有限にして幽玄の知識と知性しか持たない自分が飲み込まれ、何も考えられないまま虚無の闇と永久を過ごすのが嫌だと。それが私を変えました。貴方に愛を、貴方の為の永遠の愛を、
「そんな物、論理的じゃないだろう……。」
「その論理こそが貴方を苦しめている枷だと私は思っています。論理は生きている間が全てですから。」
「……。」
沈黙が病室を包む。やはり彼女にこんな事を口走ってしまっては気味悪がられても仕方がないだろう。諦めて腰を上げると、彼女が声をかけてきた。
「そうか……。君の心意気はよく分かった。また明日からも来てくれ。」
「……いいんですか?」
「ああ。ずっと論理の中で探していた虚無を照らす光、まさか論理の外にあるとは思わなかったが、ともかく見つけられたんだ。溺れる者はなんとやら、とかいう一種の気の迷いに過ぎないとは思うんだが、君と話していれば希望があるかもしれないと思えたからな。また明日からも来て、私にその愛をくれ。」
「分かりました。」
そう答えてから彼女に背を向け、病室を立ち去ろうとドアに手をかけた私の背後で、彼女がそっと呟く声がかすかに聞こえた。
「……やはり、彼は笑っていた方がいいな。」
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